お前の親友だ
目を開けると、破れた藁屋根の隙間から、灰色の空が見えた。村の東の外れにある、壁が3方だけ残った納屋だった。屋根と呼ぶには、穴が多すぎる。
風が吹くたびに、乾いた藁の切れ端が床へ落ちてきた。床には古い藁が薄く敷かれていて、その下の土は夜の冷えをまだ抱えていた。背中を起こすと、外套に付いた藁屑がぱらぱらと落ちた。
腹は、鳴る力も残していなかった。1年まで、あと5日。東へ行く道は、この縁沿いの1本しかなかった。その先の宿場には、吊り橋から逃げた3人の知らせが、もう届いているはずだった。
フィンは戸口の柱にもたれ、弩を抱いたまま眠っていた。宗方はもう起きていて、薬箱の留め金を指で確かめていた。
「畑の跡、ありましたか」
「ある。たぶん」
「また、たぶんですか」
俺は納屋を出た。昨夜、嗅跡Lv.1の線を頼りにたどり着いた畑は、明るくなってみると、雑草に埋もれた畦が何本か残っているだけだった。湿った土の匂いの中に、1本だけ甘い線が混じっていた。
畦の端を手で崩すと、親指ほどの芋が出てきた。続けて掻き出すと、全部で9つあった。土を掻くたびに、左の肩甲骨の下の打ち身が鈍く鳴った。
芋を外套の裾に包んで戻ると、フィンが目を開けていた。
「何だ、それ」
「芋」
「小せえな」
「文句があるなら、食うな」
「食う」
宗方が、壁からはがれた板を割って、小さな火を起こした。煙は低く、屋根の破れ目の方へはっていった。フィンが鼻をひくつかせた。
「朝の煙ってのは、いいもんだな」
俺も息を吸った。鼻の奥を刺す、乾いた匂いがした。煙の匂いだとは分かったが、どこが「いい」のかを探しても、見つからなかった。
俺は火から少し離れて座り直した。火の熱が頬に届くところまで寄ると、なぜか落ち着かなかった。少し離れると、今度は背中が冷えた。どちらがいいのかも、よく分からなかった。
灰の中で転がした芋を、皮ごと齧った。土の味が先に来て、甘さはその後ろに少しだけあった。3つずつ分けると、残りはなかった。
熱い皮が舌に張りつき、飲み込むと、腹の底に小さな重みが落ちた。足りないとは思ったが、何もないよりはずっとよかった。
「半分は土だな」
「黙って食え。俺だって土を食ってる」
フィンが言い、宗方が小さく笑った。
食べ終えて、俺は記録帳と炭筆を出した。炭筆を挟むと、指を閉じた感触は一拍遅れて届いた。強く握れば折れるので、指先だけで支えて、新しい頁の端に字を置いた。
『落下から推定360日』
数え違いがないか確かめようと、頁を戻した。ベルガルドの東の門の陰で書いた『追う。』があった。書いたときに見た、東へ延びる街道も、すぐに浮かんだ。
そのもう1枚前の頁に、ミアの字が3行あった。少し右上がりで、最後の丸だけが大きい字だった。その下に1行、右へ傾いた字があった。
『ミアの声を、今日から覚える。』
俺の字だった。いつ書いたのか思い出そうとしても、何も出てこなかった。
どこに座っていたのか。灯りはあったのか。ミアは、隣で何を言っていたのか。紙と字だけがあって、その前と後ろが抜けていた。
ミアの字の中の『レイ』と『ミア』を、指でなぞった。顔は浮かび、髪の色も目の色も浮かんだ。声が来ないのは前からだった。この1行を書いた自分だけが、どこにもいなかった。
「朝から、何を睨んでる」
フィンが、火の向こうから言った。
「字だ」
「字は、睨んでも逃げねえよ」
俺はすぐには返さなかった。宗方が、火に板を足す手を止めていた。
「これ、いつ書いたか分からない」
「自分の字だろう」
「俺の字だ。書いたことだけが、ない」
フィンが眉を寄せた。宗方が、火を見たまま静かに聞いた。
「後ろの頁は、書いたときのことを覚えていますか」
「門の陰で書いた。覚えてる」
「前の頁は」
「覚えてる」
「なら、抜けてるのはその1行だけですね」
宗方はそれ以上聞かず、板を火へ押し込んだ。代わりに、フィンが身を乗り出した。
「前にも、あったのか。こういうの」
返事までに、火の中で板が1度はぜた。
「ある。時々、なくす。何をなくしたかは、後で気づく」
「昨夜の、あの声もか」
「たぶん」
フィンは俺の顔を見て、それから記録帳を見た。弩を膝から下ろし、火の方へ身を寄せた。
「なら、何を忘れたか教えろ。俺が覚えてやる」
「なんで、お前が」
「お前の親友だ」
「いつから」
「今からだ。文句あるか」
俺は答えなかった。炭筆を挟んだ指に、また遅れて感触が戻ってきた。ほっとした自分が、少しおかしかった。
「それ、薬みたいなもんですよ」
宗方が、火を見たまま言った。
「効くけど、減る」
「何が減るんだよ」
フィンが言い返した。宗方は少し黙り、膝の上で指を組んだ。
「人から聞いた分は、聞いた言葉の形で戻ってきます。自分の中にあった形のままでは、戻らない。話してもらうたびに、そっちの形に置き換わっていくんです」
「だから何だ。ないよりましだろうが」
「ましです。だから、薬なんですよ」
宗方は組んだ指をほどき、火に灰をかぶせ始めた。妻と娘のことを話したときと同じ、低い声だった。
フィンは舌打ちをして、俺の方へ向き直った。
「で、どうする。俺に預けるのか、預けないのか」
「顔を洗ってくる」
俺は記録帳を閉じて、立った。
畑の端の溝に、夜露の溜まった石の窪みがあった。納屋からは、壁1枚分離れていた。しゃがむと、左膝が小さく軋んだ。
溝の底には、枯れた草が絡まったまま沈んでいた。石の表面は朝の光を受けて、ところどころ白く乾き始めていた。遠くで鳥が鳴いたが、姿はどこにも見えなかった。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『聞いていました』
「だろうな」
『あの字について、私に記録があるか、確かめますか』
俺は水を掬いかけた手を止めた。窪みの水に、頬のこけた顔が揺れていた。
「いい」
『理由を聞いてもいいですか』
「お前から聞いても、俺のにはならない。さっき、あいつが言ってた」
光が、少しのあいだ動かなかった。
『では、8件目の中身は、推定として記録します』
「好きにしろ」
水を掬って飲み、顔を洗った。冷たさが目の奥まで通り、喉の底に残っていた重さが、少し沈んだ。
『フィン・ローデルの言った「親友」の定義を、私は持っていません』
「俺も持ってない」
『では、記録しないでおきます』
「しろ」
『定義がありません』
「今からだそうだ」
光が1度、短く揺れた。
『記録しました』
「何て書いた」
『あなたが言ったとおりです』
俺は濡れた手を外套でふいた。右手の指の付け根の布が、冷たいまま湿っていた。
納屋に戻ると、火はもう土で埋められていた。灰の中から、細い煙がまだ少しだけ上がっていた。フィンは弩を背負い、宗方は薬箱の紐を肩に掛けていた。裂け目の縁に沿って、細い道が東へ延びていた。
道の右側は、裂け目の底へ向かって急に落ち込んでいた。のぞき込んでも、底は白いもやに沈んで見えなかった。左側には、葉を落とした低い木が、風に押されたように同じ向きへ傾いて並んでいた。足元の土には細かい石が混じっていて、踏むたびに乾いた音を立てた。
3人で歩き出してからしばらく、フィンは何も言わなかった。時々、背中の弩を背負い直す音だけが、横から聞こえた。風は東から吹いていて、乾いた土と草の匂いを運んできた。左膝は、崩れた石を踏むたびに小さく鳴った。
「さっきの、まだ返事を聞いてねえ」
「何の」
「とぼけるな」
俺は外套の内側で、記録帳の角に触れた。紙の手触りは、いつもと同じだった。
「全部で8つある。最後の1つは、さっきの1行だ。何があった夜かは、分からない」
「分からないのは、俺にも覚えようがねえな。分かってる分でいい」
宗方が、足を緩めた。
「自分は、少し後ろを歩きます」
足音が2歩分遠のき、フィンが俺の横に並んだ。
「ほら。1つ目は」
俺は東の道の先を見たまま、口を開いた。
「黒パンの味だ」
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