10秒
蹄の匂いは、道の先の曲がり角で3本から1本の太い線に重なり、その先は風に散っていた。馬なら、次の宿場には日が落ちる前に着く。俺たちの足では、明日の昼を過ぎる。
落下から358日目だった。1年まで、あと7日。宿場の門には、俺の顔と人数を知った者が先に立っていることになる。
縛った男の縄を、宗方は半日あれば自分で解ける結び方に直した。手首を折った男には、水筒から1口飲ませた。フィンが槍と剣を谷へ落とし、俺たちは2人を橋のこちら側に残して、揺れる板を渡った。
日が傾くころ、道から外れた窪地へ下りた。道から火が見えない深さがあり、底を細い沢が流れていた。宗方は薬箱を開き、中を指で探ってから蓋を閉じた。
「腫れを引かせる草が、もうありません」
宗方は俺の左腕を見て言った。前腕は朝よりさらに太り、袖のない肌が火の色に張っていた。
「どんな草だ」
「葉の裏が白くて、ちぎると青臭い。苦い匂いがします。水の近くに生えるやつです」
「探してくる」
「暗くなる前に戻ってください」
沢へ下りて、俺は息を吸った。苔と濡れた石と、上流から流れてくる獣の古い匂いがあった。その中に、青く苦い線が1本、沢の曲がりの方へ細く延びていた。
嗅跡Lv.1の線は、太いか細いかしか教えない。俺はしゃがみ、線が濃くなる方へ鼻を下げながら石の間を進んだ。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『さっきから、鼻を地面に近づけすぎています』
「お前には、鼻がない」
『ありません。ですから、あなたの姿勢を記録しています』
「するな」
線は、沢の曲がりの岩の陰で止まった。膝の高さの草が固まって生え、葉を返すと裏が白かった。1枚ちぎると、青臭く苦い匂いが指に移った。
養護院でも、熱を出すたびに薬湯を飲まされた。苦かったことも、椀を両手で持たされたことも覚えていた。だが、この匂いを並べようとしても、並べる先に何も置かれていなかった。
『葉の裏が白い草です。宗方恭介の説明と一致します』
「同じ匂いか」
『何と、ですか』
俺は答えずに、抱えられるだけ草を抜いた。
宗方は麦の残りを一握り鍋に入れて粥にし、3人で分けたあと、同じ鍋で草を煮た。湯が緑に濁り、火の上に苦い湯気が立った。冷めるのを待って、鍋ごと俺に回ってきた。
「飲んだことあるのか、こういうの」
フィンが聞いた。
「ある。養護院で」
「じゃあ、懐かしい匂いだろ」
「匂いは、ない」
フィンは鍋と俺の顔を見比べ、何も言わなかった。口をつけると、草を煮た水の味がした。熱いうちに飲んだ方が、まだましだった。
宗方は薬箱から小さな瓶を出し、布に傾けた。強い匂いが鼻の奥を刺した。
「それ、酒だろ」
フィンが身を乗り出した。
「傷を洗う分です」
「1口でいい。今日は橋で弩を撃って、揺れる板の上まで矢を拾いに行ったんだぞ」
「その1口ぶん、誰かの傷が汚れます」
「宿場に入れないなら、銀貨はどうせ使い道がない。次の町で、瓶ごと買って返す」
「次の町に入れるなら、ですね」
「入る。裏から入る。俺はそういうのが得意なんだ」
「渡し場でも得意でしたね。自分が預かってる渡しの賃を、自分の前で値切って」
「預かってるだけなら、お前の金じゃない」
「だから困るんです。帳面が合わない」
2人の声が、窪地の底で少しずつ大きくなった。宗方は布を俺の右の上腕に当て、強く押しつけた。傷が焼けるようにしみ、俺は息を止めた。
「飲みたいなら、先に傷を作れ」
フィンは口を開け、閉じた。
「お前が言うと、冗談に聞こえない」
宗方が小さく笑い、瓶の栓を固く締めた。
布を巻き終えると、宗方は火の向こうに座り直した。
「橋の2人目のこと、まだ考えてますね」
俺は右手を開いて閉じた。動いた感覚は、今も少し遅れて返ってきた。
「手首を返すのは、手首が取れたときの技です。手首しか取れないと、ああなる」
「ほかに何がある」
「首です」
フィンが顔を上げた。
「首の横を、前腕と二の腕で挟みます。息の管じゃない、首の両脇の血を止める。相手は数秒で落ちます」
「落ちる」
「眠るみたいに、力が抜ける。そこで放せば、すぐ戻ってきます」
宗方は自分の首の横を指で押さえた。
「落ちてから10秒を超えたら、殺します」
火の中で、薪が1本崩れた。
「君の手は、握る強さが遅れて返ってくる。だから強さで加減しようとすると、間に合わない」
「なら、どうする」
「数えてください。強さは遅れても、数は遅れません」
俺は自分の首に指を当てた。皮膚の下で、脈が規則正しく打っていた。
「脈で数える」
「それで、いいです」
宗方は俺に背中を向けて座り、首を少し前へ出した。
「まず、自分が叩いたら放す。3つで叩きます」
俺は右腕を宗方の首へ回し、肘の内側を喉の正面から外して首の横へ当てた。左腕は添えるだけにした。締めると、前腕の内側に宗方の脈が触れた。
1つ、2つ。3つ目の前に、宗方の手が俺の腕を2度叩いた。俺はすぐに腕を開いた。宗方は前へ手をつき、短く咳をした。
「強い。今の半分でいい」
「半分が、分からない」
「なら、自分が叩くまでの数で覚えてください。今のは3つ数える前でした。次は、脈が5つ打っても叩かない強さです」
2度目は、締める前に肩の力を抜いた。脈が1つずつ前腕に触れ、5つ目でも宗方の手は動かなかった。7つ目で、叩く手が来た。
「それです」
宗方は首を回し、火の向こうのフィンを見た。
「次は、落としてください」
「おい」
フィンが立ち上がった。
「正気か。こいつは今日、人の手首を折ったんだぞ」
「だからです。知らない技を、橋の上で知らない相手に初めて使う方が、よっぽど正気じゃない」
宗方は俺の方を振り返らずに言った。
「落ちたら、放す。放してから自分が戻るまで、数えておいてください」
俺はすぐには腕を回さなかった。前腕の内側に、さっきの脈の跡がまだ残っている気がした。
「……やる」
腕を回し、2度目と同じ強さで締めた。脈が前腕に触れ、俺は数え始めた。
5つ目のあたりで、脈の間がわずかに空いた。6つ目で、宗方の右手が膝から滑り落ちた。首の重さが、急に俺の腕へ預けられた。
俺は腕を開いた。前へ傾いた宗方の肩を掌で受け、草の上に寝かせた。
「おい、宗方!」
フィンの声を聞きながら、俺は胸の中で数えていた。1つ、2つ、3つ。
4つ目で、宗方の瞼が動いた。目が開き、空を見て、それから俺を見た。
「……何秒でしたか」
「落ちてから放すまで、1つ。戻るまで、4つ」
宗方は寝たまま、長く息を吐いた。
「上出来です。橋で、これがあれば」
「手首は折れなかった」
「ええ」
フィンが腰を下ろし、両手で顔をこすった。
「2度と、俺の前でそれをやるな。心臓に悪い」
「次は、お前でやる」
「やらせるか」
火が小さくなると、フィンが弩を膝に置いて、窪地の縁に座った。
「今夜は俺が見張る。お前は寝ろ」
「起きてても、平気だ」
「平気な顔で、左腕をそんなに太らせるな。夜中に交代しろって言われても、起こさないからな」
俺は少し黙ってから、包みを頭の横へ置いた。
「任せる」
奈落では、目を閉じても耳は閉じなかった。石の上で横になるたび、遠くの爪の音と水の音を数えていた。落ちてからの1年近く、朝まで目を覚まさずに眠った夜は一度もなかった。
左腕を胸の上に置き、自己治癒Lv.2を流した。腹には粥が、喉には苦い湯が残っていた。骨の奥の熱が、少しずつ低く沈んでいった。
火の向こうで、宗方の寝息が聞こえた。フィンが小枝を折る音が1度した。その次の音を、俺は聞かなかった。
目を開けると、空が白みかけていた。夢は見なかった。体の下の草が湿り、火は灰の下で赤く残っていた。
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《技能成長》
自己治癒:Lv.2 → Lv.3
眠っている間の修復が深くなりました。
骨のひびまで修復が届きます。
忘却値に変化はありません。
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左腕を胸の上から下ろした。前腕は、右と同じ太さに戻っていた。地面に左手をつき、体を起こしても、骨の奥は鳴らなかった。
指を握り、開き、もう1度握った。嬉しかった。俺は左の拳を右の掌で包み、しばらくそのまま座っていた。
見張りは、いつの間にか宗方に代わっていた。フィンは弩を抱えたまま、口を開けて眠っていた。
「いつ代わった」
「夜中です。起こさなくていいって、フィンが」
宗方が、俺の左手を見た。
「握ってみてください」
差し出された手を、俺は左で握った。握った強さは、指からまっすぐ返ってきた。右では、昨日も今も、こうはいかなかった。
「治りましたね」
「治った」
宗方は手を離さず、俺の手の甲へ目を落とした。親指の先ほどの黒い罪標が、白んだ光の中に残っていた。
宗方は、その印から目を離さなかった。
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