呼んだのは誰か
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それでは、どうぞお楽しみください。
光る鱗粉が、倒木の表面で弾けた。
青紫の光が水のように広がり、湿った樹皮へ染み込む。
触れた場所から白い胞子が舞い上がった。
二つは混ざらず、光る粒だけが胞子の間をゆっくり沈んでくる。
俺は倒木へ身体を寄せた。
右には白い胞子の溜まった窪地。左は菌膜に覆われた幹。
前方の足場は細く、走れば右足首がもたない。
羽音が頭上を回った。
何かが枝の上を移動している。姿は見えない。
風圧だけが菌木を揺らし、そのたびに新しい鱗粉が落ちた。
槌の先へ結んだ膜が地面へ伏せた。
上から下へ風が来ている。
前へ進めば、降る粒の下を通る。
倒木の陰へ留まれば、風に押された胞子が窪地から戻ってくる。
俺は腰の灰袋を外した。
一つまみを前へ投げる。灰は鱗粉に触れず、倒木の向こうへ流れた。
地面近くには横向きの風が残っている。
身を低くすれば抜けられる。
俺は濡れ布を口元へ押しつけ、息を止めた。
採掘槌を前へつく。左足を運び、右足を引く。一歩ずつでは遅い。
それでも跳べば着地で足首が崩れる。
頭上で羽音が止まった。
静かになったわけではない。
枝が軋んでいる。
何かが止まり、こちらを見ているのかもしれなかった。
俺は顔を上げなかった。
足元へ落ちた光だけを見る。一枚。二枚。鱗粉は触れるまで遅い。
落ちる位置も分かる。右へ半歩ずれ、次は左へ寄る。
倒木の先まで六歩。
三歩目で腰の菌膜が持ち上がった。
背後から風が来る。
振り返る前に羽音が鳴った。
空気が背中を押した。俺は槌へ体重をかけたが、右足が前へ滑る。
足首に鋭い痛みが走った。
膝をつけば、顔が白い胞子の層へ入る。
俺は左手で倒木を押した。肩の傷が開く感覚があった。
身体を支えたまま、右足を引き戻す。
光る粒が左袖へ落ちた。
布の上で青紫の光が滲んだ。
熱くはない。痛みもない。
だから安全とは限らない。
俺は袖を倒木へ擦りつけた。
鱗粉は樹皮へ移らず、細かな光を残したまま布へ張りついている。
水で流すしかない。
水筒へ手を伸ばした時、枝の間から影が落ちた。
両腕より広い二枚の羽。太い胴。頭部は菌木の光に隠れ、輪郭しか見えない。
相手は降りてこなかった。上を一度横切り、また暗闇へ消える。
追っているのか、同じ場所を回っているだけなのか分からない。
俺は袖を切った。
鱗粉のついた布だけを槌の先で裂き、窪地へ落とす。
光る布片が白い胞子の中へ沈んだ。
直後、周囲の菌糸が布へ集まった。
白い糸が青紫の光を包み込み、小さな塊を作る。光は消えない。
むしろ菌糸の内側で強くなった。
見ている時間はなかった。
俺は倒木の先へ進んだ。
地面が広がる。低い菌の傘が重なり、人の膝ほどの高さで続いていた。
上から見れば隠れられる。だが傘の裏には白い胞子が溜まっている。
灰を投げる。
地面近くの風は前へ流れていた。
俺は一番低い傘を槌で持ち上げず、隙間を選んで歩いた。頭上の羽音は続いている。
光る鱗粉が傘へ落ち、青紫の斑点を増やした。
十歩進んだところで、咳が出た。
止めていた息を一度に吐く。
濡れ布の内側へ甘い匂いが入り、喉の奥が灼けた。
目を閉じた。
一度だけ深く吸いたい。
身体がそう求めている。
俺は水筒の残りを布へ垂らした。冷たさが唇へ触れる。
浅く鼻から吸い、細く口から吐く。
羽音が遠ざかった。
代わりに、別の音が聞こえた。
「レイ」
足が止まった。
声は前から来た。
菌の傘が重なる先。青白い光の間に、小さな人影が立っていた。
淡い金髪。
煤で汚れた頬。
両手で胸の前に何かを抱えている。
「遅いよ」
ミアだった。
濡れ布の下で息を吸った。
喉が痛む。
それでも、声ははっきり聞こえた。
黒鐘養護院で、朝の水を汲みに行かなかった俺を起こす声。
食事を半分に分けた時、少ない方を押し返す声。
祭壇の下で兵士に捕まりながら、俺の名前を呼んだ声。
顔も、声も覚えている。
「なんで、ここにいる」
俺の問いに、ミアは眉を寄せた。
「迎えに来たんでしょ」
「誰が」
「私が」
少女は当たり前のように答えた。
足元に白い胞子が流れている。だが、彼女は咳をしていない。口元を覆う布もない。
「ここは奈落だ」
「知ってるよ」
「どうやって下りた」
「レイが道を作ってくれたから」
答えは早かった。
だが、意味がない。
俺は道を作っていない。地上へ戻る道さえ見つけていない。
ミアは俺へ一歩近づいた。
足元の胞子が揺れない。
靴跡も残らない。
俺は槌を上げた。
少女の肩が小さく震えた。
「私だよ」
「動くな」
「どうして」
「そこに立っていろ」
ミアは唇を噛んだ。
その癖も知っていた。言いたいことを我慢する時、いつもそうする。
「帰ろう」
「どこへ」
「養護院に決まってるでしょ」
彼女が抱えているものが見えた。
黒いパンだった。
丸く、硬く焼かれた小さなパン。何度も二人で分けたものだ。
ミアはそれを割り、半分を差し出した。
焼いた穀物の匂いがするはずだった。
何も分からない。
甘い花と、湿った土の臭いしかない。
パンの味を失った。匂いまで失ったかは、記録していない。
それでも、口に入れれば何も思い出せない気がした。
俺の手がわずかに伸びた。
ミアが笑う。
「ほら。もう大丈夫」
その声を聞いた瞬間、胸の力が抜けた。
槌の先が下がる。
養護院へ帰れる。
石壁の隙間風も、薄い毛布も、空腹で眠れない夜もある。それでもミアがいる。
ここよりはいい。
地上で俺を生贄にした者たちが待っていても、今だけは考えなくていい。
ミアはもう一歩近づいた。
「もう頑張らなくていい。ここで一緒に帰ろう」
俺は右足を出した。
足首の痛みが遠い。
喉の灼ける感覚も、左肩の傷も薄くなった。
ミアが背を向ける。
金色の髪が暗闇の中で揺れた。
「こっち」
俺はついていった。
菌の傘を避ける必要はなかった。
ミアが通った場所だけ、白い胞子が左右へ分かれているように見えた。
五歩。
十歩。
頭上の羽音は消えていた。
槌に結んだ菌膜も、腰の膜も動かない。風がないのに、息は苦しくなかった。
ミアは振り返らず歩く。
「もう少しだよ」
地面が低くなっていた。
黒い水が足元へ広がっている。浅い。ミアの靴は濡れず、水面の上を進んでいた。
俺の左足は沈んだ。
冷たい水が靴へ入る。
そこで、違和感が一つ戻った。
ミアは俺が怪我をしている時、先に歩かない。
遅いと文句を言いながら、必ず俺の歩幅へ合わせる。
「止まれ」
ミアは進んだ。
「ミア」
返事がない。
俺は記録帳へ手を当てた。
革袋の中にある。濡れていない。取り出せる。
だが、少女は遠ざかっている。
今止まれば、また一人になる。
「早く」
ミアが振り返った。
笑っていた。
その向こうに、黒鐘養護院の扉が見えた。
ひびの入った石壁。歪んだ木戸。軒下に吊るした古い布。帰る場所だった。
俺はもう一歩進んだ。
右足が水へ沈む。
脛の傷へ泥が触れた。
冷たい。
水中で何かが動いた。
丸い影が一度だけ浮かび、すぐ沈んだ。
次の瞬間、細長いものが水面を裂き、俺の右脛へ当たった。
傷口へ冷たい泥を押し込まれたような感触があった。
俺は槌を水へ振り下ろした。
水が跳ねる。
硬いものには当たらない。影は菌の根の下へ消えた。
前を見る。
ミアが養護院の扉の前で待っている。
「何してるの」
「水に何かいる」
「いないよ」
「今、触られた」
「疲れてるだけ」
ミアは手を差し出した。
「帰ろう」
俺は水の中で記録帳を取り出した。
「そんなもの、後でいいでしょ」
「後では読めないかもしれない」
革の表紙を開く。
炭筆で書いた文字が並んでいる。
黒パンの味を失った。
ミアとの出来事は覚えている。
生きて帰る。
ページをめくる。
祭壇へ向かう前、ミアから渡された言葉も書いてあった。
『帰ってきて』
短い一行だった。
俺は顔を上げた。
「お前は、俺に何と言った」
ミアの笑みが止まった。
「帰ろうって言ったでしょ」
「地上でだ」
「覚えてるよ」
「言え」
少女は少し黙った。
それから、困ったように首を傾げる。
「一緒に帰ろう」
違う。
兵士に腕をつかまれながら、ミアは自分も行くとは言わなかった。
俺が戻れないかもしれないと知って、それでも言った。
帰ってきて。
一緒にではない。
自分のいる場所へ、俺だけでも戻れと願った。
俺は記録帳を閉じた。
「お前はミアじゃない」
少女の顔が歪んだ。
「どうして信じてくれないの」
「信じている」
「なら――」
「ミアを信じている」
槌を握る。
目の前の少女ではなく、記録を渡したミアを選ぶ。
俺は養護院の扉へ槌を振り下ろした。
鉄頭が木戸を砕くはずだった。
何にも当たらなかった。
扉も、石壁も、ミアの身体も崩れた。
淡い金髪が白い胞子へ変わる。
頬も、差し出した手も、無数の粒になって水面へ落ちた。
甘い匂いが一気に濃くなった。
俺は咳き込んだ。
喉が焼け、肺が空気を吐き出す。視界が白く霞み、膝から水へ落ちた。
濡れ布が外れかけている。
俺は片手で押さえ、もう片方の手で槌を支えに立った。
周囲に養護院はない。
黒い水と、太い菌木の根があるだけだった。
後ろを振り返る。
倒木は見えない。
どれだけ歩いたのか分からない。灰で見ていた風も、三本線もない。
腰の菌膜は水へ濡れ、役に立たなくなっていた。
頭上で羽音がした。
遠い。
青紫の光が枝の間を横切った。
あの鱗粉を吸った後から、声が聞こえた。
白い胞子だけか、光る粉も同じ作用を持つのかは分からない。
俺は記録帳を開き、震える手で書いた。
ミアの姿と声。
記録と違うことを言った。
見えたものより、書いた事実を信じる。
炭筆の先が紙を破りかけた。
俺は力を抜いた。
ミアの声はまだ覚えている。
さっきの偽物と同じ声だった。
それでも、本物が祭壇の下で叫んだ声まで消えたわけではない。
記録帳を革袋へ戻す。
右脛が冷えたままだった。
水から足を上げる。包帯に黒い泥がついている。
さっき水中から伸びたものが当たった場所だ。
俺は浅い場所まで下がり、布をほどいた。
傷口の周りに泥が入り込んでいる。
水筒の水で洗うには量が足りない。黒い水を使う方が危険だった。
乾いた布で泥を拭う。
白いものが一本、傷の中へ残っていた。
糸くずに見えた。
布の端で挟み、引く。
抜けない。
白い糸は傷口から出ているのではなかった。
皮膚の下を、脛の内側へ向かって伸びていた。
俺が見ている間に、その先端が一度だけ動いた。
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