巡礼者の床屋町
フィンの指が離れると、頭巾の縁は眉のすぐ上まで下がっていた。関所の裏の戸には吊り橋の3人が座り、表の門では板と兵が手の甲を見ている。1年まで、あと4日だった。
石の小屋を出て、谷川沿いの道を下った。左膝が深く曲がらないので、段のある所は体を横にして足を下ろした。最後に食ったのは昨日の朝の芋で、手元にあるのは爺さんが返した銀貨1枚と、フィンの袋の底の銅貨だけだった。
下の町は、通りの端まで人の肩で埋まっていた。巡礼者たちは小さな灯りを提げ、屋台の前や軒下に座り込んでいた。祭日を明日に控えて、関所の門が開くのを待っているらしかった。
「はぐれるなよ」
フィンが振り返らずに言った。
「この人の数なら、兵だって1人ずつは見ていられねえ」
「手配書には、顔は描いてなかったな」
「ああ。頭巾の男、喋る遺物を連れた神印なき者、だ。顔がねえから、頭巾が顔の代わりになってる」
宗方が、通りの左右へゆっくり目をやった。
「その頭巾の男ですけど、ここには君しかいませんね」
言われて、俺も見回した。巡礼者は誰も頭を覆っていなかった。男も女も髪を短く整え、灯りの下で額を出していた。
フィンが顎で、右へ折れる通りを示した。その通りには床屋が並んでいた。どの家も軒下に椅子を出し、灯りを頼りに巡礼者の髪と髭に刃を当てていた。
一番手前の床屋は、腰の曲がりかけた男だった。椅子の客の首に布を巻きながら、後ろに並んだ巡礼者と喋っていた。
「明日の夜は、日没の鐘で門が開きます。祭日の夜だけは、夜通し入れるんですよ」
「朝まで待たなくていいのか」
「待つ人もいますがね。前の晩に頭を整えて、鐘と一緒に入るのが、昔からの決まりで」
フィンが列の後ろから首を伸ばした。
「親父さん、日没の鐘ってのは、門の上の鐘か」
「ほかに鐘はありませんよ、この谷には」
床屋は刃を布で拭きながら笑った。フィンは軽く手を上げて列を離れ、俺の横へ戻った。
「明日の、日没の鐘だ」
「巡礼と一緒に入るのか」
「入れるかどうかは、これからだ。ただ、いつ開くか分からねえまま壁の外で震えてるよりは、ずっといい」
宗方が、俺の頭巾の端を見ていた。
「君も、切りませんか」
「いらない」
「頭巾を取って髪を短くすれば、手配書の形から外れます。人は、探している物の形で人を見ますから」
「経験か」
「仕事でした」
フィンが、もう決まったという顔で俺の肩を叩いた。左の肩甲骨の下の打ち身に、鈍く響いた。
「並んでろ。俺たちは食いもんを買ってくる。銀貨は俺が崩す」
「値切るなよ」
「床屋の分は値切らねえ。パンは値切る」
床屋の横の、家と家の間の暗がりに入って順番を待った。通りの声が壁に当たり、ここまで来ると少しだけ丸くなった。背中の包みの奥で、光が小さく灯った。
『あの人たちは、なぜ髪を切るのですか』
「門をくぐる前の決まりらしい」
『髪の長さで、門の通りやすさが変わるのですか』
「変わらない。気分の問題だ」
『気分のために、刃を首の近くへ当てさせるのですね』
「そう言われると、変な決まりだ」
『あなたも、これから当てさせます』
「……言うな」
包みの光が消えた。人の間を縫って、茶色のくせ毛が戻ってきた。
フィンは葉に包んだ焼いた芋を2つと、黒パンを1つ抱えていた。宗方は湯気の立つ木の椀を両手で持っていた。
「銀貨は崩した。もう半分も残ってねえ」
「パンは値切ったか」
「芋を1つ、おまけさせた」
パンを3つに割り、椀の薄い汁を回して飲んだ。パンは固かった。どこの町のパンも、同じ所が固い。
芋の皮は焦げていて、中だけが熱かった。腹に物が落ちると、下り坂でずっと震えていた膝が少し静かになった。宗方は椀の底を見ながら、通りの床屋を眺めていた。
「床屋は、3年ぶりです。こっちに来てからは、ずっと自分ではさみを入れてました」
「下手だったのか」
「渡し場の客に、3日は笑われました」
フィンが芋を頬張ったまま吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
「次の方」
床屋が、刃の先で俺を呼んだ。
椅子の脚は1本だけ短く、座ると左へ傾いた。直す気はないらしかった。床屋が首に布を巻き、俺の頭巾に手を掛けた。
「取ってもらえますか」
自分で下ろした。左手は外套の内側に入れたまま、膝の上から動かさなかった。灯りが額に当たり、首の後ろに夜の風が入った。
床屋の指が、俺の髪を一房ずつ持ち上げた。
「ずいぶん、自分でやりましたね。刃物で、急いで」
「時間がなかった」
「でしょうね」
それ以上は聞かず、床屋は刃を入れた。耳の横で、髪の切れる短い音が続いた。切られた髪が布の上を滑り、石畳へ落ちていった。
首の後ろに、温かい布が当てられた。湯気と一緒に、何かの草の匂いが上がってきた。
「いい匂いですね。薬草を浸してあるのかな」
宗方が、椅子の横から布を覗き込んだ。俺も鼻で吸った。匂いはあった。それが何の草で、どこで嗅いだ匂いと同じなのか、鼻の奥で何もつながらなかった。
「そうか」
それだけ返した。宗方は少し俺の顔を見て、布の方へ目を戻した。
そのとき、通りの突き当たりで太鼓が鳴った。
突き当たりは石畳の広場になっていて、荷車の台の上に、松明を持った兵が4人立っていた。そのあいだに、細長い包みを胸に抱えた男が1人いた。カルムの宿の戸口で、夜分に失礼します、と言った男だった。
「夜分に失礼します。第三審問隊を預かっています、オズワルドです」
通りの巡礼者たちが話をやめ、広場の方へ流れ始めた。床屋の刃が、俺の額の上で止まった。
「この谷のどこかに、黒淵から戻った男がいます。神印を持たず、左の手の甲に黒い印があります」
兵の1人が、台の横の板に紙を押し当てた。松明が寄せられ、紙が灯りの中に浮いた。
描かれていたのは、伸びた髪を刃で雑に切った男の顔だった。頬がこけ、額と顎に古い傷が1本ずつ走っていた。紙の上の男は、俺だった。
紙の上の顔は、松明に照らされて、通りの誰の顔よりもはっきりしていた。手配書の文字を読んだときより、ずっと怖かった。
「私たちは、この男を災厄の男と呼んでいます。連れは2人。見かけた方は近づかず、兵に知らせてください」
オズワルドは包みを抱え直し、広場をゆっくり見渡した。
「この男は、人を殺します」
巡礼者たちのざわめきが、通りを逆に流れてきた。吊り橋で縛った2人も、手首を折った方も、俺が離れるときには息をしていた。それを言える場所は、どこにもなかった。
「動くな」
フィンが、俺の椅子の後ろで囁いた。
「顔、描かれてやがる」
宗方は何も言わずに半歩動き、広場へ向かう人の流れと俺の椅子の間に立った。それから、紙の方を見たまま低く言った。
「うまい絵です。見た人が、何度も直させて描かせた絵だ」
誰が見た顔なのかは分からなかった。吊り橋の向こう岸の3人か、カルムの宿を囲んだ盾の列の誰かだろうと思った。
外套の内側で、右手が拳になっていた。握った感覚は遅れて、少し経ってから指の腹に返ってきた。俺は息を4つ数えるあいだに、指を1本ずつ開いた。
「連れの絵は、まだだな」
フィンが自分の襟元を引っ張った。
「描かれたいのか」
「男前に描いてくれるならな」
床屋の刃が、また動き出した。額の上の髪が、少しずつ短くなっていった。床屋は一度も広場の方を見なかったし、俺の顔も見なかった。
最後に首の布を外し、刷毛で襟の内側の髪を払った。それから床屋は、椅子の背に掛けてあった頭巾を取り、俺の膝の上へ置いた。
「額の傷は、前髪じゃ隠れませんよ」
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