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抜け道の値段

林の中で夜を越した。火は焚(た)かなかった。門から200歩の斜面で煙を上げれば、門の小屋に入った3人へ、居場所を書いて渡すのと同じだった。1年まで、あと4日だった。


明け方の冷えで目が覚め、腹が先に鳴った。最後に食ったのは昨日の朝の芋で、林の土は寝床としては石よりましなだけだった。宗方(むなかた)は薬箱を抱えて眠っていて、フィンの寝ていた場所には縄の束だけが残っていた。


背中の包みの奥で、光が小さく灯った。


『フィン・ローデルは、夜明け前に斜面を下りました。西へ向かいました』


「何か言ってたか」


『言いませんでした。縄は置いていきました』


戻るつもりの置き方だった。俺は縄から目を離し、腹を押さえた。


「お前は、腹は減らないのか」


『減りません』


「うらやましい」


『あなたの腹の音は、包みの中までよく届きます』


「聞くな」


『聞こえてしまいます』


斜面の下で、枯れ葉を踏む音がした。軽くて、2歩ごとに少し止まる足音だった。包みの光が消え、少しして茶色のくせ毛が木の間から出てきた。ほっとした。


「起きてたか。羊飼いの爺さんが、まだ生きてた」


フィンは息を整えながら、俺の横にしゃがんだ。


「誰だ」


「壁の西の端で、羊を通す戸の番をしてる。去年の春は、銅貨で客を通してた」


宗方(むなかた)が目を開け、薬箱を抱えたまま身を起こした。


「客、ですか」


「俺みたいなのだ。板に手を置きたくねえやつ」


「今年は」


「銀貨だ。3人で2枚、前払い。関所が手の甲まで見るようになってから、値が上がったんだと」


フィンは腰の袋の口を開け、中を俺に見せた。銅貨が何枚か、底で鈍く重なっていた。


「俺の銀貨は、道中で崩れた」


俺は自分の袋から銀貨を2枚出した。握って渡すと、返りの遅い右手が力を間違える。手のひらに載せたまま、フィンの手へ傾けて落とした。


「値切らないんですか。渡しのときは、ずいぶん粘ってたのに」


「命の値段は値切らねえことにしてる」


「渡し賃も、命の値段だった」


俺が言うと、フィンは口の端を曲げた。


「あれは舟の値段だ」


フィンは銀貨を袋の奥へ押し込み、口紐を2重に結んだ。


「昼過ぎに、俺が払いに行く。日が沈んで羊を入れたら、爺さんが戸の閂(かんぬき)を外す」


斜面を西へ巻いて下りた。左膝が深く曲がらないので、段のある所は体を横に向けて足を下ろした。裂けた靴の後ろの革が、そのたびに踵(かかと)の上の布をこすった。谷川の音が近づくにつれ、羊の匂いが風に混じった。


霧の匂いよりは、ずっとましだった。斜面の茂みから見下ろすと、壁の西の端は、谷川が石積みの根元の口をくぐる所だった。そのすぐ外側に羊の囲いがあり、その奥の壁に、腰の高さほどの木の戸が付いていた。囲いから斜面を少し上がった所に、石を積んだ小屋が1つあった。


昼過ぎ、フィンが1人で小屋へ下りていった。戻ってきたとき、腰の袋は軽くなっていた。


「払った。爺さんは、俺の顔を覚えてた」


「それは、いいことか」


フィンはすぐには答えず、袋の口紐を指で弄(もてあそ)んだ。


「……去年は、覚えてるって顔をしなかったんだけどな」


宗方(むなかた)が、茂みの陰から囲いの方を見ていた。


「羊、まだ出てないんですね。昼は放すものだと思ってました」


「冬が近いからだろ」


フィンはそう言って、それ以上は囲いを見なかった。


日が山の向こうへ落ちると、谷の底から暗くなった。暗視(あんし)Lv.3に切り替えると、囲いの柵と小屋の石が灰色の輪郭で浮いた。3人で茂みを出て、斜面を下った。


囲いの柵まで50歩ほど残した所で、鼻の奥に細い線が引っかかった。羊の匂いと、爺さんのものらしい古い革と脂の匂いの間に、もう1本、別の線が通っていた。汗をかいた馬の匂いだった。


嗅跡(きゅうせき)Lv.1で拾った線はまだ細く、手繰ろうとすると途中でほどけかけた。それでも、覚えのある匂いだった。吊(つ)り橋の向こう岸の木の下から東へ延びていた、新しい蹄(ひづめ)の3本と同じだった。


「止まれ」


フィンが足を止め、宗方(むなかた)がその背にぶつかりかけた。


「何だ」


「馬だ」


「羊しかいねえ谷だぞ」


「吊(つ)り橋の向こうにいた馬だ。3頭とも、この先にいる」


フィンが息を呑(の)んだ音がした。宗方(むなかた)は囲いの方へ顔を向け、しばらく耳を澄ませていた。


「静かすぎますね。日が暮れたのに、羊が1頭も鳴いてない」


「囲いに入れてないのかもな」


「入れたのに鳴かないなら、近くに知らない人がいるんです。羊は、そういうのを嫌がります」


「見てくる。ここにいろ」


「1人でか」


「匂いの方が、目より先に届く」


俺は壁の影に沿って、身を低くして進んだ。左の肩甲骨の下の打ち身が、地面に手をつくたびに鈍く響いた。柵の手前で止まると、戸が見えた。閂(かんぬき)は、もう外れていた。


戸は指1本分だけ開いていて、その向こうは暗かった。馬の線は戸へは向かわず、囲いの奥の羊小屋へ続いていた。羊小屋の板の隙間から、灯りが細く漏れていた。


背中の包みの奥で、声が囁(ささや)いた。


『羊小屋の隙間から見えた影は、4つでした』


「吊(つ)り橋の3人と、あと1人か」


『4人目は、分かりません。座っていて、ほかの3人より小さく見えました』


羊小屋の中で、誰かが低く笑った。


「爺さんの言った刻限まで、まだあるぞ。戸は開けておけ」


「入ってきたら、戸を閉める。囲いの柵は、俺たちが塞ぐ」


開いた戸の内側には、誰の匂いもなかった。俺は来たときと同じ影を拾って、柵から離れた。


茂みへ戻ると、フィンが立ち上がりかけ、宗方(むなかた)がその袖を引いて座らせた。


「どうだった」


「戸は開いてた。中は空だ。囲いの奥の羊小屋に、4人いる」


「4人」


「3人は吊(つ)り橋の馬の連中だ。もう1人は、座ってた」


フィンが、自分の袋の上に手を置いた。


「爺さんか」


「たぶん」


「……売ったか」


「売らされたのかもしれません」


宗方(むなかた)が静かに言った。


「売った人間なら、同じ小屋で座ってはいないと思います」


フィンは何も言わず、囲いの方を見た。それから、関所の門の方へ目を移した。門の屋根の下の台には、もう灯りが入っていた。


「表は板と、関所の兵だ。甲も顔も見る」


フィンが指を1本立てた。


「壁の東の端の岩の上に、見張りが1人。で、裏の戸に審問隊の3人だ」


2本目と3本目の指が立った。


「あいつら、表に立ってねえ。俺たちが列に並ぶとは、思ってねえんだ」


「裏から来ると読んでる」


「ああ。ほかの抜け道にも、誰か回ってるかもしれねえ」


フィンは立てた指を握り込んだ。握った拳が、膝の上で1度だけ震えた。


「爺さんの小屋を見る」


「やめとけ」


「銀貨を払った小屋だ」


フィンの声が、少し速かった。俺は頷(うなず)き、先に立った。


石の小屋の戸は閉まっていなかった。中には誰もいなかった。炉の上の鍋は火から下ろされ、木の椀(わん)が1つ、台の上に伏せずに置いてあった。


宗方(むなかた)が鍋のふたに触れ、すぐに手を引いた。


「急いで出た人の出方です。火の始末だけして、器はそのまま」


炉の灰から、まだ煙の匂いが上がっていた。鼻より手の方が早いので、手のひらを灰の上にかざした。


「まだ温かい」


「日暮れ前まで、ここにいたんですね」


床には、爺さんの革と脂の匂いの上に、馬と汗の線が重なっていた。線は戸から入って台の前で止まり、また戸から出ていた。その台の上で、何かが小さく光った。


銀貨が1枚、椀(わん)の横に置いてあった。


フィンがそれを拾い、指の間で1度返した。


「……半分、返しやがった」


「売った金か」


「違う。俺が払った2枚のうちの1枚だ」


フィンは銀貨を握ったまま、しばらく動かなかった。


「俺が詰所に入ったときも、こういうふうに、何か置いてくればよかったのかもな」


「お前は戻ってきた」


「銀貨1枚分か」


「舟1艘分だ」


フィンが鼻から短く息を吐いた。宗方(むなかた)は小屋の戸口に立ち、外の暗がりを見ていた。


「長くいると、ここにも来ますよ」


「残りの1枚で、何を買う」


俺が聞くと、フィンは銀貨を袋に落とし、口紐を結び直した。


「腹に入るもんだ。下の町は、祭日前で屋台が出てる」


それから、俺の頭巾(ずきん)の端を指でつまんで、少し下へ引いた。


「それと、顔を隠せるもんもな」

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