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忘却喰らいの黒騎士  作者: こっさむ
第二章 帰るために奈落へ
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呼んだのは誰か

ご覧いただきありがとうございます!

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それでは、どうぞお楽しみください。

光る鱗粉(りんぷん)が、倒木の表面で弾けた。


青紫の光が水のように広がり、湿った樹皮へ染み込む。


触れた場所から白い胞子が舞い上がった。


二つは混ざらず、光る粒だけが胞子の間をゆっくり沈んでくる。


俺は倒木へ身体を寄せた。


右には白い胞子の溜まった窪地(くぼち)。左は菌膜に覆われた幹。


前方の足場は細く、走れば右足首がもたない。


羽音が頭上を回った。


何かが枝の上を移動している。姿は見えない。


風圧だけが菌木を揺らし、そのたびに新しい鱗粉(りんぷん)が落ちた。


(つち)の先へ結んだ膜が地面へ伏せた。


上から下へ風が来ている。


前へ進めば、降る粒の下を通る。


倒木の陰へ留まれば、風に押された胞子が窪地(くぼち)から戻ってくる。


俺は腰の灰袋を外した。


一つまみを前へ投げる。灰は鱗粉(りんぷん)に触れず、倒木の向こうへ流れた。


地面近くには横向きの風が残っている。


身を低くすれば抜けられる。


俺は濡れ布を口元へ押しつけ、息を止めた。


採掘(つち)を前へつく。左足を運び、右足を引く。一歩ずつでは遅い。


それでも跳べば着地で足首が崩れる。


頭上で羽音が止まった。


静かになったわけではない。


枝が(きし)んでいる。


何かが止まり、こちらを見ているのかもしれなかった。


俺は顔を上げなかった。


足元へ落ちた光だけを見る。一枚。二枚。鱗粉(りんぷん)は触れるまで遅い。


落ちる位置も分かる。右へ半歩ずれ、次は左へ寄る。


倒木の先まで六歩。


三歩目で腰の菌膜が持ち上がった。


背後から風が来る。


振り返る前に羽音が鳴った。


空気が背中を押した。俺は(つち)へ体重をかけたが、右足が前へ滑る。


足首に鋭い痛みが走った。


膝をつけば、顔が白い胞子の層へ入る。


俺は左手で倒木を押した。肩の傷が開く感覚があった。


身体を支えたまま、右足を引き戻す。


光る粒が左袖へ落ちた。


布の上で青紫の光が(にじ)んだ。


熱くはない。痛みもない。


だから安全とは限らない。


俺は袖を倒木へ(こす)りつけた。


鱗粉(りんぷん)は樹皮へ移らず、細かな光を残したまま布へ張りついている。


水で流すしかない。


水筒へ手を伸ばした時、枝の間から影が落ちた。


両腕より広い二枚の羽。太い胴。頭部は菌木の光に隠れ、輪郭しか見えない。


相手は降りてこなかった。上を一度横切り、また暗闇へ消える。


追っているのか、同じ場所を回っているだけなのか分からない。


俺は袖を切った。


鱗粉(りんぷん)のついた布だけを(つち)の先で裂き、窪地(くぼち)へ落とす。


光る布片が白い胞子の中へ沈んだ。


直後、周囲の菌糸が布へ集まった。


白い糸が青紫の光を包み込み、小さな塊を作る。光は消えない。


むしろ菌糸の内側で強くなった。


見ている時間はなかった。


俺は倒木の先へ進んだ。


地面が広がる。低い菌の傘が重なり、人の膝ほどの高さで続いていた。


上から見れば隠れられる。だが傘の裏には白い胞子が溜まっている。


灰を投げる。


地面近くの風は前へ流れていた。


俺は一番低い傘を(つち)で持ち上げず、隙間を選んで歩いた。頭上の羽音は続いている。


光る鱗粉(りんぷん)が傘へ落ち、青紫の斑点を増やした。


十歩進んだところで、(せき)が出た。


止めていた息を一度に吐く。


濡れ布の内側へ甘い匂いが入り、喉の奥が()けた。


目を閉じた。


一度だけ深く吸いたい。


身体がそう求めている。


俺は水筒の残りを布へ垂らした。冷たさが唇へ触れる。


浅く鼻から吸い、細く口から吐く。


羽音が遠ざかった。


代わりに、別の音が聞こえた。


「レイ」


足が止まった。


声は前から来た。


菌の傘が重なる先。青白い光の間に、小さな人影が立っていた。


淡い金髪。


(すす)で汚れた頬。


両手で胸の前に何かを抱えている。


「遅いよ」


ミアだった。


濡れ布の下で息を吸った。


喉が痛む。


それでも、声ははっきり聞こえた。


黒鐘養護院(こくしょうようごいん)で、朝の水を()みに行かなかった俺を起こす声。


食事を半分に分けた時、少ない方を押し返す声。


祭壇の下で兵士に捕まりながら、俺の名前を呼んだ声。


顔も、声も覚えている。


「なんで、ここにいる」


俺の問いに、ミアは眉を寄せた。


「迎えに来たんでしょ」


「誰が」


「私が」


少女は当たり前のように答えた。


足元に白い胞子が流れている。だが、彼女は(せき)をしていない。口元を覆う布もない。


「ここは奈落だ」


「知ってるよ」


「どうやって下りた」


「レイが道を作ってくれたから」


答えは早かった。


だが、意味がない。


俺は道を作っていない。地上へ戻る道さえ見つけていない。


ミアは俺へ一歩近づいた。


足元の胞子が揺れない。


靴跡も残らない。


俺は(つち)を上げた。


少女の肩が小さく震えた。


「私だよ」


「動くな」


「どうして」


「そこに立っていろ」


ミアは唇を噛んだ。


その癖も知っていた。言いたいことを我慢する時、いつもそうする。


「帰ろう」


「どこへ」


「養護院に決まってるでしょ」


彼女が抱えているものが見えた。


黒いパンだった。


丸く、硬く焼かれた小さなパン。何度も二人で分けたものだ。


ミアはそれを割り、半分を差し出した。


焼いた穀物の匂いがするはずだった。


何も分からない。


甘い花と、湿った土の臭いしかない。


パンの味を失った。匂いまで失ったかは、記録していない。


それでも、口に入れれば何も思い出せない気がした。


俺の手がわずかに伸びた。


ミアが笑う。


「ほら。もう大丈夫」


その声を聞いた瞬間、胸の力が抜けた。


(つち)の先が下がる。


養護院へ帰れる。


石壁の隙間風も、薄い毛布も、空腹で眠れない夜もある。それでもミアがいる。


ここよりはいい。


地上で俺を生贄(いけにえ)にした者たちが待っていても、今だけは考えなくていい。


ミアはもう一歩近づいた。


「もう頑張らなくていい。ここで一緒に帰ろう」


俺は右足を出した。


足首の痛みが遠い。


喉の()ける感覚も、左肩の傷も薄くなった。


ミアが背を向ける。


金色の髪が暗闇の中で揺れた。


「こっち」


俺はついていった。


菌の傘を避ける必要はなかった。


ミアが通った場所だけ、白い胞子が左右へ分かれているように見えた。


五歩。


十歩。


頭上の羽音は消えていた。


(つち)に結んだ菌膜も、腰の膜も動かない。風がないのに、息は苦しくなかった。


ミアは振り返らず歩く。


「もう少しだよ」


地面が低くなっていた。


黒い水が足元へ広がっている。浅い。ミアの靴は濡れず、水面の上を進んでいた。


俺の左足は沈んだ。


冷たい水が靴へ入る。


そこで、違和感が一つ戻った。


ミアは俺が怪我をしている時、先に歩かない。


遅いと文句を言いながら、必ず俺の歩幅へ合わせる。


「止まれ」


ミアは進んだ。


「ミア」


返事がない。


俺は記録帳へ手を当てた。


革袋の中にある。濡れていない。取り出せる。


だが、少女は遠ざかっている。


今止まれば、また一人になる。


「早く」


ミアが振り返った。


笑っていた。


その向こうに、黒鐘養護院(こくしょうようごいん)の扉が見えた。


ひびの入った石壁。(ゆが)んだ木戸。軒下(のきした)に吊るした古い布。帰る場所だった。


俺はもう一歩進んだ。


右足が水へ沈む。


(すね)の傷へ泥が触れた。


冷たい。


水中で何かが動いた。


丸い影が一度だけ浮かび、すぐ沈んだ。


次の瞬間、細長いものが水面を裂き、俺の右(すね)へ当たった。


傷口へ冷たい泥を押し込まれたような感触があった。


俺は(つち)を水へ振り下ろした。


水が跳ねる。


硬いものには当たらない。影は菌の根の下へ消えた。


前を見る。


ミアが養護院の扉の前で待っている。


「何してるの」


「水に何かいる」


「いないよ」


「今、触られた」


「疲れてるだけ」


ミアは手を差し出した。


「帰ろう」


俺は水の中で記録帳を取り出した。


「そんなもの、後でいいでしょ」


「後では読めないかもしれない」


革の表紙を開く。


炭筆で書いた文字が並んでいる。


黒パンの味を失った。


ミアとの出来事は覚えている。


生きて帰る。


ページをめくる。


祭壇へ向かう前、ミアから渡された言葉も書いてあった。


『帰ってきて』


短い一行だった。


俺は顔を上げた。


「お前は、俺に何と言った」


ミアの笑みが止まった。


「帰ろうって言ったでしょ」


「地上でだ」


「覚えてるよ」


「言え」


少女は少し黙った。


それから、困ったように首を傾げる。


「一緒に帰ろう」


違う。


兵士に腕をつかまれながら、ミアは自分も行くとは言わなかった。


俺が戻れないかもしれないと知って、それでも言った。


帰ってきて。


一緒にではない。


自分のいる場所へ、俺だけでも戻れと願った。


俺は記録帳を閉じた。


「お前はミアじゃない」


少女の顔が(ゆが)んだ。


「どうして信じてくれないの」


「信じている」


「なら――」


「ミアを信じている」


(つち)を握る。


目の前の少女ではなく、記録を渡したミアを選ぶ。


俺は養護院の扉へ(つち)を振り下ろした。


鉄頭が木戸を砕くはずだった。


何にも当たらなかった。


扉も、石壁も、ミアの身体も崩れた。


淡い金髪が白い胞子へ変わる。


頬も、差し出した手も、無数の粒になって水面へ落ちた。


甘い匂いが一気に濃くなった。


俺は(せき)き込んだ。


喉が焼け、肺が空気を吐き出す。視界が白く霞み、膝から水へ落ちた。


濡れ布が外れかけている。


俺は片手で押さえ、もう片方の手で(つち)を支えに立った。


周囲に養護院はない。


黒い水と、太い菌木の根があるだけだった。


後ろを振り返る。


倒木は見えない。


どれだけ歩いたのか分からない。灰で見ていた風も、三本線もない。


腰の菌膜は水へ濡れ、役に立たなくなっていた。


頭上で羽音がした。


遠い。


青紫の光が枝の間を横切った。


あの鱗粉(りんぷん)を吸った後から、声が聞こえた。


白い胞子だけか、光る粉も同じ作用を持つのかは分からない。


俺は記録帳を開き、震える手で書いた。


ミアの姿と声。


記録と違うことを言った。


見えたものより、書いた事実を信じる。


炭筆の先が紙を破りかけた。


俺は力を抜いた。


ミアの声はまだ覚えている。


さっきの偽物と同じ声だった。


それでも、本物が祭壇の下で叫んだ声まで消えたわけではない。


記録帳を革袋へ戻す。


(すね)が冷えたままだった。


水から足を上げる。包帯に黒い泥がついている。


さっき水中から伸びたものが当たった場所だ。


俺は浅い場所まで下がり、布をほどいた。


傷口の周りに泥が入り込んでいる。


水筒の水で洗うには量が足りない。黒い水を使う方が危険だった。


乾いた布で泥を拭う。


白いものが一本、傷の中へ残っていた。


糸くずに見えた。


布の端で挟み、引く。


抜けない。


白い糸は傷口から出ているのではなかった。


皮膚の下を、(すね)の内側へ向かって伸びていた。


俺が見ている間に、その先端が一度だけ動いた。

お読みいただきありがとうございました!

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感想や「ここが良かった」といったご意見もお待ちしております。

それでは、次回の更新でお会いしましょう!

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