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忘却喰らいの黒騎士  作者: こっさむ
第二章 帰るために奈落へ
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甘い空気

ご覧いただきありがとうございます!

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それでは、どうぞお楽しみください。

白い粒が、濡れた布の上で細い糸を伸ばしていた。


俺は息を止めたまま、布を水受けの縁から払い落とした。


粒は石へ落ちても消えない。


水を含んだ糸が灰色の床へ貼りつき、根を探すように何度も先を曲げた。


扉の隙間から、同じものが流れ込んでくる。


一粒ずつなら雪に見えた。


だが、青白い光の中では数えられないほど重なり、ゆっくり渦を巻いていた。


甘い匂いも濃くなっている。


息を止めていられる間に、俺は水受けの脇へ下がった。


閉じる方法を探す。


扉の表側には三本の溝と、ガラムの胸から散った青い光があった。


内側には取っ手も鎖もない。


左右の石板へ両手をかけて押したが、片方だけで俺の身体より重い。


右足へ力を入れた瞬間、熱を持った足首が崩れた。


俺は膝を床へついた。


止めていた息が、喉から漏れた。


一度。


甘い空気が口へ入った。


潰した花の匂いの奥に、湿った土と腐った果実の臭いが混じっていた。


舌の奥が(かゆ)くなる。俺は袖で口を塞ぎ、浅く息を吸った。


二度目は鼻から入った。


鼻の奥を細い針で掻かれたような刺激が走り、両目から涙が出た。


視界の端が白く霞む。


(せき)を抑えようとしたが、喉の(かゆ)みが急に()ける痛みへ変わった。


「っ、げほ……!」


身体が勝手に息を吐いた。


続けて吸い込んだ空気が、さらに喉を焼いた。(せき)が止まらない。


左肩と脇腹の傷が呼吸のたびに引かれ、右手を床へつくと(てのひら)の裂傷が開いた。


扉を閉じるのは無理だ。


ここへ留まれば、流れ込む粒は増える。


俺は水受けの脇に置いた布を掴んだ。


傷へ巻く分を残し、端を採掘(つち)へ押し当てて裂く。


濡らした布で口と鼻を覆い、後頭部で結んだ。


もう一度、息を吸う。


冷たい水の感触が口元へ張りついた。甘い匂いは薄くなったが、消えてはいない。


喉の奥へ入る刺激も残っていた。


防げるわけではない。


吸い込む量を減らすだけだ。


俺は涙を拭い、残った布で露出した傷を確かめた。


右前腕と左肩の包帯は濡れている。白い粒が二つ、左肩の布へついていた。


すぐに水をかけて落とす。包帯の内側まで入った様子はない。


新しい血と水で濡れた布へ粒が貼りついても、さっきのような糸は伸びなかった。


理由は分からない。


分からないものを安全とは呼べない。


俺は傷を覆い直した。首の圧迫痕(あっぱくこん)へは巻けない。


喉は外側から触れても痛み、(せき)をするたび中からも焼けた。


壊れた水筒を拾う。


革の胴には裂け目があり、そのままでは水を入れてもすぐ漏れる。


以前は音を出すために石を入れた。今は中身を空にして洗い、水受けへ沈めた。


水が満ちる。


持ち上げると、底に近い裂け目から細い線になって落ちた。


布を押し込めば、少しは遅くできる。


俺は一番小さな布片を裂け目へ当て、鎖から外した細い鉄輪で縛った。


水筒を横にすると漏れたが、立てておけば一滴ずつになった。


長くは持たない。


それでも、次の水場がすぐにあるとは限らなかった。


俺は水筒へ半分だけ水を入れた。重くすれば裂け目が広がる。


栓の代わりに丸めた布を口へ詰め、腰の鎖へ結ぶ。


採掘(つち)を右手で握った。右(てのひら)の傷には木の感触ではなく、圧力と痛みだけが伝わる。


左手には記録帳を持ち、入口で開いた。


白い胞子。


甘い匂い。


目と喉に刺激。濡れた布で軽減。完全には防げない。


炭筆でそこまで書き、帳面を閉じた。


ガラムのいる側へ目を向ける。


開いた扉の向こうに、名前を刻んだ壁は見えなかった。石板が視界を塞いでいる。


戻って押し直す時間も、息もなかった。


「名前は書いた」


返事はない。


俺は石段へ足を向けた。


下るためではない。


生きて帰る道が、下にしか残っていなかった。


最初の段へ左足を置き、右足を引き寄せる。


段差は浅いが、濡れた石へ足首が傾くたび痛みが上がった。


壁へ肩を預けることもできない。


青白く光る(こけ)の上には白い粒が積もり、触れた場所から細い糸が伸びていた。


十段ほど下ると、水音が遠くなった。


代わりに、滴が葉へ落ちるような音が増えた。


石段の先は、森だった。


天井は見えない。人の胴より太い柱が何本も暗闇へ伸び、上で枝を広げている。


だが樹皮は茶色ではなく、青と紫の斑点に覆われていた。


枝から垂れた半透明の膜がゆっくり膨らみ、縮むたびに白い粒を吐き出している。


地面には灰がなかった。


黒い土の上を、白い菌糸が血管のように走っていた。


大きな傘が重なり、その縁から淡い光が漏れている。


風が吹くたび、光と胞子が同じ方向へ傾いた。


探索記録にあった名前を思い出す。


第二層毒胞樹海(どくほうじゅかい)


名前だけでは足りなかった。


毒があるのは、触れた菌や襲ってくる魔物だけだと思っていた。


ここでは空気そのものが、身体の中へ入ろうとしている。


俺は石段の最後で止まった。


黒い土の上を、小さな影が三つ走った。


(ねずみ)に似ていた。だが背中から白い(きのこ)が伸び、両目は菌糸で縫われたように閉じている。


一匹が真っ直ぐ俺の右脛へ来た。


目ではなく、血の匂いを追っている。


俺は濡れ布を押さえ、採掘(つち)を低く振った。


鉄頭が肩へ当たり、影が横へ転がる。潰れた(きのこ)から白い粉が噴き出した。


息を止める。


残り二匹は粉の中を構わず走ってきた。


俺は腰の灰袋を掴み、足元へ一掴み撒いた。


灰に触れた白い菌糸が縮む。二匹の動きが一瞬だけ乱れた。


一匹の前脚を鎖で払い、踏み込んだもう一匹へ(つち)を落とす。


頭ではなく、背中の(きのこ)を狙った。


(きのこ)が潰れると、(ねずみ)の身体から力が抜けた。


最初の一匹が起き上がる。


閉じた目の代わりに、背中の菌糸が俺へ向きを変えた。


俺は左へ回り、菌糸の根元へ(つち)の尖った側を突き込んだ。


小さな身体が痙攣(けいれん)し、止まる。


最後の一匹は鎖を引きずったまま逃げた。


追わなかった。粉の中へ入れば、倒して得るものより吸い込む毒の方が大きい。


冷たい文字は浮かばない。


魔物ではなく、死んだ獣を菌が動かしていたのかもしれない。


俺は呼吸を整えた。


整わない。


濡れ布越しでも、三度吸うごとに喉が(かゆ)くなった。四度目には(せき)が出る。


涙で光が(にじ)み、菌の傘が二重に見えた。


幻ではない。


片目ずつ閉じても位置は変わらなかった。


(つち)の柄で手前の地面を叩くと、光る傘だけが震えた。


俺は歩数を決めた。


十歩進む。息を吐く。立ち止まらず周囲を見る。


胞子の濃い場所を避け、風が正面から来る時だけ息を吸う。


最初の十歩で、右足が土へ沈んだ。


石より柔らかいぶん衝撃は少ない。だが、白い菌糸が靴へ絡みつく。


足を上げると簡単に切れたものの、切れた先が細かく震え、地面の下へ潜った。


俺は同じ場所を踏まなかった。


左の太い柱と、右の発光する菌の間を通る。頭上から落ちる滴が首へ触れた。


すぐに布で拭う。水に見えても、ここでは飲めない。


二十歩。


白い粒が正面から来た。


息を止め、柱の裏へ回る。そこは空気が淀んでいた。


胞子が沈まず、腰の高さで薄い雲になっている。


俺は戻った。


風上は安全ではない。流れてくる量が多ければ、正面から受ける。


風下も、柱の裏では溜まる。


見える白さだけでは決められなかった。


布の端を細く裂き、採掘(つち)の先へ結ぶ。前へ差し出すと、布は右へ揺れた。


次の瞬間には下を向き、また右へ戻る。


風は一定ではない。


膜が膨らむたび、木のような柱の間から空気が押し出されていた。


俺は布がこちらへ向かない時だけ進んだ。


三十歩を越えたところで、(せき)が出た。


濡れ布へ唾が散る。喉の奥に何かが貼りついているようだった。


指を入れても取れない。(せき)き込むほど新しい空気を吸うことになる。


俺は膝をつかず、(つち)へ体重を預けた。


鼻から短く吸い、口から細く吐く。甘い匂いの中に、鉄に似た味が混じった。


喉から血が出ているのかもしれない。


硬殻(こうかく)を使えば、皮膚への傷は防げる。


だが、喉も肺も覆えない。


右腕を硬くしても、空気は止まらない。


技能を使う必要はなかった。


使えないものを使わずに済ませる方が、今は重要だった。


俺は腰の水筒を外した。口へ当てず、布へ少しずつ水を垂らす。


甘い匂いがまた薄くなった。


水筒の裂け目からは、すでに布が半分押し出されていた。鉄輪を締め直す。


右手だけでは力が足りず、左手を添えると肩の傷が引きつった。


水が一筋、指を伝って落ちた。


白い菌糸の上へ触れる。


周囲の細い糸が、一斉に水滴へ向きを変えた。


俺はすぐに足を離した。


菌糸は水の落ちた場所へ集まり、絡み合って小さな白い(こぶ)を作った。動きは遅い。


だが、止まってはいない。


濡れた場所を探している。


さっき肩の包帯へついた粒が糸を伸ばさなかったのは、血か、傷を洗った水か、布の織り方か。


それとも、ただ時間が足りなかっただけか。


俺は傷へ巻いた布の端をすべて内側へ折った。


さらに進む。


光る菌の間に、三本線が刻まれていた。


一本目は柱の根元。二本目は倒れた石。


三本目は黒く硬化した菌の傘へ、刃で傷をつけるように残されている。


ベルガルド西方探索隊がここを通った。


人の印があるだけで、道には見えなかった。


三本線の先には白い胞子が濃く漂い、その右は菌糸に覆われた窪地、左は太い柱が重なっていた。


探索隊は何を基準に進んだ。


記録には、上へ戻る道が閉じたことと、忘都(ぼうと)を目指すことしか残っていない。


空気について書かれた箇所は、濡れて読めなかった。


俺は菌の傘へ刻まれた線を指でなぞらず、目だけで確かめた。


線の周囲には白い粒が少ない。


傘の表面から、透明な脂のようなものが(にじ)んでいる。


胞子は触れると滑り落ち、下へ積もっていた。


(つち)の先で、端を少し剥がす。


薄い膜は粘り、引けば樹脂のように伸びた。布へ重ねると隙間を塞ぐ。


甘い匂いは膜の側からはしなかった。


俺は小さく切り取り、水筒の裂け目へ押し当てた。


その上から布を巻き、鉄輪を締め直す。


水を入れたまま傾ける。


一滴落ちた。


待つ。


次は落ちなかった。


完全に直ったとは思わない。膜が乾けば割れるかもしれない。


それでも、運べる水は増えた。


近くに同じ膜が裂かれた跡があった。


俺が最初ではない。


その下の土には、靴跡が残っていた。古い。


縁は菌糸に埋められ、(かかと)の形しか見えない。


足跡は左の柱が重なる場所へ続いていた。


俺は布片を(つち)の先へ結び直し、空気の流れを見た。


左から右へ動いている。


胞子も薄い。


三本線から外れるが、足跡は同じ方向だった。


俺は左へ入った。


柱の間は肩幅より少し広い。採掘(つち)を縦に持ち、左肩が触れないよう身体を傾ける。


右足を引きずる音が、湿った土に吸われた。


十歩先で道が広がった。


風が通っている。


甘い匂いは残っていたが、白い粒は少なかった。


俺は初めて布を少し浮かせ、外の空気を一度だけ吸った。


喉は(かゆ)んだ。


それでも、扉の前ほど強くない。


代わりに、別の臭いがした。


濡れた革。


古い鉄。


そして、腐りきらずに残った肉の臭い。


俺は布を戻し、(つち)を上げた。


臭いは右前方から来る。青白い柱の根元に、膨らんだ影があった。


菌の塊に見えたが、中央から革帯が垂れている。


近づく前に、地面を見た。


白い菌糸が影の周囲へ集まり、何本も柱へつながっていた。


足跡はそこで途切れている。


俺は左側から回った。


影の腕らしい部分に、布が残っていた。


腐食して色は失われている。その下の革手甲(かわてこう)へ、三本の線が刻まれていた。


探索隊の一人だ。


身体は柱へ寄りかかった姿勢で固まっていた。


腰と胸を半透明の膜が覆い、木へ縫いつけるように菌糸が食い込んでいる。


頭は前へ垂れ、白い傘が顔を隠していた。


腰袋が一つ残っている。


俺は(つち)の柄で触れた。


動かない。


罠のような反応もなかった。


袋の留め具を外すと、灰が少しこぼれた。


中には湿って固まった紙片と、腐食の少ない布が入っていた。


文字は黒く(にじ)み、読めない。


灰だけが乾いている。


なぜ持っていたのかは分からない。


俺は布と紙片を取り、袋は戻した。死者から奪うことには、もう迷わなかった。


生きている俺が使わなければ、菌糸に埋もれるだけだ。


「借りる」


返事はなかった。


立ち上がろうとした時、水筒が柱へ当たった。


鈍い音がした。


遺体の頭が、わずかに揺れた。


俺は(つち)を構えた。


ガラムのように起き上がるかもしれない。胸の光も、指の動きもない。


それでも待った。


頭はそれ以上動かなかった。


代わりに、顔を覆っていた白い傘がずれた。


乾いた皮膚が見える。


閉じた目。


開いたままの口。


その奥から、何本もの白い菌糸が伸びていた。


糸は唇を押し広げ、頬を伝い、首から胸へ広がっている。


遺体が木へ寄りかかっていたのではない。


口の中から伸びたものが、人の身体を木へつないでいた。

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