七枚の聖板
黒パンの味だ、と言った声は、東からの風にすぐ流された。縁沿いの道は、少しずつ下りになっていた。朝の芋3つの重みは、もう腹のどこにも残っていなかった。1年まで、あと5日だった。
この道の先の宿場には、吊り橋から逃げた3人の知らせが、俺たちより先に着いているはずだった。顔も人数も、向こうに知られていた。それでも、東へ行く道はこれしかなかった。
「味か」
フィンが横目で俺を見た。
「黒パンは食える。今も味はする」
「じゃあ、何がねえんだよ」
「養護院で食ってた黒パンと、並べられない。固くて、少し酸っぱかった。そういう話をした覚えはある。舌の方が、覚えてない」
フィンは3歩ほど黙って歩いた。それから、自分の舌の先を前歯で軽く嚙むような顔をした。
「……預かった。次」
坂を2つ越えるまでに、残りを話した。フィンは1つ聞くたびに指を折り、聞き返したのは2度だけだった。7本目の指を折ったところで、その手を下ろした。
「8つ目は」
「字だけ残ってる。中身は分からない」
「なら、そこは空けとく。俺も知らねえ分だ」
フィンは折った指をそのまま握り込み、腰のあたりで1度だけ振った。後ろでは、宗方の足音が2歩分遅れたままついてきていた。
靴の中に入った小石を、立ち止まらずにつま先の方へ追いやった。払い下げの靴は、石を拾うのだけはうまい。裂けた後ろの革が、布を巻いた踵の上をこすった。
昼を少し過ぎたころ、道は裂け目の縁を離れ、轍の重なった広い道へ合わさった。背中に荷を負った人々が、同じ方向へ歩いていた。首から下げた小さな聖印を、歩きながら握っている者が多かった。
「巡礼だ。祭日が近い」
フィンが声を落とした。
「俺の頭巾は」
「深くかぶっとけ。ただ、深すぎると逆に目立つ」
「どっちだ」
「ほどほどだ」
「ほどほどが、一番難しいんですよ」
宗方が後ろから言った。杖をついた老人が、俺たちを追い越していった。あの杖は、俺の左膝の方が欲しがっていた。巡礼たちの聖印が、日を受けて小さく光っては、握る手の中に隠れた。
道がゆるく曲がった先で、谷が開けた。谷の底を石の壁が横切り、その真ん中に、屋根を載せた門があった。門の手前から人の列が延び、こちらの坂の途中まで続いていた。
「関所だ。聖都へ出るには、あそこを抜ける」
フィンは足を止めずに言った。
「列には並ばねえ。俺たちの顔は、もう向こうにある」
「どこか、上から見られる場所はありますか」
「ある。左の林だ」
列から外れて、左の斜面の林へ入った。葉を落とした木の間を、左膝を深く曲げずに済む所だけ選んで上った。斜面の途中の岩の陰に腹ばいになると、門の下までが見下ろせた。ここから門までは、俺の足で200歩ほどだった。
門の屋根の下に、長い石の台が置かれていた。台の上には、手のひらほどの白い板が、横に7枚並んでいた。どれも同じ形で、日の当たらない屋根の下で鈍く白かった。
列の先頭の男が、右手を1枚目の板に置いた。板の中に淡い光が灯り、男は手を2枚目へ移した。7枚目まで同じことを繰り返すと、7つの光が台の上に並んだ。
横に立った兵が、男の手首を取った。手のひらを上に向けさせ、次に甲を返させた。それから男の頭巾を指で押し上げ、顔を見てから、門の内へ顎をしゃくった。
「前は、手を返させたりしなかった」
フィンが小声で言った。
「いつの前だ」
「去年の春に通ったときだ。7つ光れば、それで終わりだった」
「甲を見てる」
「お前のそれだろうな」
フィンが、俺の左手を顎で示した。俺は外套の中で、左手を握った。罪標は、痛みも熱も返してこなかった。
「1枚でも光らなかったら、どうなるんです」
宗方が、門から目を離さずに尋ねた。
「横の小屋だ。聞いた話じゃ、出てくるのに半日かかる。出てこねえやつもいる」
列はゆっくり進んだ。前の者が門をくぐるたび、後ろの者が少しずつ詰めた。荷を負った女が7枚を光らせ、さっきの杖の老人の板も、7枚とも灯った。暗いままの板は、1枚もなかった。
母親に抱え上げられた小さな子が、1枚目に手を置いた。板は一瞬暗いままで、兵が身をかがめた。それから光が灯り、母親の肩が下がった。
岩についた俺の右の手のひらが、冷えた。昼の日を吸ったはずの岩だった。冷たさは、そこから来たものではなかった。
奈落へ落とされる前、あの広場で、俺も石の板に手のひらを置いた。板は冷たく、最後まで暗いままだった。周りの話し声が、そこから少しずつ止んでいった。
黒パンの味はなくしたのに、あの板の冷たさは、指の腹にそのまま残っていた。列の先で板が光るたび、手のひらの奥の冷たさが濃くなった。怖い、と思った。
「おい」
「平気だ」
「何も聞いてねえよ」
フィンはそれだけ言って、門の方へ目を戻した。宗方が、岩の陰で自分の右手を開いて見ていた。
「自分の手でも、光らないかもしれませんね」
「たぶん、光らない」
「試したこと、ないんですよ。3年いて、一度も」
宗方は少しだけ笑い、開いた手をまた握った。
「お前は」
フィンが俺に聞いた。
「1枚目から光らない」
「言い切るな」
「カルムの組合で、もう見た」
「……登録を断られたって、あれか」
俺は頷かなかった。フィンも、それ以上は聞かなかった。
台の両脇には、兵が2人ずつ立っていた。門の上には弓を持った兵が1人いて、列の頭の方を見下ろしていた。列の横には柵があり、その奥に低い小屋が1つあった。
「壁の端を見てくる」
「1人でか」
「すぐ戻る」
斜面を東と50歩ほど横に歩くと、壁の端が見えた。石の壁は谷の斜面を上がり、その先は切り立った岩につながっていた。岩の上にも、人の影が1つ動いていた。風が斜面を吹き上がり、枯れ葉が足もとで乾いた音を立てた。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『列から横の小屋へ連れて行かれた人は、私が見ていたあいだに3人でした』
「全員、光らなかったのか」
『いいえ。板は光っていました。兵が手の甲を見たあとで、連れて行かれました』
「甲に、何があった」
『見えませんでした。この距離では』
「俺のと同じかどうかも、分からないか」
『分かりません』
俺は岩の上の影を見た。影は壁に沿って歩き、また戻ってきた。
「俺の手で、あれは光るか」
『光らないと推定します。カルムの組合の板と同じ仕組みであれば』
「同じだろうな」
光が、少しのあいだ動かなかった。
「包みの中は、揺れるか」
『斜面では揺れます。あなたが左膝をかばうと、右へ傾きます』
「文句か」
『記録です』
「お前の記録は、だいたい文句に聞こえる」
光が、少しだけ弱くなった。それが返事のつもりなのかは、分からなかった。
岩の陰へ戻ると、フィンが斜面の下から上がってくるところだった。息が少し荒く、膝に枯れ葉が付いていた。
「道の脇で、巡礼の話を拾ってきた」
「何て言ってた」
「今朝から、頭巾は全部脱がせてる。昨日の夕方、縁の方から馬で来た兵が3人、門の小屋に入ったってよ」
フィンは俺の顔を見ずに言った。宗方が、薬箱の紐を肩に掛け直した。
「手の甲と、顔と、人数ですか」
「全部だ。3人連れは、列に並んだ時点で終わりだ」
俺は門の台を見下ろした。また1人が7枚を光らせ、兵が手を返させ、門の内へ通した。台の上の光は、手が離れると順に消えていった。消えたあとの板は、また屋根の下で鈍く白いだけに戻った。
「正面は、行かない」
「ああ。正面は、ない」
「じゃあ、どこから入るんです」
宗方が聞いた。フィンは腰の袋を上から押さえ、中の重さを確かめるように1度だけ振った。
「正面がだめなら、裏だ。銀貨で開く戸を、1つ知ってる」
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