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忘却喰らいの黒騎士  作者: こっさむ
第二章 帰るために奈落へ
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息を止める森

ご覧いただきありがとうございます!

よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!


それでは、どうぞお楽しみください。

死者の口から伸びた菌糸は、呼吸するように揺れていた。


胸は動いていない。脈もない。


それでも唇の奥から出た白い糸だけが、周囲の風に逆らって縮み、また伸びている。


俺は採掘(つち)を両手で持ち直した。


柄を握る右(てのひら)が痛んだ。左肩は上げられない。


(つち)を振るなら腰より下しか狙えない。


それでも、死者がガラムのように立ち上がった時は、菌糸ではなく脚を壊す。


待った。


遺体は動かなかった。


代わりに、喉の奥から小さな音がした。


ぷつ、と湿ったものが弾ける。


口の端から白い粒が三つ吐き出された。


粒は頬へ落ち、すでに皮膚へ張りついていた菌糸へ吸い込まれた。


俺は一歩下がった。


人の身体を使って、胞子を増やしている。


死体を切り離すべきか迷った。菌糸を断てば動きを止められるかもしれない。


だが、(つち)を当てた衝撃で胞子が舞えば、濡れ布だけでは防げない。


俺は腰袋から取った灰へ目を落とした。


革袋の口を閉じる前に、指先ほどの灰が土へこぼれていた。


白い菌糸は水滴へ集まったのに、その灰へは近づいていない。


触れる直前で先端を曲げ、避けるように左右へ分かれていた。


灰が嫌いなのか。


確かめるには量が少ない。


俺は袋を傾けず、乾いた布の端で灰をひとつまみ取った。


遺体から二歩離れた菌糸へ、指先から落とす。


灰は白い糸の上へ積もった。


菌糸が縮む。


一本だけではない。


灰に触れた周囲の糸が土の下へ潜り、黒い地面に小さな空白ができた。


毒を消したわけではない。


白い粒は残っている。灰の上へ落ちた胞子も、動かず積もっただけだった。


水を垂らせば別の反応をするかもしれない。


俺は水筒へ手を伸ばし、止めた。


運べる水は少ない。ここで使う必要はなかった。


灰には別の使い道がある。


採掘(つち)の先へ結んだ布片は、空気に押されれば揺れる。


だが風が弱い場所では、重さで垂れたまま動かない。


胞子は見えても、青白い光が重なると流れる向きを見失う。


灰なら、落ち方で分かる。


俺は遺体の腰袋を借りたままにした。


三本線の刻まれた革手甲へ一度目を向け、灰の袋を自分の腰へ結ぶ。


「道を見るために使う」


口元の布に声が吸われた。


死者は答えない。


俺は記録帳を開いた。探索隊員の遺体。口から菌糸。灰を菌糸が避ける。


そこまで書いたところで(せき)が出た。


息を吐き切る前に帳面を閉じる。


濡れ布の内側が温かくなっていた。水分も減っている。


水筒から数滴だけ含ませると、喉へ入る甘さが薄くなった。


長く留まれない。


俺は遺体の周囲を回り、三本線の続きを探した。


菌木の根元には見つからない。地面の足跡も、死者の前で途切れている。


一人だけがここで倒れ、残りは別の方向へ進んだのか。


それとも、印を残す者が最後だったのか。


死者の左手が、土へ半分埋もれていた。


指は握られている。


(つち)の柄で土を払うと、指の間から細い布が出た。


風を見るために裂いたような細さだった。


布の先は右前方へ伸び、その先で白い菌糸に()まれている。


死ぬ前に、何かを指した。


俺は右前方へ灰をひとつまみ投げた。


粉はすぐには落ちなかった。斜め上へ運ばれ、二本の菌木の間へ吸い込まれる。


そこだけ白い胞子も同じ方向へ流れていた。


道標は石や木に刻むだけではない。


この男は、自分の手で風を残した。


俺は布の向く先へ進んだ。


菌木の間を抜けると、地面が少し高くなった。


低い場所には白い胞子が溜まり、膝の高さで霧のように動いている。


高い根の上は風が通り、黒い表面が見えていた。


右足首へ負担をかけないよう、根の低い場所を選ぶ。


一歩目は左足。(つち)を先につき、右足を引き寄せる。


根は乾いていたが、丸く滑りやすい。足を置くたび右足首の内側が熱を持った。


五歩先で根が二つに分かれた。


左は幅が広い。右は狭いが、白い粒が少ない。


俺は布片を差し出した。


左では動かない。右では先端が奥へ引かれた。


灰を落とす。


左の粉は足元へ沈み、そのまま薄い胞子の層に消えた。


右の粉は根に沿って流れ、奥の暗い隙間へ運ばれる。


右を選んだ。


身体を横向きにし、菌木へ触れないよう進む。


左肩の傷が幹へ近づくたび、息が浅くなった。濡れ布を通る甘い匂いが濃くなる。


息を止めた。


十歩。


喉が息を求める。


十五歩。


胸が締まり、視界の端が暗くなった。


前方で根が終わり、風の通る空間が見えた。あと四歩だった。


右足が滑った。


俺は(つち)を根へ突き立てた。鉄の先が硬い表面を削り、身体が止まる。


左肩が幹へ当たり、傷の奥に熱い痛みが走った。


息が漏れた。


甘い空気が濡れ布を抜ける。


喉の奥が(かゆ)んだ。(せき)をすれば根から落ちる。


俺は歯を食いしばり、(つち)の柄へ体重を移した。


右足を持ち上げ、根の平らな場所へ置き直す。あと四歩を、息を吐きながら進んだ。


空間へ出たところで膝をついた。


(せき)が続いた。


濡れ布を外せない。布の上から口を押さえ、短く吐く。


吸う量を減らしても、身体が勝手に深い息を求める。


目から涙が落ちた。


俺は水筒を開き、口を湿らせるだけの水を含んだ。


飲み込まず、喉の入口を濡らしてから少しずつ飲む。


(せき)はすぐには止まらなかった。


それでも、さっきいた根の間より空気は動いている。


(つち)の布が横へ伸び、白い胞子は頭上を通って奥へ流れていた。


俺は背の低い菌の陰へ座り、呼吸が戻るのを待った。


硬殻(こうかく)で胸や首の表面を覆うことはできる。


だが、口を閉じても鼻から空気は入る。鼻を塞げば、次は口を開くしかない。


皮膚を硬くしても、身体の内側は変わらなかった。


俺は右前腕へ意識を集めた。


硬殻(こうかく)が灰色の層を作る。


傷のある皮膚が締めつけられ、鈍い痛みが増した。その状態で一度だけ息を吸う。


喉の(かゆ)みは変わらない。


すぐに硬化を解いた。


分かっていたことを、痛みで確かめただけだった。


ガラムの剣は止められた。灰の下を()う魔物の殻も、この力の元になった。


だが、形のないものへ当てる場所はない。


俺は記録帳へ短く書いた。


硬殻(こうかく)は胞子を防がない。


風を探す。


灰を使う。


炭筆の先を止めた。


黒鐘養護院(こくしょうようごいん)でも、炉の火が消えた時に灰を片づけたことはある。


薪を運んだことも覚えている。


だが、木肌がどれほどざらついていたかは出てこない。


今、指についている灰は細かく、爪の間へ入った。冷たくも温かくもない。


この感触まで失えば、次は何を手掛かりにする。


帳面の端へ、指先の灰、と書いた。


失ってはいない。


今はまだ。


俺は立ち上がった。


空間の先には三つの通り道があった。


正面は発光する大きな傘に塞がれ、左は黒い水が溜まった窪地へ下っている。


右は菌木が(まば)らで、足元の根も低い。


白い胞子は、どの道にも漂っていた。


量だけなら左が少ない。水面近くへ沈んだ粒は濡れ、白い膜になっている。


だが、風はない。甘い匂いも水面へ溜まっていた。


正面へ灰を投げる。


粉は大きな傘へ当たり、真下へ落ちた。


傘の裏側から新しい胞子が吐き出され、灰を覆う。


右へ投げる。


灰は地面へ落ちる前に、奥へ細く引かれた。


右だ。


俺は(つち)の布と、灰の流れを交互に見ながら進んだ。


十歩ごとに立ち止まるのはやめた。止まる場所へ胞子が溜まる。


代わりに、風が弱くなったら三歩戻る。


呼吸を止めるのは、濃い場所を横切る時だけにした。


吸わずに歩き続けることはできない。


だから、息を止める場所を選ぶ。


菌木の並びも少しずつ変わった。


入口近くでは幹同士が絡み、半透明の膜が何枚も垂れていた。


ここでは幹の間が広く、上の枝も高い。


白い菌糸は地面を覆っているが、風に(さら)された部分は細く乾いていた。


俺は乾いた菌糸の上へ灰を落とした。


糸は縮まない。


動きもしなかった。


湿った場所の菌糸だけが、灰を避けて土へ潜る。


死者の腰袋で灰が乾いていたのは偶然ではないのかもしれない。


濡れれば役に立たなくなるのか、乾いた場所を示すために使っていたのか。


答えはまだ出ない。


灰を使い切る前に、確かめる方法を増やす必要がある。


俺は地面へ落ちていた薄い菌膜を拾った。


樹脂の抜けたものは軽く、手のひらほどの大きさがある。


端を細く裂き、二枚を別々の長さにした。


一枚は(つち)の先。


もう一枚は腰の鎖。


(つち)の布は前方の風を見る。腰の膜は、自分の周囲へ胞子が戻ってきた時に揺れる。


歩き出すと、二枚は同じ方向へ流れた。


しばらくして、(つち)の先だけが左へ向いた。腰の膜は動かない。


前に風がある。


俺は左へ進んだ。


数歩後、今度は腰の膜が背中側へ持ち上がった。


前から来た風が菌木へ当たり、後ろから巻いている。


俺はその場を離れた。


白い胞子が遅れて渦を作り、さっきまで俺の頭があった場所へ集まった。


見えない風にも、形がある。


道は最初から地面にあるわけではなかった。


流れが変わるたび、通れる場所も変わる。


俺は三本線を探すのを一度やめた。探索隊の印が間違っているのではない。


残した時と今で、風が同じとは限らない。


頼るなら、古い道ではなく、今動いている空気だった。


さらに奥へ進むと、青白い光が強くなった。


菌木の幹に、細かな光点が増えている。傘の縁だけではない。


枝から垂れた丸い袋が内側から光り、膨らむたび薄い皮の向こうで何かが動いた。


俺は足を止めず、光の少ない地面を選んだ。


喉の()ける痛みは残っている。(せき)は間を置いて出た。


視界の霞みは濡れ布を絞り直すと少し引いたが、右目だけ涙が止まらない。


水筒はまだ半分近く残っていた。


水漏れは一滴ずつ続いている。腰へ当たるたび、補修した菌膜が(きし)んだ。


次に止まれる場所で締め直す必要がある。


前方に、倒れた菌木が見えた。


根元から折れ、別の幹へ斜めにかかっている。


その下には人一人が通れる隙間があり、白い胞子は上を流れていた。


灰を投げる。


粉は隙間へ入らず、倒木の表面に沿って上へ運ばれた。


下は空気が淀んでいる。


俺は潜らず、倒木の右側を回った。


地面は狭い。右には胞子の溜まった窪地、左には倒木の湿った表面がある。


足を滑らせれば、どちらかへ触れる。


(つち)を先へつき、左足を運ぶ。


右足を引き寄せる。


一歩ずつ進んだ。


半ばまで来た時、頭上で低い音がした。


ぶうん。


空気が押し下げられた。


(つち)の布と腰の膜が、同時に地面へ張りつく。白い胞子が上から叩き落とされた。


俺は息を止め、倒木へ背を寄せた。


枝の間を大きな影が三つ横切る。


蛾に似ていた。広げた(はね)は俺の両腕より大きく、縁から青紫の光る粉を落としている。


一匹が急降下した。


灰を投げる。


粉は羽ばたきに押され、俺の左から右へ流れた。


影も同じ軌道で来る。


俺は左へ身体を倒した。


(はね)の端が頭上を(かす)め、光る鱗粉(りんぷん)が頬へ落ちる。


熱くはない。


その代わり、倒木の表面が一瞬だけ養護院の床に見えた。


幻だ。


俺は目を閉じず、灰の流れだけを追った。


二匹目は正面。三匹目は右から回り込む。


挟まれる。


俺は倒木の下へ潜った。空気は淀んでいるが、(はね)は入らない。


一匹が幹へぶつかり、光る袋が破れた。白い胞子と青紫の鱗粉(りんぷん)が混ざって落ちる。


息を止め続けることはできない。


俺は灰を地面へ線のように()いた。


舞う粉で風向きを読む。


次の羽ばたきが来る直前、風上へ三歩走る。鱗粉(りんぷん)は背後へ流れた。


蛾の一匹が追う。


俺は振り返らず、鎖を倒木の折れた枝へ巻いた。


羽音が近づく。


鎖を引く。


腐った枝が落ち、蛾の片方の(はね)を地面へ押さえた。


俺は採掘(つち)を振り下ろした。


一撃目で(はね)の骨が折れる。


二撃目を頭へ入れる前に、残り二匹の羽ばたきが同時に来た。


白い胞子が壁のように立つ。


俺は仕留めるのを諦め、倒木の反対側へ転がった。


濡れ布を押さえ、息を吐きながら走る。


倒れた蛾が暴れ、その周囲へ二匹が集まった。


仲間を助けているのではない。傷口から漏れる液へ口を伸ばしている。


俺は振り返らなかった。


灰を前へ()き、風の通る狭い根の間へ入る。大きな(はね)はそこを通れない。


羽音が遠ざかるまで歩き続けた。


火は使わなかった。


燃やせば追い払えたかもしれない。だが、この森で何が燃え、どの胞子が弾けるか分からない。


足を止めた時、肩と髪に青紫の鱗粉(りんぷん)が残っていた。


払っても光は消えない。


前方の暗闇で、人影が立っていた。


小さな肩。細い腕。


「レイ」


ミアの声がした。


違う。


そう分かっているのに、足が止まった。

お読みいただきありがとうございました!

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それでは、次回の更新でお会いしましょう!

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