名前を残した死人
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それでは、どうぞお楽しみください。
槌の柄を握っても、記憶の中の薪は何も返さなかった。
俺は記録帳を閉じ、横穴の壁へ背を預けた。失った感触を探し続けても、喉の渇きは消えない。右足首の腫れも、左肩の痛みも残っている。必要なのは水と休息だった。
倒れた棚から使えそうな布を探したが、指で引くだけで崩れた。乾いた水槽の隅にも湿り気はない。ここに留まっても、身体が弱るだけだ。
俺は採掘槌を腰の布へ差し、落ちてきた時に途中で切れたままの鎖を杖にして立ち上がった。
下り坂へ戻ると、探索隊の3本線は乾いた砂の上をまっすぐ続いていた。印の間隔は一定だったが、下るほど1本ずつ短くなっている。急いで描いたのか、描いた者の腕が動かなくなっていたのかは分からない。
坂の幅は2人が並べるほどだった。左の壁には崩れた石棚が続き、右側には細い溝が掘られている。
溝の底へ炭筆の欠片を落としてみたが、濡れる音はしなかった。それでも、水を流すための溝に見えた。
壁の染みを指でなぞる。乾いている。匂いを確かめても、砂と錆しか感じなかった。少し先で、溝は下り坂の奥へ消えている。
水が残っているなら、下だ。
10歩進むたびに足を止めた。右足へ体重を乗せすぎないよう、鎖を先へ置く。左腕は腹の前へ固定し、肩を揺らさないように歩いた。
身体は強くなった。だが、強くなった身体にも傷はついている。
坂が折れ曲がる手前で、鎖の先が何かに触れた。硬い音がした。
俺は動きを止め、暗視を向けた。砂の中から、白い指が突き出ていた。
人の骨だった。手首から先だけが石の隙間に挟まり、指は坂の上を掴もうとする形で固まっている。
近くの壁には、3本線がなかった。代わりに、同じ高さへ何本もの傷が刻まれている。短い縦線と横線。意味のない引っかき傷に見えたが、砂を払うと文字になった。
『ガラム・ハイネ』
その下にも、同じ名前がある。
『ガラム・ハイネ』
さらに下にも、また下にも。
文字は坂の角まで続き、大きさも深さも違っていた。刃で刻んだもの。石を擦りつけたもの。爪で削ったような浅いもの。同じ名が、何十回も残されている。
俺は採掘槌を抜いた。平らな側を前へ向け、曲がり角から身体を出さずに耳を澄ます。
砂が擦れる音がした。1度。2度。誰かが、硬いものを壁へ押し当てている。
俺は鎖の端を角の向こうへ滑らせた。鉄が床を擦った瞬間、音が止まった。
「……誰だ」
男の声だった。低く、乾いている。長く水を飲んでいない声に似ていた。だが、言葉の前に息を吸う音がしなかった。
俺は答えず、鎖を引き戻した。
「3本線を追ってきたのか」
探索隊の印を知っている。
「お前は誰だ」
俺が問うと、しばらく返事がなかった。やがて、また石を擦る音が始まった。
「名前を聞いている」
「名前……」
男は、その言葉を口の中で確かめるように繰り返した。
「壁にある。読めるなら、読め」
俺は刻まれた文字を見た。
「ガラム・ハイネ」
向こうで、何かが床へ落ちた。
「そうだ」
声が少しだけ近づいた。
「俺は、ガラム・ハイネだ」
俺は槌を握り直した。
「姿を見せろ」
「見ない方がいい」
「なら、そこを動くな」
「動くな、か」
乾いた笑いが返った。喉からではなく、空の器を震わせたような音だった。
「俺も、そう言われた。祭壇の上でな」
砂を踏む音が、1歩分だけ近づいた。
俺は角から離れ、坂の上へ2歩戻った。右の溝は浅く、足を取られるほどではない。左の石棚は腰の高さで途切れ、その先は壁まで何もない。退くなら上。進むなら角の向こうだ。
「生贄だったのか」
「そう呼ばれた」
男の声が止まった。
「お前もか」
答える必要はなかった。だが、3本線を残した探索隊より前にここへ落とされた人間なら、下への道を知っているかもしれない。
「黒鐘城塞都市から落とされた」
「黒鐘……」
また長い間があった。
「そんな名だった気もする。鐘の音が、うるさい場所だ」
俺は養護院の鐘を思い出した。朝と夕方、食事と祈りの時間を知らせる音。音そのものは、まだ残っている。
「いつだ」
「知らない」
「何年ここにいる」
「知らない」
返事は早かった。
「誰に落とされた」
「知らない」
石を擦る音が強くなった。
「何のために」
「知らない」
最後の言葉だけが、壁へぶつけるように響いた。
俺は口を閉じた。男は、自分の名以外をほとんど失っている。それでも、同じ名を何度も刻み続けている。
「名前は覚えている」
「覚えているんじゃない」
角の向こうから、白いものが伸びた。人の手だった。
皮膚は灰色に縮み、爪の2本が剥がれている。指には小さな石片が挟まれていた。手は壁へ触れ、すでに刻まれた文字の上へ、また1本の線を引いた。
「残したものを、読んでいるだけだ」
ガラムは言った。
「起きるたびに読む。歩くたびに読む。何をしていたか忘れたら、新しく刻む。そうすれば、次の俺も名前だけは間違えない」
胸元の記録帳が、急に重くなった気がした。
事実を残す。失ったものが戻らなくても、次の自分が読めるように。俺がしていることと同じだった。違うのは、ガラムにはもう紙を持つ手も、帰る場所も残っていないことだった。
「3本線を引いた奴らを知っているか」
「何人も来た」
「探索隊か」
「そう名乗った者もいた。泣いていた者も、俺を殺そうとした者もいた」
「どこへ行った」
男の手が止まった。
「下だ」
「下に水はあるか」
「ある」
その一言で、乾いた喉が痛んだ。
「休める場所は」
「扉の前なら、灰を這うものは来ない」
「案内しろ」
「もう着いている」
石片が指から落ちた。
「俺の後ろだ」
角の向こうで、重いものが立ち上がった。俺は槌を胸の高さへ構えた。
「そこを通る」
「通さない」
「理由は」
「下へ行けば、戻れない」
「上にも戻れない」
「なら、ここにいろ」
「水がない」
「死ねば渇かない」
声に怒りはなかった。本当に、それが答えだと思っている言い方だった。
俺は壁際の骨を見た。坂の上へ手を伸ばしたまま、石に挟まれた腕。指の骨は細く、どれも砂に磨かれて白かった。あれが誰のものかは分からない。
「ここへ来た人間を殺したのか」
「止めた」
「同じだ」
「違う」
ガラムの声が、初めて揺れた。
「下へ行かせなかった。俺は、守った」
何から守ったのかを、もう覚えていないのだろう。
「お前を祭壇へ乗せた奴らも、同じことを言ったんじゃないか」
返事はなかった。砂を掻く音が近づいてくる。
俺は鎖を床へ置き、輪を1つ作った。右足を半歩引き、左肩を壁側へ向ける。槌を振るなら右手だけだ。正面から押されれば、足首がもたない。
「退け」
「退けない」
「俺は帰る」
「俺も、そう言っていた」
曲がり角から、男が姿を現した。
身体には、朽ちた革と鎖が幾重にも巻きついていた。左脚は膝から下の肉がなく、黒ずんだ骨が床を擦っている。胸には穴が開き、その奥で濁った青い光が脈打っていた。
顔の右半分は人の形を残していた。左半分は崩れ、歯と頬骨がむき出しになっている。それでも目だけは、まっすぐ俺を見ていた。
「生きたまま下へ行く者は、いない」
ガラムの右手には、刃の折れた長剣があった。左手には、壁へ名前を刻んでいた石片が握られている。
俺は一歩も退かなかった。
「ここにいる」
「まだだ」
男は折れた剣を持ち上げた。構えは崩れている。左脚もまともに動かない。だが、剣先は俺の喉から外れなかった。生前に剣を使っていたのだと分かった。
そう判断した直後、ガラムの身体が沈んだ。
予兆は右肩ではなく、鎖の巻かれた腰に出た。全身を捻り、動かない左脚を引きずる力まで剣へ乗せてくる。
俺は喉の前へ左前腕を上げた。
「硬殻」
灰色の層が浮かぶ。だが、狙いより少し上へずれた。
折れた刃が硬化した皮膚へ当たり、乾いた音を立てた。切っ先は弾けたが、衝撃が左肩まで抜ける。視界が白くなった。
俺は歯を食いしばり、右手の槌を振った。平らな鉄頭がガラムのこめかみへ当たり、頭が横へ傾く。
だが、倒れない。剥き出しの歯が動いた。
「痛いか」
ガラムは、笑ったように見えた。
「そのうちは、忘れる」
折れた剣が引かれる。俺は鎖の輪へ右足をかけ、後ろへ滑らせた。ガラムの2撃目が胸元を通り、服だけを裂いていく。
距離は槌の間合いより半歩遠い。坂の上へ退けば、ガラムは追ってくるだろう。だが、下へ続く扉は男の後ろにある。水も、帰るための道も、その向こうだ。
俺は槌の尖った側を前へ返した。
「忘れる前に、終わらせる」
ガラムが左脚を引きずり、また剣を構えた。胸の青い光が脈打つ。身体が動く直前に、必ず光が強くなる。
俺は槌を胸へ振った。ガラムは折れた剣で受け、柄を滑らせて俺の指を狙ってくる。槌を引けば、今度は切っ先が喉へ向きを変えた。
ひとつの動きに、次の攻撃が繋がっている。正面からでは勝てない。
俺は坂の上へ退いた。ガラムが2歩追う。3歩目で、止まった。
俺がさらに下がっても、男は来ない。身体を扉と俺の間へ戻し、折れた剣を構え直す。
守っている。俺を憎んで追うのではない。扉へ近づく者だけを斬る。そして動く力は、胸の穴の奥にある青い光から出ている。
「……追ってこないのか」
「下へ行く者を、止める」
ガラムの答えは、それだけだった。
俺は床の砂を槌で払った。乾いた粉がガラムの顔へ舞う。男が目を閉じた一瞬に、鎖を回収して角の向こうへ下がった。
追撃は来なかった。角から離れた壁際で、俺は鎖を膝に置いて腰を下ろした。
左肩は痺れ、右足首は熱を持っている。息を吐くたびに脇腹が引きつる。あのまま続けていれば、先に俺が動けなくなっていた。
だが、見えた。胸の青い核。扉から離れない足。身体を動かす直前の光。
一度退く。傷を縛り直し、鎖を使う場所を決める。それから戻る。
角の向こうで、石を擦る音が再び始まった。
ガラムは自分の名をまた壁へ刻みながら、石造りの扉を守り続けていた。
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