甘い空気
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それでは、どうぞお楽しみください。
白い粒が、濡れた布の上で細い糸を伸ばしていた。
俺は息を止めたまま、布を水受けの縁から払い落とした。
粒は石へ落ちても消えない。
水を含んだ糸が灰色の床へ貼りつき、根を探すように何度も先を曲げた。
扉の隙間から、同じものが流れ込んでくる。
一粒ずつなら雪に見えた。
だが、青白い光の中では数えられないほど重なり、ゆっくり渦を巻いていた。
甘い匂いも濃くなっている。
息を止めていられる間に、俺は水受けの脇へ下がった。
閉じる方法を探す。
扉の表側には三本の溝と、ガラムの胸から散った青い光があった。
内側には取っ手も鎖もない。
左右の石板へ両手をかけて押したが、片方だけで俺の身体より重い。
右足へ力を入れた瞬間、熱を持った足首が崩れた。
俺は膝を床へついた。
止めていた息が、喉から漏れた。
一度。
甘い空気が口へ入った。
潰した花の匂いの奥に、湿った土と腐った果実の臭いが混じっていた。
舌の奥が痒くなる。俺は袖で口を塞ぎ、浅く息を吸った。
二度目は鼻から入った。
鼻の奥を細い針で掻かれたような刺激が走り、両目から涙が出た。
視界の端が白く霞む。
咳を抑えようとしたが、喉の痒みが急に灼ける痛みへ変わった。
「っ、げほ……!」
身体が勝手に息を吐いた。
続けて吸い込んだ空気が、さらに喉を焼いた。咳が止まらない。
左肩と脇腹の傷が呼吸のたびに引かれ、右手を床へつくと掌の裂傷が開いた。
扉を閉じるのは無理だ。
ここへ留まれば、流れ込む粒は増える。
俺は水受けの脇に置いた布を掴んだ。
傷へ巻く分を残し、端を採掘槌へ押し当てて裂く。
濡らした布で口と鼻を覆い、後頭部で結んだ。
もう一度、息を吸う。
冷たい水の感触が口元へ張りついた。甘い匂いは薄くなったが、消えてはいない。
喉の奥へ入る刺激も残っていた。
防げるわけではない。
吸い込む量を減らすだけだ。
俺は涙を拭い、残った布で露出した傷を確かめた。
右前腕と左肩の包帯は濡れている。白い粒が二つ、左肩の布へついていた。
すぐに水をかけて落とす。包帯の内側まで入った様子はない。
新しい血と水で濡れた布へ粒が貼りついても、さっきのような糸は伸びなかった。
理由は分からない。
分からないものを安全とは呼べない。
俺は傷を覆い直した。首の圧迫痕へは巻けない。
喉は外側から触れても痛み、咳をするたび中からも焼けた。
壊れた水筒を拾う。
革の胴には裂け目があり、そのままでは水を入れてもすぐ漏れる。
以前は音を出すために石を入れた。今は中身を空にして洗い、水受けへ沈めた。
水が満ちる。
持ち上げると、底に近い裂け目から細い線になって落ちた。
布を押し込めば、少しは遅くできる。
俺は一番小さな布片を裂け目へ当て、鎖から外した細い鉄輪で縛った。
水筒を横にすると漏れたが、立てておけば一滴ずつになった。
長くは持たない。
それでも、次の水場がすぐにあるとは限らなかった。
俺は水筒へ半分だけ水を入れた。重くすれば裂け目が広がる。
栓の代わりに丸めた布を口へ詰め、腰の鎖へ結ぶ。
採掘槌を右手で握った。右掌の傷には木の感触ではなく、圧力と痛みだけが伝わる。
左手には記録帳を持ち、入口で開いた。
白い胞子。
甘い匂い。
目と喉に刺激。濡れた布で軽減。完全には防げない。
炭筆でそこまで書き、帳面を閉じた。
ガラムのいる側へ目を向ける。
開いた扉の向こうに、名前を刻んだ壁は見えなかった。石板が視界を塞いでいる。
戻って押し直す時間も、息もなかった。
「名前は書いた」
返事はない。
俺は石段へ足を向けた。
下るためではない。
生きて帰る道が、下にしか残っていなかった。
最初の段へ左足を置き、右足を引き寄せる。
段差は浅いが、濡れた石へ足首が傾くたび痛みが上がった。
壁へ肩を預けることもできない。
青白く光る苔の上には白い粒が積もり、触れた場所から細い糸が伸びていた。
十段ほど下ると、水音が遠くなった。
代わりに、滴が葉へ落ちるような音が増えた。
石段の先は、森だった。
天井は見えない。人の胴より太い柱が何本も暗闇へ伸び、上で枝を広げている。
だが樹皮は茶色ではなく、青と紫の斑点に覆われていた。
枝から垂れた半透明の膜がゆっくり膨らみ、縮むたびに白い粒を吐き出している。
地面には灰がなかった。
黒い土の上を、白い菌糸が血管のように走っていた。
大きな傘が重なり、その縁から淡い光が漏れている。
風が吹くたび、光と胞子が同じ方向へ傾いた。
探索記録にあった名前を思い出す。
第二層毒胞樹海。
名前だけでは足りなかった。
毒があるのは、触れた菌や襲ってくる魔物だけだと思っていた。
ここでは空気そのものが、身体の中へ入ろうとしている。
俺は石段の最後で止まった。
黒い土の上を、小さな影が三つ走った。
鼠に似ていた。だが背中から白い茸が伸び、両目は菌糸で縫われたように閉じている。
一匹が真っ直ぐ俺の右脛へ来た。
目ではなく、血の匂いを追っている。
俺は濡れ布を押さえ、採掘槌を低く振った。
鉄頭が肩へ当たり、影が横へ転がる。潰れた茸から白い粉が噴き出した。
息を止める。
残り二匹は粉の中を構わず走ってきた。
俺は腰の灰袋を掴み、足元へ一掴み撒いた。
灰に触れた白い菌糸が縮む。二匹の動きが一瞬だけ乱れた。
一匹の前脚を鎖で払い、踏み込んだもう一匹へ槌を落とす。
頭ではなく、背中の茸を狙った。
茸が潰れると、鼠の身体から力が抜けた。
最初の一匹が起き上がる。
閉じた目の代わりに、背中の菌糸が俺へ向きを変えた。
俺は左へ回り、菌糸の根元へ槌の尖った側を突き込んだ。
小さな身体が痙攣し、止まる。
最後の一匹は鎖を引きずったまま逃げた。
追わなかった。粉の中へ入れば、倒して得るものより吸い込む毒の方が大きい。
冷たい文字は浮かばない。
魔物ではなく、死んだ獣を菌が動かしていたのかもしれない。
俺は呼吸を整えた。
整わない。
濡れ布越しでも、三度吸うごとに喉が痒くなった。四度目には咳が出る。
涙で光が滲み、菌の傘が二重に見えた。
幻ではない。
片目ずつ閉じても位置は変わらなかった。
槌の柄で手前の地面を叩くと、光る傘だけが震えた。
俺は歩数を決めた。
十歩進む。息を吐く。立ち止まらず周囲を見る。
胞子の濃い場所を避け、風が正面から来る時だけ息を吸う。
最初の十歩で、右足が土へ沈んだ。
石より柔らかいぶん衝撃は少ない。だが、白い菌糸が靴へ絡みつく。
足を上げると簡単に切れたものの、切れた先が細かく震え、地面の下へ潜った。
俺は同じ場所を踏まなかった。
左の太い柱と、右の発光する菌の間を通る。頭上から落ちる滴が首へ触れた。
すぐに布で拭う。水に見えても、ここでは飲めない。
二十歩。
白い粒が正面から来た。
息を止め、柱の裏へ回る。そこは空気が淀んでいた。
胞子が沈まず、腰の高さで薄い雲になっている。
俺は戻った。
風上は安全ではない。流れてくる量が多ければ、正面から受ける。
風下も、柱の裏では溜まる。
見える白さだけでは決められなかった。
布の端を細く裂き、採掘槌の先へ結ぶ。前へ差し出すと、布は右へ揺れた。
次の瞬間には下を向き、また右へ戻る。
風は一定ではない。
膜が膨らむたび、木のような柱の間から空気が押し出されていた。
俺は布がこちらへ向かない時だけ進んだ。
三十歩を越えたところで、咳が出た。
濡れ布へ唾が散る。喉の奥に何かが貼りついているようだった。
指を入れても取れない。咳き込むほど新しい空気を吸うことになる。
俺は膝をつかず、槌へ体重を預けた。
鼻から短く吸い、口から細く吐く。甘い匂いの中に、鉄に似た味が混じった。
喉から血が出ているのかもしれない。
硬殻を使えば、皮膚への傷は防げる。
だが、喉も肺も覆えない。
右腕を硬くしても、空気は止まらない。
技能を使う必要はなかった。
使えないものを使わずに済ませる方が、今は重要だった。
俺は腰の水筒を外した。口へ当てず、布へ少しずつ水を垂らす。
甘い匂いがまた薄くなった。
水筒の裂け目からは、すでに布が半分押し出されていた。鉄輪を締め直す。
右手だけでは力が足りず、左手を添えると肩の傷が引きつった。
水が一筋、指を伝って落ちた。
白い菌糸の上へ触れる。
周囲の細い糸が、一斉に水滴へ向きを変えた。
俺はすぐに足を離した。
菌糸は水の落ちた場所へ集まり、絡み合って小さな白い瘤を作った。動きは遅い。
だが、止まってはいない。
濡れた場所を探している。
さっき肩の包帯へついた粒が糸を伸ばさなかったのは、血か、傷を洗った水か、布の織り方か。
それとも、ただ時間が足りなかっただけか。
俺は傷へ巻いた布の端をすべて内側へ折った。
さらに進む。
光る菌の間に、三本線が刻まれていた。
一本目は柱の根元。二本目は倒れた石。
三本目は黒く硬化した菌の傘へ、刃で傷をつけるように残されている。
ベルガルド西方探索隊がここを通った。
人の印があるだけで、道には見えなかった。
三本線の先には白い胞子が濃く漂い、その右は菌糸に覆われた窪地、左は太い柱が重なっていた。
探索隊は何を基準に進んだ。
記録には、上へ戻る道が閉じたことと、忘都を目指すことしか残っていない。
空気について書かれた箇所は、濡れて読めなかった。
俺は菌の傘へ刻まれた線を指でなぞらず、目だけで確かめた。
線の周囲には白い粒が少ない。
傘の表面から、透明な脂のようなものが滲んでいる。
胞子は触れると滑り落ち、下へ積もっていた。
槌の先で、端を少し剥がす。
薄い膜は粘り、引けば樹脂のように伸びた。布へ重ねると隙間を塞ぐ。
甘い匂いは膜の側からはしなかった。
俺は小さく切り取り、水筒の裂け目へ押し当てた。
その上から布を巻き、鉄輪を締め直す。
水を入れたまま傾ける。
一滴落ちた。
待つ。
次は落ちなかった。
完全に直ったとは思わない。膜が乾けば割れるかもしれない。
それでも、運べる水は増えた。
近くに同じ膜が裂かれた跡があった。
俺が最初ではない。
その下の土には、靴跡が残っていた。古い。
縁は菌糸に埋められ、踵の形しか見えない。
足跡は左の柱が重なる場所へ続いていた。
俺は布片を槌の先へ結び直し、空気の流れを見た。
左から右へ動いている。
胞子も薄い。
三本線から外れるが、足跡は同じ方向だった。
俺は左へ入った。
柱の間は肩幅より少し広い。採掘槌を縦に持ち、左肩が触れないよう身体を傾ける。
右足を引きずる音が、湿った土に吸われた。
十歩先で道が広がった。
風が通っている。
甘い匂いは残っていたが、白い粒は少なかった。
俺は初めて布を少し浮かせ、外の空気を一度だけ吸った。
喉は痒んだ。
それでも、扉の前ほど強くない。
代わりに、別の臭いがした。
濡れた革。
古い鉄。
そして、腐りきらずに残った肉の臭い。
俺は布を戻し、槌を上げた。
臭いは右前方から来る。青白い柱の根元に、膨らんだ影があった。
菌の塊に見えたが、中央から革帯が垂れている。
近づく前に、地面を見た。
白い菌糸が影の周囲へ集まり、何本も柱へつながっていた。
足跡はそこで途切れている。
俺は左側から回った。
影の腕らしい部分に、布が残っていた。
腐食して色は失われている。その下の革手甲へ、三本の線が刻まれていた。
探索隊の一人だ。
身体は柱へ寄りかかった姿勢で固まっていた。
腰と胸を半透明の膜が覆い、木へ縫いつけるように菌糸が食い込んでいる。
頭は前へ垂れ、白い傘が顔を隠していた。
腰袋が一つ残っている。
俺は槌の柄で触れた。
動かない。
罠のような反応もなかった。
袋の留め具を外すと、灰が少しこぼれた。
中には湿って固まった紙片と、腐食の少ない布が入っていた。
文字は黒く滲み、読めない。
灰だけが乾いている。
なぜ持っていたのかは分からない。
俺は布と紙片を取り、袋は戻した。死者から奪うことには、もう迷わなかった。
生きている俺が使わなければ、菌糸に埋もれるだけだ。
「借りる」
返事はなかった。
立ち上がろうとした時、水筒が柱へ当たった。
鈍い音がした。
遺体の頭が、わずかに揺れた。
俺は槌を構えた。
ガラムのように起き上がるかもしれない。胸の光も、指の動きもない。
それでも待った。
頭はそれ以上動かなかった。
代わりに、顔を覆っていた白い傘がずれた。
乾いた皮膚が見える。
閉じた目。
開いたままの口。
その奥から、何本もの白い菌糸が伸びていた。
糸は唇を押し広げ、頬を伝い、首から胸へ広がっている。
遺体が木へ寄りかかっていたのではない。
口の中から伸びたものが、人の身体を木へつないでいた。
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