震える声
日が裂け目の向こうへ沈むと、縁沿いの道から色が抜けた。手前の家の崩れた壁の陰で、俺は布を巻いた右手を開いて閉じた。両方の前腕のしびれは昼より引いていたが、指を閉じた感触は、まだ少し遅れて戻ってきた。
腹には昨夜から何も入っていなかった。1年まで、あと6日。斜面を回れば半日を食い、この村を抜けなければ、東へ行く道はない。
「本当に、あれをやるのか」
フィンが、壁にもたれたまま言った。
「やる」
「昼に、拳が通らなかったろう」
「通らなかった。だから、殴る所を変える」
「どこを」
「まだ分からない。見て決める」
フィンは口を開けかけて、宗方の方を見た。宗方は薬箱の蓋に手を置いたまま、広場の方の闇を見ていた。
「自分たちは、何をすれば」
「ここにいろ。あいつは、この家より先には来なかった」
「来なかっただけで、来ないとは限りませんよ」
「だから、壁の裏に座ってろ。立ったまま止まられると、引きずるのが面倒だ」
フィンが鼻を鳴らし、弩を膝の上に置いて、弦から指を外した。
「見てるだけってのは、性に合わない」
「見ていられるだけ、まだましです」
宗方がそう言うと、フィンはそれきり黙った。
俺は暗視Lv.3を開いて、家の間を抜けた。闇は灰色の濃淡に変わり、石の粉の匂いが、昼と同じ1本の線になって広場へ延びていた。嗅跡Lv.1の線の先で、獣は井戸の横に寝ていた。
最後の家の角で止まり、周りを確かめた。井戸までは角から30歩ほど。左は腰の高さもない石垣で、その向こうはもう裂け目だった。右には屋根の落ちた家が3軒並び、その先が浮いた石の斜面になっている。
石垣は所々で崩れ、積んだ石が外へ傾いていた。退くなら、背中の道しかなかった。
角を出て、獣の正面へ歩いた。15歩の所で足を止めると、獣が頭を上げた。目が俺を捉え、前足の爪が敷石の上で開いた。
獣は起き上がりながら、首の石の板を1枚ずつ立てた。板の根元が持ち上がり、その下に、皮のひび割れていない薄い色の筋がのぞいた。口が開いた。
吠え声が、足の裏から上がってきた。胸の骨が震え、背中の包みの内でシグの躯体が小さく鳴った。俺は吠え声の中を走った。前足は2本とも、敷石に張り付いたまま動かなかった。
15歩を詰め終えるのと、吠え声が切れるのが同じだった。獣の脇腹が膨らむ。俺は右の掌を、立った板の根元の薄い筋に押し当てた。
黒炎Lv.1を、板と皮のつなぎ目にだけ流した。焦げる匂いが鼻を突き、板が1枚、根元から浮いて敷石に落ちた。その下には、灰色ではない、湿った肉の色があった。
脇腹がしぼんだ。俺は右へ跳んだが、それより早く左の前足が来た。爪は外れたが、足の付け根が俺の脇を押し、井戸の縁まで転がされた。井戸の石が背中に当たり、左の肩甲骨の下の打ち身が鈍く鳴った。
起き上がると、獣は板の落ちた首を低くしていた。今度は口を開けず、前足で敷石を掻きながら、井戸を回り込んでくる。右腕の内側で、黒い筋が熱を持っていた。
俺は井戸を離れ、左の石垣の方へ下がった。傾いた石が、踵のすぐ後ろにあった。
獣が跳んだ。俺は膝を折り、前へ転がって腹の下を抜けた。獣の前足が、俺のいた所の石垣に落ちた。
傾いていた石が外へ崩れ、右の前足が肩まで裂け目の上に抜けた。獣は左の前足の爪を石垣の残りに立て、体を止めた。後ろ足が敷石を蹴っても、崩れた石が爪の下でずれ、前へは出られなかった。
獣が首をねじり、横に回った俺へ口を開けた。
一番近くで、吠え声を浴びた。耳の奥が高く鳴り、目の前が一瞬白くなった。それでも足は動いた。前足は2本とも、石垣と裂け目の縁を掴んだままだった。
吠え声が切れた。脇腹が膨らむのを見ながら、俺は板の落ちた首の横へ踏み込んだ。右の拳に硬殻Lv.4を張り、湿った肉の色の所へ打ち込んだ。昼の壁とは違い、拳が沈んだ。
肉の奥で、何かが折れる音がした。拳を開き、沈んだ手の先から、もう一度黒炎Lv.1を流した。熱は板の根元をつなぐ筋を伝って、首の回りを一周した。
石の板が、根元から次々と外れて落ちた。獣の脇腹は膨らんだまま、しぼまなかった。爪が石垣から離れ、体が縁の上で傾く。前半分だけが裂け目の上に垂れ、残りは敷石の上で止まった。
右手を引き抜くと、指の感覚が手首の所で詰まって、なかなか先まで来なかった。黒い筋は3本のまま、皮膚の下で脈打つように熱かった。
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《討伐結果》
討伐対象:吼岩獅 1体
討伐吸収が完了しました。
蓄積した残滓を統合しました。
能力値が上昇しました。
生命:119 → 126
筋力:113 → 120
耐久:134 → 142
敏捷:127 → 133
魔力:159 → 164
知覚:145 → 151
精神:171 → 178
獲得可能な技能があります。
獲得候補:震哮Lv.1
魂適合率:61%
忘却負荷:小
取得しますか。
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熱が腹から手足の先へ広がり、転がされた背中の痛みが少し遠のいた。俺は表示の最後の行を見たまま、しばらく動かなかった。
取れば、何か1つ消える。何が消えるかは、出てこない。昼に壁の陰で、弦から指を外せずにいたフィンの手が浮かんだ。殴らずに、触れずに、人の足を止めた声だった。
次の宿場には、審問兵の知らせが先に着いている。
「取る」
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魂喰が発動しました。
獲得対象:震哮Lv.1
魂適合率:61%
忘却負荷:小
技能枠が不足しています。
魂容量を拡張します。
忘却庫が拡張されました。
技能枠:6/6 → 6/7
震哮Lv.1を取得しました。
忘却庫へ格納します。
技能枠:7/7
技能取得の代償を徴収します。
忘却深度:11 → 12
残存記憶率:96.0% → 95.6%
――感覚記憶の欠損を確認。
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喉の奥に、さっきまでなかった重さがあった。息を吸うと、その重さが胸の骨の内側で低く震え、吐く息に乗りたがった。
嬉しかった。拳以外で人を止める手が、俺に1つ増えた。
背中の包みの奥で、光が灯った。周りに人の気配はなかった。
『終わりましたか』
「終わった。1つ取った」
『失ったものは、ありますか』
「ある。何かは、分からない」
光が少しのあいだ揺れなかった。
『記録します。8件です』
俺は返事をせず、足もとに散らばった石の板を1枚拾った。両手でも、持ち上げるのに腰が要った。
「こいつ、これを首に何十枚も立てて寝てたのか」
『生えていた、と推定します』
「食えると思うか」
『皮は岩です。歯の方が先に負けると推定します』
「板の下は、肉の色をしてた」
『板の下だけです』
板を下ろすと、敷石が乾いた音を返した。光が落ちた。
手前の家に戻ると、フィンが弩を半分上げたまま、壁の裏から顔を出した。
「2回目の吠えのあと、急に静かになった。どっちだ」
「向こうが」
フィンは長く息を吐き、弩を下ろした。宗方が薬箱を開けて、俺の右手を取った。
「布の端が焦げてますね」
「問題ない」
宗方は黒い筋のある手首の内側に1度だけ目をやり、何も聞かずに布を巻き直した。新しい布は、指の付け根をきつく締めた。その感触は、今度も遅れて届いた。
崩れた壁の上の端に、浮いた石が1つ載っていた。俺は2人から離れ、その下に立った。喉の奥の重さを、吐く息に乗せた。
胸の骨から、低い音が出た。昼に聞いた吠え声よりずっと小さく、短かった。壁の上の石が震え、端から外れて地面に落ちた。
「おい」
フィンが弩の弦から手を離していた。
「今、指が止まりかけたぞ」
「悪い」
「今のは、君の声ですか」
宗方が俺の喉のあたりを見ていた。
「知らない。出た」
「出た、じゃねえよ」
「さっきの獣のに、少し似てました。ずっと小さいですけど」
フィンは指を握って開き、それから俺の顔を見た。
「あれの真似は、俺のいない所でやれ」
「分かった」
俺は落ちた石を、壁の根元へ蹴って寄せた。喉の重さは、吐き切ったあともまだ、胸の内側に残っていた。
荷を背負い直し、3人で広場を抜けた。井戸の横を過ぎるとき、フィンは石垣の方を見ないで歩いた。宗方は1度だけ振り返り、縁から垂れた獣の背に向けて、手を合わせた。
「腹は減ったままですね」
「村の東に、畑の跡がある匂いがする」
「匂いで分かるのか、それ」
「たぶん」
「たぶん、で夜道を歩かせるな」
フィンが前に出た。俺は嗅跡Lv.1の線を探しながら、その後ろについた。
レイが落ちてから、359日目の夕方だった。馬車が止まり、幌の外で、知らない男の声が書き付けを読み上げていた。
「保護対象、ミア・ベル。追憶の塔へ」
向かいの巡察官様の手が、膝の上で止まった。銀の数珠を繰っていた左手の指だった。
「命令書には、第三環の保護院とあります」
「変更です。上からの」
「どなたの印ですか」
男は答えなかった。書き付けを畳む音だけがした。
幌の口から、白い石の壁と、その上へ細く高く伸びる塔が見えた。窓はずっと上の方に、小さいのが1つあるだけだった。保護院というのが、あんな形をしているとは思えなかった。
「巡察官様。保護って、ああいう所に入ることなんですか」
すぐには返事がなかった。数珠の玉が1つ、指の間から滑って、紐の先で揺れた。この人が何かを数え損ねるのを、私はこの7日で初めて見た。
「……降りてください、ミア・ベル」
声は平らだった。でも、添え木をした右手が、胸の上へ少し持ち上がっていた。私が直した添え木だった。
私は鈴を握った。鳴らないように、強く握った。怖かった。それでも、笑おうと思えば笑えた。
「巡察官様も、来てくれますか」
返事はなかった。代わりに巡察官様が先に幌を出て、数珠を持ったままの左手を、私の方へ差し出した。
私はその手を取って、塔へ続く石畳に降りた。握った指の中で、鈴が1度だけ鳴った。
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第1話はこちら → (https://ncode.syosetu.com/n5416mt/1)




