傷に咲くもの
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それでは、どうぞお楽しみください。
皮膚の下で、白い糸が脈打った。
右脛の傷から、指2本分ほど離れた場所だった。細い盛り上がりが内側へ進み、止まる。また進む。
俺は布を指へ巻き、傷口から出ている糸を掴んだ。
引く。脛の内側が一緒に引かれた。
糸は皮膚へ張りついているのではない。肉の中へ枝を伸ばしていた。強く引けば途中で切れ、残った方がさらに奥へ潜るかもしれない。
俺は手を止めた。
足元で、黒い水が揺れた。さっき槌を振り下ろした波は、もう消えている。それなのに、3歩先の菌木の根元だけで小さな輪が広がった。
何かが、まだいる。
包帯は戻さず、傷口へ乾いた布を当てた。白い糸が見える隙間だけを残す。血の臭いを隠せるかは分からない。
右足を水から上げたまま、左膝を根へついた。背後は太い菌木。左には腰までの黒い水。右には細い根が、地面の高い場所へ続いている。
逃げるなら右だ。だが、右足では踏み切れない。
水面に、丸いものが浮かんだ。
最初は菌の傘に見えた。青黒い皮膚。両目だけが盛り上がり、水の上へ出ている。頭は人の胸ほどの幅があった。
そいつは動かない。俺の傷へ向いている。
槌を低く構えた。喉が痒み、咳が上がってくる。今は音を立てたくない。濡れ布の上から口を押さえ、息を細く吐いた。
丸い目が、一度閉じた。
直後、水面が割れた。そいつの口から、灰色の舌が伸びる。狙いは顔ではなかった。右脛だ。
俺は傷の前へ槌の柄を入れた。舌が木へ巻きつく。粘ついた液が飛び、手の甲へ触れた。皮膚が痺れた。
そいつが舌を引いた。槌ごと、身体が水へ引かれる。
左肩では支えられない。右手だけでは柄を保てず、鉄頭が水面へ落ちた。俺は槌を放した。
魔物は舌を縮め、槌を口元まで引き寄せた。鉄頭が上顎へ当たり、鈍い音がする。
そいつの身体が、水から半分浮いた。
蛙に似ていた。後ろ脚は太く、腹は白い菌膜に覆われている。背中には小さな穴がいくつもあり、呼吸するたび泥色の泡を吐いた。
名前は知らない。知る必要もなかった。
右の根まで、2歩。
鎖を手首へ巻き、左足だけで身体を押した。右足は地面へつけず、根へ倒れ込む。
背後で水が大きく跳ねた。蛙に似た魔物が飛んだ。影が頭上へ重なる。
俺は転がらず、右前腕へ意識を集めた。硬殻が灰色の層を作る。
前腕で頭を覆った直後、湿った腹がぶつかった。重さで背中が根へ押しつけられ、息が漏れた。
魔物の口が開く。顔の近くに傷はない。それでも舌が動いた。
硬化した右腕を、その口へ押し込んだ。灰色の舌が前腕へ巻きつき、粘液が硬い皮膚の上を流れる。痺れは、すぐには入ってこない。
空いた左手で鎖を引いた。鉄輪を魔物の後ろ脚へ回し、根の突起へかける。
左肩が軋んだ。力を入れ続けられない。
魔物が後ろへ跳ぼうと、脚を縮めた。その力で鎖が張る。片脚だけが根へ残り、身体が横へ傾いた。
右腕を口から抜く。
硬化を解いた瞬間、前腕の切創へ熱が戻った。粘液に触れた傷ではない。それでも、指先の痺れが肘へ上がっていた。
魔物が身体を捻り、舌をもう一度伸ばした。今度は右脛の布へ向かう。傷を狙っている。
右足を引いた。避けきれない。舌の先が布へ触れ、巻きつく。
白い糸が、傷の中で動いた。脛の奥へ冷たいものが流れ込む。
俺は鎖を放し、両手で槌の柄を掴んだ。魔物の口元に残った鉄頭を押し込む。
相手が舌を引く。俺も槌ごと引かれ、距離が縮まる。
狙っていた。
魔物の顔が1歩先へ来た時、左足で根を踏み、柄を下へ押した。鉄頭が下顎へ当たり、口が閉じる。
舌の途中を、自分の顎で噛んだ。濁った鳴き声が響き、舌の力が緩む。
右脛の布を引き剥がし、そのまま水へ投げた。血のついた布が2歩先へ落ちる。
丸い目が、布を追った。魔物は俺ではなく、水面の血へ向きを変えた。舌が伸び、布を呑み込む。
その隙に、鎖を根から外した。後ろ脚を縛った輪を強く引き、魔物の身体を横へ倒す。
白い腹が見えた。槌を振り上げれば、届く。
だが左肩は上がらない。右足も踏ん張れない。一撃で倒せなければ、水の中へ引き込まれる。
倒す必要はない。傷から離せばいい。
槌の鉄頭を、背中ではなく腹の横へ押し当てた。水へ向かって柄を突く。
魔物が横へ転がり、鎖が後ろ脚から抜けた。水へ落ちたそいつは太い脚で底を蹴り、黒い飛沫を上げて、菌木の根の下へ潜った。
追わなかった。水面の膨らみは、湿地の奥へ遠ざかっていく。
静かになるまで待った。
ならなかった。
左の水面に、丸い目が2組浮かんだ。追い払った1匹とは別だ。傷の血へ集まってきた。
1匹目の舌が、左肩を狙う。俺は根から身体を落とし、舌を頭上へ通した。
2匹目が、着地点へ跳んでくる。
逃げた先には、黄色い液を垂らす紫の茸が群生していた。鎖を茸の根元へ回し、引く。傘が倒れ、黄色い液が黒い水へ散った。
蛙に似た魔物は、構わず踏み込んだ。
次の瞬間、白い腹から煙が上がった。濁った鳴き声が響く。
毒は、外皮にも効く。
倒れた茸を槌の柄で押し、跳びかかってくる1匹の進路へ転がした。前脚が黄色い液へ触れ、動きが鈍る。そこへ鎖を巻き、毒の水溜まりへ引き倒した。
もう1匹の舌が、右脛の包帯へ届いた。白い糸が、肉の中で暴れる。
俺は硬殻で固めた前腕へ、舌を巻かせた。引かれる力を利用して距離を詰める。
槌の尖った側を、盛り上がった眼の間へ突き込んだ。一度では止まらない。柄を両手で押し込み、頭を根へ打ちつけた。
魔物の身体から、力が抜けた。
毒の水溜まりでは、もう1匹が痙攣している。俺は近づかず、鎖で首を締め上げた。動きが止まるまで待つ。
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《討伐結果》
討伐対象:パラサイトトード 2体
討伐吸収を開始します。
力の残滓を蓄積しました。
能力値の変化はありません。
獲得候補:寄生胞子Lv.1
魂適合率:低
忘却負荷:小
魂を喰らいますか。
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皮膚の下で蠢くものと、同じ名だった。
得れば操れるかもしれない。だが、記憶を失う。
「喰らわない」
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技能取得の代償は発生しません。
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文字が消えた。
右手の痺れは残っている。指を曲げると、遅れて動いた。舌の粘液が触れただけでこれなら、傷へ押し込まれたものは別の毒も運んでいる。
高い根の上へ、身体を引き上げた。
右脛を前へ伸ばす。傷口の白い糸は、1本ではなくなっていた。皮膚の下で2つに分かれ、上と内側へ伸びている。
時間をかければ、増える。
切る道具を探した。採掘槌の先は太すぎる。炭筆は折れる。
切れた鎖の端に、割れた鉄輪が1つあった。輪を布で挟んで捻ると、錆びた継ぎ目が開いた。先端は薄く尖っている。刃ほど鋭くはないが、糸を掻き出すことはできる。
傷を広げれば、出血が増える。広げなければ、白い糸が残る。
水筒を傾けた。底に残る水は、数口分しかない。飲めば喉の痛みを抑えられる。傷へ使えば、少しは泥を流せる。
蓋を外し、水を右脛へかけた。
冷たさが傷へ入った。黒い泥が薄まり、血と一緒に根の上へ流れる。白い糸だけが、肉の内側に残った。
開いた鉄輪の先を、傷へ入れた。
痛みで右足が跳ねた。左手で膝を押さえる。右手は痺れ、細かな力が入らない。鉄の先が深く入れば、自分の肉を裂く。
ゆっくり動かした。白い糸の下へ先端を入れ、持ち上げる。
1本が、傷口へ出た。布で掴み、引く。
糸は指の長さほど抜け、途中で枝分かれしていた。先端に、白い粒がいくつも膨らんでいる。
灰袋を開け、乾いた灰を糸へ落とした。白い枝が縮む。
傷の中に残る糸も、皮膚の下で動きを止めた。完全には出てこない。それでも、奥へ進む速さは落ちた。
灰を傷へ入れるのは危険だった。汚れが残れば腐る。だが、このまま菌糸が伸びるよりは遅らせられる。
指先ほどの灰を、傷口の周りへ押し当てた。皮膚の下の白い線が、外へ逃げるように曲がる。そこへ鉄輪の先を差し込んだ。
2本目。3本目。
引き抜くたび、脛から血が流れた。布が赤く濡れていく。白い糸は細くなったが、すべては取れなかった。
1本は骨に近い場所へ潜り、鉄の先が届かない。無理に追えば、歩けなくなる。
俺は手を止めた。
抜いた菌糸を根の上へ並べ、灰で覆った。白い枝はしばらく震え、やがて縮んだまま動かなくなった。
傷へ乾いた布を当て、新しい包帯を強く巻いた。右足の指が痺れる。少し緩めても、感覚は戻らなかった。舌の粘液による毒か、菌糸のせいかは分からない。
立ち上がる。右足を根へ置いた瞬間、膝が抜けた。
槌で身体を支えた。足首の痛みとは違う。力を入れる命令が、途中で薄くなる。右手の痺れも肘を越え、肩へ近づいていた。
毒は、1つではないのかもしれない。
甘い空気。光る鱗粉。蛙に似た魔物の粘液。傷の中へ入った白い糸。どれがどこまで身体へ入っているのか、分からない。
記録帳を開いた。
右脛へ白い菌糸。水中の蛙に似た魔物が傷を狙う。舌の粘液で痺れ。灰で菌糸の動きが鈍る。完全には除去できない。
書く間にも、炭筆を持つ指が動きにくくなった。文字の最後が曲がる。
能力値は変わっていない。技能も増えていない。それでも身体だけが、少しずつ自分のものではなくなっていく。
記録帳をしまい、濡れ布を絞った。絞っても、水はほとんど落ちない。口元へ戻すと、甘い匂いが前より近かった。
ここに留まれば、また幻を見る。水辺へ戻れば、蛙に似た魔物が来る。
俺は根の高い方へ進んだ。
右足を引きずり、槌を杖にする。1歩進むたび、包帯の内側で脛が脈打った。白い糸が動いているのか、血が流れているだけなのかは分からない。
灰を投げる余裕はなかった。槌先の菌膜を見る。風は右から左へ流れている。胞子の薄い左側を選んだ。
湿地の黒い水は次第に浅くなり、代わりに紫色の菌が増えていった。人の頭ほどの傘が幾重にも重なり、表面から黄色い液を垂らしている。
液が地面へ落ちた。触れた白い菌糸が黒く変わり、すぐに溶けた。
毒だ。少なくとも、触れてよいものではない。
距離を取った。
その時、紫の傘が揺れた。風ではない。黒い水溜まりの中央が、ゆっくり盛り上がっている。
最初に、2つの眼が出た。次に、人の胴ほどもある頭。
小さな個体の倍では足りない。口だけで、俺の肩幅より広かった。
背中に並んだ胞子袋が、一つずつ膨らむ。低い鳴き声が湿地を震わせた。
右脛に残った白い糸が、その声へ応えるように蠢いた。
倒した2匹は、餌を探していたのではない。こいつの縄張りへ、獲物を追い込んでいたのかもしれない。
俺は採掘槌を構えた。
巨大な蛙の口が開いた。
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