息を止める森
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それでは、どうぞお楽しみください。
死者の口から伸びた菌糸は、呼吸するように揺れていた。
胸は動いていない。脈もない。
それでも唇の奥から出た白い糸だけが、周囲の風に逆らって縮み、また伸びている。
俺は採掘槌を両手で持ち直した。
柄を握る右掌が痛んだ。左肩は上げられない。
槌を振るなら腰より下しか狙えない。
それでも、死者がガラムのように立ち上がった時は、菌糸ではなく脚を壊す。
待った。
遺体は動かなかった。
代わりに、喉の奥から小さな音がした。
ぷつ、と湿ったものが弾ける。
口の端から白い粒が三つ吐き出された。
粒は頬へ落ち、すでに皮膚へ張りついていた菌糸へ吸い込まれた。
俺は一歩下がった。
人の身体を使って、胞子を増やしている。
死体を切り離すべきか迷った。菌糸を断てば動きを止められるかもしれない。
だが、槌を当てた衝撃で胞子が舞えば、濡れ布だけでは防げない。
俺は腰袋から取った灰へ目を落とした。
革袋の口を閉じる前に、指先ほどの灰が土へこぼれていた。
白い菌糸は水滴へ集まったのに、その灰へは近づいていない。
触れる直前で先端を曲げ、避けるように左右へ分かれていた。
灰が嫌いなのか。
確かめるには量が少ない。
俺は袋を傾けず、乾いた布の端で灰をひとつまみ取った。
遺体から二歩離れた菌糸へ、指先から落とす。
灰は白い糸の上へ積もった。
菌糸が縮む。
一本だけではない。
灰に触れた周囲の糸が土の下へ潜り、黒い地面に小さな空白ができた。
毒を消したわけではない。
白い粒は残っている。灰の上へ落ちた胞子も、動かず積もっただけだった。
水を垂らせば別の反応をするかもしれない。
俺は水筒へ手を伸ばし、止めた。
運べる水は少ない。ここで使う必要はなかった。
灰には別の使い道がある。
採掘槌の先へ結んだ布片は、空気に押されれば揺れる。
だが風が弱い場所では、重さで垂れたまま動かない。
胞子は見えても、青白い光が重なると流れる向きを見失う。
灰なら、落ち方で分かる。
俺は遺体の腰袋を借りたままにした。
三本線の刻まれた革手甲へ一度目を向け、灰の袋を自分の腰へ結ぶ。
「道を見るために使う」
口元の布に声が吸われた。
死者は答えない。
俺は記録帳を開いた。探索隊員の遺体。口から菌糸。灰を菌糸が避ける。
そこまで書いたところで咳が出た。
息を吐き切る前に帳面を閉じる。
濡れ布の内側が温かくなっていた。水分も減っている。
水筒から数滴だけ含ませると、喉へ入る甘さが薄くなった。
長く留まれない。
俺は遺体の周囲を回り、三本線の続きを探した。
菌木の根元には見つからない。地面の足跡も、死者の前で途切れている。
一人だけがここで倒れ、残りは別の方向へ進んだのか。
それとも、印を残す者が最後だったのか。
死者の左手が、土へ半分埋もれていた。
指は握られている。
槌の柄で土を払うと、指の間から細い布が出た。
風を見るために裂いたような細さだった。
布の先は右前方へ伸び、その先で白い菌糸に呑まれている。
死ぬ前に、何かを指した。
俺は右前方へ灰をひとつまみ投げた。
粉はすぐには落ちなかった。斜め上へ運ばれ、二本の菌木の間へ吸い込まれる。
そこだけ白い胞子も同じ方向へ流れていた。
道標は石や木に刻むだけではない。
この男は、自分の手で風を残した。
俺は布の向く先へ進んだ。
菌木の間を抜けると、地面が少し高くなった。
低い場所には白い胞子が溜まり、膝の高さで霧のように動いている。
高い根の上は風が通り、黒い表面が見えていた。
右足首へ負担をかけないよう、根の低い場所を選ぶ。
一歩目は左足。槌を先につき、右足を引き寄せる。
根は乾いていたが、丸く滑りやすい。足を置くたび右足首の内側が熱を持った。
五歩先で根が二つに分かれた。
左は幅が広い。右は狭いが、白い粒が少ない。
俺は布片を差し出した。
左では動かない。右では先端が奥へ引かれた。
灰を落とす。
左の粉は足元へ沈み、そのまま薄い胞子の層に消えた。
右の粉は根に沿って流れ、奥の暗い隙間へ運ばれる。
右を選んだ。
身体を横向きにし、菌木へ触れないよう進む。
左肩の傷が幹へ近づくたび、息が浅くなった。濡れ布を通る甘い匂いが濃くなる。
息を止めた。
十歩。
喉が息を求める。
十五歩。
胸が締まり、視界の端が暗くなった。
前方で根が終わり、風の通る空間が見えた。あと四歩だった。
右足が滑った。
俺は槌を根へ突き立てた。鉄の先が硬い表面を削り、身体が止まる。
左肩が幹へ当たり、傷の奥に熱い痛みが走った。
息が漏れた。
甘い空気が濡れ布を抜ける。
喉の奥が痒んだ。咳をすれば根から落ちる。
俺は歯を食いしばり、槌の柄へ体重を移した。
右足を持ち上げ、根の平らな場所へ置き直す。あと四歩を、息を吐きながら進んだ。
空間へ出たところで膝をついた。
咳が続いた。
濡れ布を外せない。布の上から口を押さえ、短く吐く。
吸う量を減らしても、身体が勝手に深い息を求める。
目から涙が落ちた。
俺は水筒を開き、口を湿らせるだけの水を含んだ。
飲み込まず、喉の入口を濡らしてから少しずつ飲む。
咳はすぐには止まらなかった。
それでも、さっきいた根の間より空気は動いている。
槌の布が横へ伸び、白い胞子は頭上を通って奥へ流れていた。
俺は背の低い菌の陰へ座り、呼吸が戻るのを待った。
硬殻で胸や首の表面を覆うことはできる。
だが、口を閉じても鼻から空気は入る。鼻を塞げば、次は口を開くしかない。
皮膚を硬くしても、身体の内側は変わらなかった。
俺は右前腕へ意識を集めた。
硬殻が灰色の層を作る。
傷のある皮膚が締めつけられ、鈍い痛みが増した。その状態で一度だけ息を吸う。
喉の痒みは変わらない。
すぐに硬化を解いた。
分かっていたことを、痛みで確かめただけだった。
ガラムの剣は止められた。灰の下を這う魔物の殻も、この力の元になった。
だが、形のないものへ当てる場所はない。
俺は記録帳へ短く書いた。
硬殻は胞子を防がない。
風を探す。
灰を使う。
炭筆の先を止めた。
黒鐘養護院でも、炉の火が消えた時に灰を片づけたことはある。
薪を運んだことも覚えている。
だが、木肌がどれほどざらついていたかは出てこない。
今、指についている灰は細かく、爪の間へ入った。冷たくも温かくもない。
この感触まで失えば、次は何を手掛かりにする。
帳面の端へ、指先の灰、と書いた。
失ってはいない。
今はまだ。
俺は立ち上がった。
空間の先には三つの通り道があった。
正面は発光する大きな傘に塞がれ、左は黒い水が溜まった窪地へ下っている。
右は菌木が疎らで、足元の根も低い。
白い胞子は、どの道にも漂っていた。
量だけなら左が少ない。水面近くへ沈んだ粒は濡れ、白い膜になっている。
だが、風はない。甘い匂いも水面へ溜まっていた。
正面へ灰を投げる。
粉は大きな傘へ当たり、真下へ落ちた。
傘の裏側から新しい胞子が吐き出され、灰を覆う。
右へ投げる。
灰は地面へ落ちる前に、奥へ細く引かれた。
右だ。
俺は槌の布と、灰の流れを交互に見ながら進んだ。
十歩ごとに立ち止まるのはやめた。止まる場所へ胞子が溜まる。
代わりに、風が弱くなったら三歩戻る。
呼吸を止めるのは、濃い場所を横切る時だけにした。
吸わずに歩き続けることはできない。
だから、息を止める場所を選ぶ。
菌木の並びも少しずつ変わった。
入口近くでは幹同士が絡み、半透明の膜が何枚も垂れていた。
ここでは幹の間が広く、上の枝も高い。
白い菌糸は地面を覆っているが、風に晒された部分は細く乾いていた。
俺は乾いた菌糸の上へ灰を落とした。
糸は縮まない。
動きもしなかった。
湿った場所の菌糸だけが、灰を避けて土へ潜る。
死者の腰袋で灰が乾いていたのは偶然ではないのかもしれない。
濡れれば役に立たなくなるのか、乾いた場所を示すために使っていたのか。
答えはまだ出ない。
灰を使い切る前に、確かめる方法を増やす必要がある。
俺は地面へ落ちていた薄い菌膜を拾った。
樹脂の抜けたものは軽く、手のひらほどの大きさがある。
端を細く裂き、二枚を別々の長さにした。
一枚は槌の先。
もう一枚は腰の鎖。
槌の布は前方の風を見る。腰の膜は、自分の周囲へ胞子が戻ってきた時に揺れる。
歩き出すと、二枚は同じ方向へ流れた。
しばらくして、槌の先だけが左へ向いた。腰の膜は動かない。
前に風がある。
俺は左へ進んだ。
数歩後、今度は腰の膜が背中側へ持ち上がった。
前から来た風が菌木へ当たり、後ろから巻いている。
俺はその場を離れた。
白い胞子が遅れて渦を作り、さっきまで俺の頭があった場所へ集まった。
見えない風にも、形がある。
道は最初から地面にあるわけではなかった。
流れが変わるたび、通れる場所も変わる。
俺は三本線を探すのを一度やめた。探索隊の印が間違っているのではない。
残した時と今で、風が同じとは限らない。
頼るなら、古い道ではなく、今動いている空気だった。
さらに奥へ進むと、青白い光が強くなった。
菌木の幹に、細かな光点が増えている。傘の縁だけではない。
枝から垂れた丸い袋が内側から光り、膨らむたび薄い皮の向こうで何かが動いた。
俺は足を止めず、光の少ない地面を選んだ。
喉の灼ける痛みは残っている。咳は間を置いて出た。
視界の霞みは濡れ布を絞り直すと少し引いたが、右目だけ涙が止まらない。
水筒はまだ半分近く残っていた。
水漏れは一滴ずつ続いている。腰へ当たるたび、補修した菌膜が軋んだ。
次に止まれる場所で締め直す必要がある。
前方に、倒れた菌木が見えた。
根元から折れ、別の幹へ斜めにかかっている。
その下には人一人が通れる隙間があり、白い胞子は上を流れていた。
灰を投げる。
粉は隙間へ入らず、倒木の表面に沿って上へ運ばれた。
下は空気が淀んでいる。
俺は潜らず、倒木の右側を回った。
地面は狭い。右には胞子の溜まった窪地、左には倒木の湿った表面がある。
足を滑らせれば、どちらかへ触れる。
槌を先へつき、左足を運ぶ。
右足を引き寄せる。
一歩ずつ進んだ。
半ばまで来た時、頭上で低い音がした。
ぶうん。
空気が押し下げられた。
槌の布と腰の膜が、同時に地面へ張りつく。白い胞子が上から叩き落とされた。
俺は息を止め、倒木へ背を寄せた。
枝の間を大きな影が三つ横切る。
蛾に似ていた。広げた翅は俺の両腕より大きく、縁から青紫の光る粉を落としている。
一匹が急降下した。
灰を投げる。
粉は羽ばたきに押され、俺の左から右へ流れた。
影も同じ軌道で来る。
俺は左へ身体を倒した。
翅の端が頭上を掠め、光る鱗粉が頬へ落ちる。
熱くはない。
その代わり、倒木の表面が一瞬だけ養護院の床に見えた。
幻だ。
俺は目を閉じず、灰の流れだけを追った。
二匹目は正面。三匹目は右から回り込む。
挟まれる。
俺は倒木の下へ潜った。空気は淀んでいるが、翅は入らない。
一匹が幹へぶつかり、光る袋が破れた。白い胞子と青紫の鱗粉が混ざって落ちる。
息を止め続けることはできない。
俺は灰を地面へ線のように撒いた。
舞う粉で風向きを読む。
次の羽ばたきが来る直前、風上へ三歩走る。鱗粉は背後へ流れた。
蛾の一匹が追う。
俺は振り返らず、鎖を倒木の折れた枝へ巻いた。
羽音が近づく。
鎖を引く。
腐った枝が落ち、蛾の片方の翅を地面へ押さえた。
俺は採掘槌を振り下ろした。
一撃目で翅の骨が折れる。
二撃目を頭へ入れる前に、残り二匹の羽ばたきが同時に来た。
白い胞子が壁のように立つ。
俺は仕留めるのを諦め、倒木の反対側へ転がった。
濡れ布を押さえ、息を吐きながら走る。
倒れた蛾が暴れ、その周囲へ二匹が集まった。
仲間を助けているのではない。傷口から漏れる液へ口を伸ばしている。
俺は振り返らなかった。
灰を前へ撒き、風の通る狭い根の間へ入る。大きな翅はそこを通れない。
羽音が遠ざかるまで歩き続けた。
火は使わなかった。
燃やせば追い払えたかもしれない。だが、この森で何が燃え、どの胞子が弾けるか分からない。
足を止めた時、肩と髪に青紫の鱗粉が残っていた。
払っても光は消えない。
前方の暗闇で、人影が立っていた。
小さな肩。細い腕。
「レイ」
ミアの声がした。
違う。
そう分かっているのに、足が止まった。
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