硬くなった身体
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それでは、どうぞお楽しみください。
指先が黒い煙へ触れた。冷たさはなかった。熱もない。それなのに、皮膚の下へ異物が入り込んだことだけは、はっきり分かった。
煙が右の掌の傷から腕へ這い上がる。血管の中へ砂を押し込まれたような痛みが走り、俺は歯を食いしばった。
頭の中には、まだ問いが残っていた。
魂を喰らいますか。
俺は死んだアッシュワームを見た。砕けなかった外殻。床石を割った突進。あれを倒すために、鎖も鏃も、傷だらけの身体も使い切った。同じやり方を、次もできるとは限らない。
胸元の記録帳を押さえる。失いたくないものはある。だが、ここで死ねば、守った記憶ごと奈落に残る。
「喰らう」
俺が答えると、黒い煙が一度に身体へ流れ込んだ。
肺から息が押し出された。背中が床へぶつかり、視界が白く染まる。骨の内側を硬い爪で引っかかれ、筋肉を別の形へ組み直されているようだった。
左肩の傷が脈打った。右足首の腫れた部分へ熱が集まり、脇腹の裂けた皮膚が強く引きつる。
この痛みは治癒ではない。傷ついた身体のまま、無理に強い器へ作り替えられている。
冷たい文字が浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:アッシュワーム 1体
討伐吸収が完了しました。
能力値が上昇しました。
生命:12 → 15
筋力:11 → 13
耐久:14 → 20
敏捷:13 → 14
魔力:8 → 8
知覚:17 → 19
精神:21 → 22
魂喰が発動しました。
硬殻Lv.1を獲得しました。
忘却庫へ格納します。
技能枠:2/3
技能取得の代償を徴収します。
忘却深度:1 → 2
残存記憶率:99.8% → 99.5%
――感覚記憶の欠損を確認。
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文字が消えても、俺はしばらく動けなかった。
喉の奥から苦い息を吐く。指を曲げると、裂けた掌が痛んだ。その痛みは消えていない。左肩も右足首も、動かせば以前と同じように軋んだ。
ただ、身体の底に残る力が違った。疲労に沈んでいた筋肉が、もう一度だけ動けると告げている。息を吸った時の胸の広がりも、石室の冷気を拾う感覚も、わずかに鋭くなっていた。
俺は倒れた柱へ手をつき、立ち上がった。これまでなら、右足へ体重をかけた瞬間に膝が折れていた。痛みはある。それでも、壁に肩を預けずに立てた。
「強くは、なった」
声にしてみると、喜ぶには傷が多すぎると分かった。
黒い煙が消えた場所には、アッシュワームの死骸だけが残っていた。外殻は変わらず硬く、俺の鏃が折れた継ぎ目から、濁った液が流れている。
硬殻。名前は分かる。だが、使い方は頭に入っていなかった。
俺は右腕を前へ出し、皮膚が硬くなるところを想像した。アッシュワームの殻を思い浮かべる。何も起きない。
もう一度、今度は範囲を狭めた。裂けた掌を守ろうとすると、傷の内側へ針を差し込まれたような痛みが走った。
「っ……」
右手首の外側が黒ずんだ。皮膚の表面に薄い灰色の層が浮かび、石のような光を帯びる。だが硬くなったのは狙った掌ではなく、手首から腕へずれた場所だった。
左手で触れると、冷たかった。指の関節で叩くと、皮膚ではなく乾いた殻の音がする。
腕を曲げようとすると、硬化した部分が引っかかった。関節そのものは覆われていないのに、動きは明らかに鈍くなっている。
集中を解くと、灰色の層は薄れて元の皮膚へ戻った。息がわずかに重い。長く使えば、そのぶん疲労も増えるらしい。
その時、低い出口の向こうで骨が鳴った。
石室の別の裂け目から、2頭の獣が身体を押し込んでくる。白い骨をまとった、あの獣だ。崩れた通路の向こうに残した群れが、回り道を見つけたのだ。
先頭が床を蹴った。
「硬殻」
灰色の層が浮かぶ。だが、広がったのは手首の外側だけだった。牙が狙っているのは、その上の肘だ。
俺は腕で受けるのをやめ、鎖で前脚を払った。体勢を崩した獣の頭が、倒れた柱へ衝突する。
2頭目が横から来た。今度こそ、左前腕の中央だけを意識する。
「硬殻」
牙が噛みついた。灰色の層が軋み、衝撃が骨まで届く。それでも皮膚は裂けなかった。
俺は噛ませたまま踏み込み、柔らかい喉へ鎖の端を突き込んだ。獣が顎を離す。その首へ鎖を巻き、倒れた柱の隙間へ引き込んだ。
先にぶつかった1頭が起き上がる。俺は柱の上へ回り、絡めた鎖を足で踏みつけた。身動きの止まった獣の喉へ、尖った石片を押し込む。
残る1頭が跳んだ。
俺は左前腕を上げた。硬殻が一瞬遅れ、牙が皮膚を掠める。完全には扱えていない。それでも、致命傷ではなかった。
身体を捻り、獣の勢いをアッシュワームの殻へ流す。よろめいた後脚へ鎖を絡め、露出した腹を石の角へ叩きつけた。
3度目で、動きが止まった。
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《討伐結果》
討伐対象:ボーンハウンド 2体
討伐吸収を実行します。
微量の力の残滓を蓄積しました。
能力値の変化はありません。
忘却値に変化はありません。
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俺は荒い息のまま、硬化を解いた。
技能を得たことと、使えることは同じではない。間違えれば、硬くなった皮膚ごと噛み砕かれる。
俺は足元から小石を拾った。次は左前腕だけを意識する。肩の痛みを避け、肘と手首の間に狙いを定めた。
「硬殻」
皮膚が引き締まった。灰色の層は手のひら2枚分ほど広がり、今度は狙った場所を覆った。
右手の小石を、そこへ軽く打ちつける。音だけが返った。少し力を強めると、痛みではなく、遠い衝撃が骨へ伝わってくる。
3度目は、石の角を立てた。表面に白い筋がついたが、皮膚は裂けなかった。
俺は小石を捨てた。牙は防げるかもしれない。刃は分からない。胸や首を狙って正確に覆えるかも、今の一度では判断できなかった。
何より、負傷した左肩へ広げようとしただけで、強い痛みが走った。傷そのものを殻に変えて、治せるわけではない。
防げる範囲は狭い。位置もずれる。動きも鈍る。それでも、死ぬはずの一撃を受ける場所が選べるなら、十分だった。
硬化を解くと、左腕に汗が浮いていた。俺は呼吸を整え、記録帳を取り出した。
折れた炭筆の長い方を右手でつまむ。掌の傷に触れないように持つと、文字が震えた。
『アッシュワーム。外殻の継ぎ目は頭の後ろ。振動を追う。浅い灰では動きが見える』
その下へ、取得した技能と数字を書いた。
『硬殻Lv.1。忘却深度2。残存記憶率99.5。感覚記憶の欠損』
そこで炭筆が止まった。
何を失ったのかは、分からない。黒パンの時も、すぐには分からなかった。口に入れ、知っているはずの味がなくなって初めて気づいた。
今回も同じだ。今は探せない空白を、どこかで踏むことになる。
俺は帳面を閉じ、アッシュワームの死骸が塞いでいる低い出口へ向かった。
巨体の頭は出口の外へ半分出ていたが、胴は倒れた柱の下に挟まっている。通れる隙間は、右側に肩ひとつ分だけだった。
俺は荷物を先へ押し込み、身体を横にした。脇腹が石枠へ触れれば、また傷が開く。
右の前腕を硬化させ、石枠へ当てた。灰色の皮膚を支えにして、身体を少し浮かせる。硬化した腕は滑らず、体重を受け止めた。
左肩を動かさないまま、右足で床を押す。身体が隙間を抜けた。着地した右足首は痛んだが、倒れなかった。以前より、確かに力がある。
俺は荷物を拾い、後ろを見た。死骸の向こうに、黒い煙はもうない。喰らうと決めた魂は、どこにも残っていなかった。
代わりに俺の腕が、あの殻の一部を持っている。
そして俺の中から、何かがなくなった。
出口の先は、狭い下り坂だった。壁には探索隊の3本線が残り、灰の代わりに乾いた砂が積もっている。
俺は鎖を杖にして進んだ。身体が強くなっても、傷は傷のままだ。数十歩進むたびに止まり、右足を休ませた。喉は乾き、舌が上顎へ張りつく。
坂の途中に、四角い横穴があった。暗視を向けると、奥行きは浅い。床に魔物の足跡はなく、人が積んだ石箱と、倒れた棚が見えた。
俺は鎖の端で床を叩き、反応を待った。何も動かない。
横穴へ入ると、壁際に乾いた水槽があった。底へ指を這わせても、砂しかつかない。
「水は、ないか」
棚の下には、布の残骸と腐食した金具が散らばっていた。食べられるものも、使える薬もない。
それでも、石箱の陰から1本の柄が伸びていた。
瓦礫をどけると、出てきたのは短い採掘用の槌だった。片側は平らで、反対側は細く尖っている。鉄の頭には赤錆が浮いていたが、柄から外れてはいない。
刃物ではない。それでも、鎖しかないよりはいい。
柄を握った。ざらついた木目が掌へ触れる。乾燥して細かな割れがあり、強く握れば棘が刺さりそうだった。
俺は手を止めた。
木だとは分かる。
養護院では、冬になる前に薪を運ばされた。太いものは斧で割り、細い枝は束ねて物置へ積んだ。修道女が本数を数え、足りなければ暗くなるまで森の端を往復した。
その景色は覚えている。冷えた朝。白い息。腕の中に積んだ薪の重さ。指へ残った小さな傷。
だが、薪に触れた感覚がなかった。
硬かったのか。ざらついていたのか。乾いていたのか、湿っていたのか。今握っている柄の感触と、記憶の中の薪が結びつかない。
俺は柄を握り直した。掌には確かに木目がある。それを感じることはできる。なのに、以前にも同じものへ触れたという実感だけが、どこにもなかった。
記録帳を開き、炭筆で、さっきの続きを書いた。
『薪の木肌の感触』
文字は残る。だが、書き終えた後も何も戻らなかった。
俺は槌を膝へ置き、硬くなった左腕を見た。傷つかない皮膚を得るために、手の中にあった感触を一つ失った。
薪を運んだことは覚えている。その時、誰のために火を絶やしたくなかったのかも覚えている。
それでも記憶の中の俺の手は、何にも触れていなかった。
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