毒を食う鎌
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それでは、どうぞお楽しみください。
成体は、俺が引いた筋の上を歩いてきた。
距離は10歩ほど。急いではいない。2本の鎌をたたんだまま、触角だけで泥の筋をなぞり、1歩ずつ確かめるように近づいてくる。走れば、その振動で居場所を教えることになる。
幼体より頭1つ高い。たたんだ鎌の長さは、俺の前腕を2本並べたほどある。前に向き合った時は、その刃を目で追えもしなかった。
足元には、鎖でつないだ幼体の死骸が2つある。重さを抱えたままでは逃げられない。捨てれば軽くなる。
捨てるのは1つだけにした。2匹目の腹は、もう開いて紫の袋を外してある。残す3匹目の腹は閉じたままで、中には毒の色を消していた透明な袋がある。あれが俺の毒にも効くのか、まだ確かめていない。確かめる前に手放せば、右手と右脛に回った毒を止める当てがなくなる。
俺は2匹目から鎖を外し、成体の通り道の脇へ転がした。
成体は死骸の前で止まった。触角が1度だけ殻に触れ、すぐ離れる。食いつきもしなければ、鎌も開かなかった。
小さな幼体でさえ、1度見たものを覚えた。大きい方が、穴の前で嗅いだ死骸の匂いに2度乗るはずがない。
触角は死骸を離れ、また泥の筋へ戻った。俺が引きずった跡と、まだ引きずっている3匹目の重さを、同じ匂いとして追ってくる。
稼げたのは数呼吸だけだ。俺はその間に、3匹目を引きずって根の下を這った。
根の先に、白い菌木が3本並んでいた。幹の裏には紫の茸が群れている。成体がいつも食っている毒だ。風は左から右へ抜け、茸の甘い匂いを運んでいた。
ここなら、俺の血の匂いは毒の匂いに混ざる。それに幹がある。跳んでくる刃を、木に受けさせられる。
幹は太く、根は泥の上へ高く張り出していた。背中を預ければ、刃は前からしか来ない。右へ逃げれば深い泥、左は根が重なって、あの身体では入れない。逃げ道を1つに絞るのは怖かった。だが、刃の来る向きを1つに絞れるのは、ここしかない。
俺は布の中の紫の袋を指で破り、中身の半分を真ん中の菌木の根元へ流した。残りは袋ごと布へ包み直し、足元に置く。
成体を根元へ寄せ、跳ぶ先を幹の前に決めさせる。幼体と同じなら、跳ぶ直前に後脚が沈む。その瞬間に幹の陰へ入る。
根の向こうで、硬い音がした。
成体は菌木の手前で止まり、すぐには跳ばなかった。右の鎌の先で、泥を1度だけ掻く。足元に鎖が張っていないかを確かめている。
やはり、幼体の罠を見ていた。
俺は足元の袋を踏み潰した。残っていた紫の液が泥へ散り、風に乗って成体の方へ流れる。毒の匂いが急に濃くなり、触角が根元と俺のどちらを向くか、一瞬だけ揺れた。
後脚が沈んだ。
俺は菌木の根へ背中を押しつけた。成体が跳ぶ。最初の刃が、俺の頭のあった高さで幹へ食い込み、白い木屑が飛んだ。
刃が幹から抜ける前に、2本目が内側から閉じてくる。幼体と同じ動きだ。来る向きは分かっていた。
俺は左前腕へ硬殻を集め、刃の来る向きへ斜めに寝かせた。灰色の層に刃が当たり、表面を滑って外へ流れる。残ったのは浅い線が1本だけだった。
正面で待たなければ、成体の刃でも滑る。
前に向き合った時は、殻を正面に構えたまま肘の上まで切られた。幼体の刃で覚えた角度が、今度は腕を残した。
ただ、受けた衝撃までは逃がせなかった。右肩の傷が開き、温かいものが服の内側を伝う。
俺は採掘槌の鉄頭を、幹から刃を抜こうとしている成体の顔へ叩きつけた。短い木を握る指は2本が利かない。それでも、狙いは外れなかった。左目が潰れる、湿った音がした。
硬い殻の中で、そこだけが柔らかかった。成体の首が大きく反り、幹に刺さっていた刃がようやく抜ける。
成体が頭を振った。抜けた最初の刃が横へ払われ、俺の脇腹を裂く。指が開き、鉄頭が泥へ落ちた。転がった先は、成体の脚の向こうだった。
根元に流した紫の液へ、成体は頭を向けなかった。触角は、脇腹から落ちる俺の血をまっすぐ追っている。好物の毒より、目の前の獲物を選んだ。
武器はない。だが、手の届くところに紫の茸がある。
俺は鎖を振って茸の根元へ引っかけ、手元へ引き寄せた。笠を掴み、成体の頭へ投げつける。笠が触角の付け根で潰れ、紫の液が残った右目へかかった。
右目が濁った。触角の片方が、液に濡れて頭へ張りつく。
毒を食う身体でも、目と触角までは毒に慣れていない。幼体の触角に紫の液が張りついた時と同じだ。口から入れる毒と、外から浴びる毒は違う。濡れれば、狙いがずれる。
次の刃は、俺の頭の横を通った。だが成体は、幼体ほど長くは迷わなかった。濡れていない方の触角を下げ、泥の震えで俺を探し直す。
2本目の刃が来た。今度は斜めにする暇がなかった。正面で受けた硬殻が割れ、刃が左前腕の肉まで入る。
刃が抜ける前に、俺は乾いている方の触角へ鎖を2巻きして、手を離した。
成体が下がった。鎖が泥を引きずり、鉄輪が根に当たって鳴る。そのたびに、成体の頭は鎖の音の方へ向いた。1度は、鉄輪が当たった根そのものへ鎌を振り下ろし、太い根を半分まで断った。自分の触角に付いた鎖を、獲物の震えと区別できていない。
左目は潰れ、右目は濁り、片方の触角は張りつき、もう片方には鉄が鳴る。こいつが俺を探すために使っていたものを、1つずつ潰した。殺せてはいない。それでも、さっきまでのように真っすぐには来られない。
その隙に横へ転がったが、最後の一振りが左腿を浅く裂いた。
手元に残ったのは、1匹目の腹を開いた時に折った幼体の鎌の欠片だけだ。鉄頭は成体の脚の向こうにある。取りに行こうとした瞬間、右脛の菌糸が締まり、膝から力が抜けた。
この欠片では、あの殻は割れない。殺しきれないなら、ここで得たものを持って離れる。目を潰し、触角を塞ぎ、刃の受け方も分かった。それを持ったまま死ねば、何も残らない。
俺は3匹目の死骸を、鎖の音とは逆の方向へ放った。泥へ落ちた重い音に、成体の鎌が反射的に閉じる。死骸が2つに断たれ、腹の中の袋が両方とも破れた。
透明な液が、泥へ散った紫の液へ流れ込む。紫の色が、見る間に薄くなっていった。
成体は割れた死骸へ頭を寄せたが、透明な液の匂いには触角を向けなかった。毒を薄くするものには、用がないらしい。
俺は袖を裂き、その布を透明な溜まりへ押しつけて吸わせた。泥の混じった液が、布を重くする。袋2つ分でも、布1枚がやっと湿る程度しかなかった。1滴を右手の甲へ落とす。焼けるような痺れが、少し鈍った。黒ずんだ皮膚の上で、滴の触れた場所だけが元の色へ近づいていく。
効く。腹の中で毒を薄くしていた袋は、外から塗っても毒を薄くする。
成体は、まだ鎖の音と死骸の匂いの間で頭を振っていた。俺は布を握りしめ、菌木の根の間へ這い込んだ。根の下を抜けて斜面へ出る。半ば滑り落ち、止まったのは斜面の下の浅い窪みだった。
濡れた布を右手へ巻く。指先から手首へ広がっていた黒ずみが、手首の手前で止まった。
残りを右脛へ絞った。包帯の下で動いていた白い糸が縮み、皮膚の奥へ引いていく。
だが、消えなかった。縮んだ菌糸の周りが、黒く腫れ始めた。熱が脛から腰へ、腰から胸へ上がってくる。菌糸の毒と、幼体の毒と、茸の汁。混ざったものが、身体の中で別の毒になっている。
俺は記録帳を開き、震える指で書いた。
『成体。左目を潰した。触角1本に鎖。右目へ紫の毒。透明な袋は身体の外でも毒を薄くする。寄生菌糸は消えない』
その下に、もう1行を足す。
『残りなし』
布を絞っても、もう1滴も出なかった。幼体の袋は、さっきの死骸で最後だ。
斜面の上で、鉄輪が根に当たる音がした。
見上げると、斜面の縁に青黒い頭があった。左目は潰れ、右目は紫に濁っている。それでも触角に巻いた鎖を引きずりながら、俺の血の筋をたどってきた。歩みは遅い。頭を左右へ振り、震えと匂いを何度も確かめている。だが、止まらない。
あいつは毒を食って生きている。幼体の腹に毒を薄くする袋があるなら、成体の腹にもあるはずだ。
あの腹を開くしかない。
毒を食う鎌を殺し、その中身を喰らわなければ、俺の身体に回った毒は消えない。
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