岩の獅子
匂いの線は、窪地を出て縁沿いの道に入っても途切れなかった。湿った土と枯れ草の匂いの中を、乾いた石の粉の匂いだけが、細くまっすぐ東へ延びていた。嗅跡Lv.1で拾えるのは、その1本だけだった。
麦は昨夜で尽き、今朝腹に入ったのは冷めた薬湯だけだった。1年まで、あと6日。宿場を避けた分、この道はもう1日遅れている。
「腹、鳴ってるぞ」
前を歩くフィンが、振り返らずに言った。
「お前のだ」
「両方だよ」
宗方は黙って、道の脇の草を見ながら歩いていた。食べられる葉を探しているのだろうと思ったが、手は1度も伸びなかった。風が裂け目の方から吹き上がり、草の先を同じ向きに倒していった。
昼を過ぎた頃、裂け目の縁に沿って、屋根の落ちた石の家が並んでいるのが見えた。10軒ほどの、人のいなくなった村だった。戸はどれも外れ、窓の穴から草が伸びていた。道は家と家の間を通って、その先へ続いていた。
一番手前の家の壁に、4本の溝が斜めに走っていた。高さは俺の肩ほどで、溝の底だけが白かった。指でなぞると、まだ粉が付いた。
「熊か」
フィンが言った。
「熊は、石を削らない」
「削ったっていうより、研いだみたいですね」
宗方が溝の端に顔を寄せた。どの溝も同じ深さで、何度も一つ所を往復した跡に見えた。
戸口の奥に、崩れかけた竈があった。
「火の跡がある。誰か住んでるかもな」
フィンが中を覗いて言った。
俺は竈の前にかがみ、鼻を近づけた。煙の匂いはした。だが、それがゆうべの火の匂いと同じなのかどうか、並べる先が出てこなかった。
指で煤をこすった。冷たく固まっていて、指の腹には付いてこなかった。
「古い。誰もいない」
「鼻で分かんないのか」
「指の方が早い」
フィンは肩をすくめ、それ以上は聞かなかった。
石の粉の匂いは、村の真ん中へ向かって濃くなっていた。道の右は浮いた石の積もった斜面で、左は低い石垣の向こうがもう裂け目だった。どちらも、走って抜けられる道ではなかった。
「上を回るか」
フィンが斜面を見上げた。
「回ったら、半日は食うぞ。その先で日が暮れる」
「見てくる」
「見るだけだぞ」
家の間を抜けると、井戸のある広場に出た。俺は最後の家の角で止まり、フィンと宗方はその5歩後ろの壁の陰に入った。井戸までは、角から30歩ほどだった。
井戸の横に、それが寝ていた。獅子の形をしていたが、荷を引く馬より一回り大きかった。灰色の皮は乾いた岩のようにひび割れ、首の回りには平たい石の板が何枚も重なっていた。
前足の爪の下で、敷石が白く削れていた。寝息のたびに、首の板が小さく触れ合って、乾いた音を立てた。
獣が頭を上げた。目が俺の所で止まり、それから後ろの壁の陰へ動いた。
「下がれ」
言い終える前に、獣が口を開けた。
吠え声は、耳より先に足の裏から来た。軒に残っていた石が落ち、敷石の上で砕けた。胸の骨の内側が、鳴らした鐘の中にいるように震えた。
振り返ると、フィンは弩を半分上げたまま止まっていた。宗方も壁に片手をついたまま、目を開けて、まばたきをしていなかった。俺の足は動いた。なぜ動くのかは、分からなかった。
獣は吠え終えても、すぐには来なかった。脇腹が1度大きく膨らみ、しぼむのと同時に敷石を蹴った。
30歩が、見る間に縮んだ。横へ跳べば、後ろの2人の前が空く。俺は両方の前腕に硬殻Lv.4を張り、角の前で交差させた。
右の前足が、上から振り下ろされた。重ねた腕で受けると、肘から肩へ重さが抜けた。踵が敷石を削り、3歩分後ろへ滑った。左肩の古い傷が、奥で鈍く鳴った。
殻は割れなかった。白い筋が2本走っただけだったが、その下の骨がしびれていた。滑りが止まったところで、右の拳を獣の前足の付け根へ打ち込んだ。壁を殴ったのと同じ手応えが返り、指の付け根の皮がむけた。
獣は1歩だけ下がった。痛がったようには見えなかった。下がった分だけ首の板を立て、俺の顔の前で、もう一度口を開けた。
近くで聞く吠え声は、頭の中を直接叩かれるようだった。耳の奥が高く鳴り、目の端で壁の漆喰がはがれ落ちた。今度は、獣の前足を見ていた。吠えている間、2本の前足は敷石に張り付いて動かなかった。
吠え声が切れた。口が閉じ、脇腹がまた1度膨らんだ。その1呼吸の間、獣はどこも動かなかった。
俺は振り返り、フィンの襟と宗方の帯を掴んだ。握った強さは、指から遅れて返ってきた。襟の縫い目が鳴ったので指を1本ゆるめ、2人を角の陰へ引きずり込んだ。
獣の前足が、さっきまで俺のいた角を払った。崩れた石と漆喰が、背中に降ってきた。細かい粉が首筋に入り、汗と混じって張り付いた。2人の足は地面を引きずられるだけで、自分では1歩も出なかった。
壁の向こうで、3度目の吠え声が上がった。声が切れたところで1呼吸を数え、俺は2人を引いたまま、来た道を走った。
左膝が1度軋んだ。右で蹴り、左は乗せるだけにした。溝のある一番手前の家まで戻ったところで、後ろの足音が止まった。
振り返ると、獣は手前の家の壁際に立っていた。前足を上げ、壁を斜めに掻いた。古い溝の上に新しい白が重なり、石の粉が落ちた。それから獣は向きを変え、広場の方へ戻っていった。
道の端に2人を下ろすと、フィンが咳き込んだ。宗方は自分の手を見ていた。指が細かく震えていた。
「……足が、俺のじゃなかった」
フィンが、地面に手をついたまま言った。
「撃とうとしたんだ。指が、弦から外れなかった」
「自分もです。怖いと思うより前に、体が先に止まってた。耳を塞いでも、たぶん同じです。足の裏から来ましたから」
宗方は震える手を、もう片方の手で包んだ。
「君は、なんで動けたんですか」
「知らない」
フィンが膝に手をついて立ち、宗方も壁を伝って立った。2人とも、自分の足で立っていた。それを見て、ほっとした。
宗方が薬箱を開け、俺の右手を取った。むけた皮の下から、赤い肉がのぞいていた。
「何を殴ったんです」
「石だ」
「石を殴る人の手ですね」
宗方は水筒の水で傷を洗い、細い布を巻いた。白い布の上に、赤い色がゆっくり滲んできた。両方の前腕はまだしびれていて、布の締まる感触は遅れて届いた。
外套を確かめたが、新しい裂け目はなかった。裂ける袖が、もう残っていなかった。
「上を回ろう」
フィンが斜面の上へ目をやった。
「半日なら、まだ取り返せる」
「あの斜面の途中で吠えられたら、自分たちは落ちます」
宗方が言った。フィンは口を開けかけて、閉じた。
「吠えたあと、1呼吸ある」
俺が言うと、2人がこちらを見た。
「何が」
「あいつが動かない。毎回、そうだった」
「1呼吸で、何ができる」
「お前らを引いてきた」
フィンは襟の縫い目を指でなぞり、それ以上は言わなかった。
俺は2人を道の端に残し、手前の家の崩れた壁に上がった。壁の上は風が強く、石の粉の匂いが、広場の方から途切れずに流れてきた。広場の井戸の横で、獣はまた寝そべっていた。前足の下の敷石が、昼の光を白くはね返していた。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『吠え声は、すべて記録しています』
「間は」
『吠え終わってから次に動くまで、毎回同じでした。1.2秒です』
1呼吸より、少し短かった。俺は布を巻いた右手を開いて閉じた。
『あなたの拳は、届いていません』
「知ってる」
腹が、また鳴った。
「腹が減った」
『私は減りません』
「知ってる。言っただけだ」
『では、記録しません』
光が落ちた。広場の獣は目を閉じたまま、首の板だけをわずかに上下させていた。
壁を下りると、フィンが待っていた。宗方の手の震えは、もう止まっていた。
「で、どうする」
「日が落ちたら、もう一度、吠えさせる」
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