罪標
「その印、痛みますか」
宗方は、握った俺の左手を離さずに聞いた。
「痛くない」
落下から359日目の朝だった。1年まで、あと6日。麦は昨夜の粥で尽き、鍋の底には冷めた薬湯が少し残っているだけだった。
道の先の宿場には、昨日の3人が先に着いている。門の前で待っているのは、俺の顔と連れの人数を知った者たちだった。
「前にも、同じ形の印を見たことがあります」
宗方はそう言って、ようやく手を離した。
「どこで」
「話します。ただ、フィンが起きてからにさせてください。同じ話を2度するのは、きついので」
宗方は火の灰を棒でかき寄せ、それきり黙った。灰の下で、小さな火がまだ赤く残っていた。俺は包みを肩にかけ、沢へ下りた。
沢へ下りる段で、左膝が1度軋んだ。水に右手を入れると、冷たさは少し遅れて指に届いた。沢の水は浅く、底の小石が朝の光をはね返していた。
指を動かすと、砂が少しだけ舞って、すぐに沈んだ。手の甲の黒い点は、水の下でも同じ大きさのまま残っていた。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『その印について、報告があります』
「言え」
『昨日の吊り橋で、印から出ている信号の形が変わりました。2人目の手首が折れた時刻と一致します』
俺は水の中で手を止めた。
「ほかの時は」
『霧の夜に獣を倒した時は、変わりませんでした。最初の男を伏せさせた時も、変わっていません』
「変わった信号の中身は」
『並びがありました。私の記録と照らすと、時刻と場所の並びだと推定します』
シグは、同じ平らな声のまま続けた。
『人を傷つけた時刻と場所を送る印です。誰がしたかは、届いていません』
「届いてない」
『並びの中に、誰かを示す場所があります。そこが空のまま送られています。あなたの体には外へつながる流れがないので、印がそこを読めなかったと推定します』
「名前の欄だけ空いた手配書か」
『その言い方は、記録には使いません』
俺は沢の砂を掴み、手の甲をこすった。皮膚が赤くなっても、黒い点は薄くならなかった。
『こすっても、信号は変わりません』
「知ってる」
『では、なぜこするのですか』
「汚れてる」
光が、少しの間だけ黙った。
『フィン・ローデルは、昨夜、口を開けて眠っていました』
「記録するな」
『もう、しました』
俺は濡れた手を外套の裾で拭い、窪地の上へ戻った。
フィンは起きていて、弩の弦を指で弾いていた。弦の音は低く、乾いた朝の空気の中で短く鳴っては消えた。火のそばに座ると、宗方が鍋を回してきた。
冷めた薬湯は、昨夜よりまずかった。鍋の縁には、乾いた草の葉が張り付いていた。苦みが抜けて、青臭い水だけが残っていた。
「よく飲めるな、それ」
「腹に何か入る」
「入るのは草だろ」
俺は鍋を置き、左手の甲を2人に見せた。
「この印は、人を傷つけた時と場所を送ってる。誰がやったかは、送れてない」
フィンの目が、俺の背中の包みへ1度動いて戻った。
「……それが調べたのか」
「そうだ」
宗方は何も聞かず、小さく頷いた。棒を火から抜き、灰の上に置いた。
「前に、自分より前にも来た人がいたらしい、と言いましたね。らしい、と言ったのは、話せなかったからです。見ただけでした」
宗方は自分の手の甲を、親指でなぞった。
「こっちへ来て最初の冬です。裂け目の向こうの町で、広場に市が立っていました。男が1人、荷車の持ち主と揉めて、相手の顔を殴った。鼻が折れたくらいです」
「その男の手に、これがあったのか」
「ええ。君のと同じくらいの、黒い点が」
宗方は火を見たまま続けた。
「次の日の昼に、教会の人たちが来ました。誰も呼んでいないのに、殴った時刻と広場の場所を知っていた。それから、見ていた人を1人ずつ呼んで、誰がやったかを聞いていきました」
フィンが弦から指を離した。
「見てたやつは、全員あいつだって言った」
「言いました。自分も、その中にいました」
「その男は、どうなった」
「連れて行かれる時に、叫びました。自分の国の言葉で、家に帰らせてくれ、と」
宗方の声は低いままだった。火を見る目も、話の始めから少しも動いていなかった。
「こっちの誰にも、意味は分からなかったと思います。自分には分かった。でも、何も言えなかった。言えば、自分も同じ所から来たと分かるので」
「どこへ連れて行かれた」
「知りません。それきりです」
火の中で、小枝が1本はぜた。誰もすぐには口を開かなかった。煙が細く立ちのぼり、上を吹く風に流されて消えていった。
俺は宿の夜を思い出していた。あの夜のことは、まだ順番どおりに思い出せた。盾の列が崩れた先に、あの隊長は立っていた。俺の右手を見ていたのに、手は伸ばさなかった。
舟で川へ出た時も、あいつは石段の上から見ているだけだった。追えとも、投げろとも言わなかった。
「あの夜、あいつは自分で俺を止めに来なかった」
「手配書は、生死を問わず金貨1枚だ」
フィンが言った。
「殺すだけなら、寝てる宿に火をかければ済んだ。囲むって話は、俺も聞いた。火の話は、1度も出なかった」
俺はフィンを見た。フィンは目を逸らさなかった。
「殺したいんじゃない。殺させたいんです。人の見てる前で」
宗方が言った。
「時刻と場所は、印が送る。誰がやったかは、見たやつが言う」
「ええ。自分が向こうの立場なら、そうやって書類を揃えます」
「お前、どっちの味方だよ」
「昔の仕事の話です」
東の門の前で、イレーネ・ヴァイスは言った。俺が戦えば災厄の元として処分する、今度は1人の執行官ではない、と。馬車に乗る前に、ミアは戦わないでと言った。どちらの声も、まだ耳の奥に残っていた。
「人前で、1人でも殺したら」
「それで、届く書類が全部揃います」
宗方は短く言った。
「そのあとは、誰も君を追っているとは書かない。討ちに行く、と書きます」
俺は右手を開いて閉じた。指の関節は、どこも痛まなかった。橋の上で俺の手が取ったのは、剣を持った手首だった。あの時いちばん近くにあったのが喉だったら、と考えた。
怖かった。相手を死なせることより、そのあとに何が起きるかを、もう知ってしまったことが怖かった。
「顔、白いぞ」
フィンが横から口を挟んだ。
「平気だ」
「平気な顔じゃない」
俺は答えずに、手の甲を見た。
「最初の男を伏せさせた時は、変わらなかった」
宗方が顔を上げた。
「傷を付けなければ、送られないのかもしれない。昨夜の締めも、跡は残りません」
「落としても送られないかは、分からない」
「なら、確かめるのは人の見てない所で。自分の首で」
「やめろ。朝からその話は」
フィンが弩を膝から下ろした。
「宿場は通れない」
フィンは窪地の縁を顎で示した。
「裂け目の縁沿いに、古い道がある。昔は人が住んでた村の跡を抜けて、宿場の先で街道に戻れる。1日は遅れる」
6日のうちの1日だった。残りの日を指で数えるまでもなかった。俺はすぐには答えず、火の残りに土をかけた。
「行く」
「食い物は」
宗方が聞いた。
「畑の残りか、井戸くらいは、あるかもしれない」
「腹が減ってる時の、かもしれないは当てにしないことにしてます」
「じゃあ、ここに置いていく」
フィンが鼻を鳴らすと、宗方は笑わずに薬箱を閉じた。
それから細い布を出し、俺の左手の甲に1重だけ巻いた。
「送るのは止められません。でも、人の目には付かない」
外套は両袖とも裂けていて、手を隠せる所はどこにもなかった。布の端を口で咥えて締めると、黒い点は見えなくなった。布の下で、点のあった場所だけがわずかに冷たく感じられた。
3人で窪地を上がると、縁の方から風が吹き上げてきた。湿った土と枯れ草の匂いが、顔に当たった。足もとの道は細く、踏み固められた跡も草に埋もれかけていた。誰も、しばらく何も言わずに歩いた。
縁沿いの道の先から、砕いた石の粉の匂いが1本、まっすぐこちらへ延びていた。
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