吊り橋
朝になると、霧は谷の底へ沈んでいた。窪地の草は白く濡れていた。戸の前に転がっていた大きな獣は、霧と同じ色の毛のまま冷たくなっていた。
落下から358日目の朝だった。1年まで、あと7日。俺は窪地の縁に立ち、道の方へ鼻を向けた。
汗をかいた馬と、油を塗った革の匂いは、まだ道の上に残っていた。夜より薄くなっていたが、線は切れずに東へ延びていた。ミアを乗せた馬車も、この道の先を進んでいるはずだった。
「まだあるのか」
後ろでフィンが聞いた。
「ある。夜より薄い」
「馬の匂いなんて、どこの道にもあるだろ」
「革に油を塗ってある。荷馬に、そんな手入れはしない」
フィンは道を見て、それから俺の顔を見た。何か言いたそうだったが、宗方に呼ばれて火の方へ戻った。
宗方は消えかけた火で湯を沸かし、黒パンの残りを3つに割っていた。湯は鍋を洗った水の味がして、パンは昨日より固かった。火から上がる煙は、今の匂いとしてだけ鼻に入ってきた。
「左を出してください」
食べ終えると、宗方が言った。袖のなくなった左腕を出すと、前腕は手首の方まで夜より太く腫れていた。握ってみろと言われて指を曲げると、骨の奥が熱く鳴った。
「今日は、左で人を掴まないこと」
「右は、握る強さが分からない」
「なら、握らない」
宗方は自分の右手を開き、掌を俺の肘の裏へ当てた。軽く押されただけで、俺の腕はまっすぐに伸び、体が前へ傾いた。
「肘を伸ばして、体重で下へ。指は添えるだけでいい。骨を相手にしないで、地面を相手にするんです」
俺は自分の右手を見た。肘から手首の内側で、皮膚の下の黒い筋が3本、朝の光に薄く透けていた。
水を汲みに、俺は1人で沢へ下りた。昨夜の獣の匂いは、どれも沢の向こう岸へ渡ったところで薄れていた。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『沢の水の匂いは、どうですか』
「石の匂いだ。冷たい」
『冷たさは、匂いではありません』
「俺の鼻では、匂いだ」
『そう記録します』
筒に水を満たして戻る途中、靴の後ろの裂けた革から朝露が入り、踵の上の傷にしみた。払い下げの靴は、濡れると重くなるくせに、乾くのは遅かった。
道は昼前に、深い谷へ下りた。崖の下から、川の音が響いていた。
曲がり角の先に、吊り橋が見えた。両岸の太い杭に縄が張られ、板を並べた細い道が谷の上でわずかにたわんでいた。長さは40歩ほどに見えた。
「この谷を渡るなら、あれしかない」
フィンが角の岩から首を出して言った。
「下流の浅瀬まで回ると、半日かかる」
俺は息を吸った。馬の匂いの線は、橋の手前で太くなり、板の上を向こう岸へ渡っていた。
ほかに、道から外れる線が2本あった。1本は橋の手前の左の茂みへ、もう1本は右の大きな岩の陰へ入り、そこで止まっていた。新しい汗と、油を塗った革と、鉄の匂いだった。
「茂みと岩の陰に、1人ずつ」
「俺には、ただの茂みだ」
フィンが目を細めた。
「向こうは」
宗方が聞いた。
「匂いが混ざってる。何人かは分からない」
嗅跡Lv.1で拾える線は、太いか細いかだけだった。重なった線の中で、どこまでが1人分なのかは分からなかった。
フィンがもう1度岩から顔を出し、すぐに引っこめた。
「向こう岸の木に、馬が繋いである。灰色の外套が3つ。審問隊だ」
「5人か」
「お前の鼻がなかったら、橋の真ん中で前と後ろから挟まれてた」
「鼻じゃない」
「じゃあ何だよ」
俺は返事をせずに、曲がり角から橋までの道を見た。橋の手前まで、曲がり角から30歩ほどだった。
「隠れてる2人は、君が橋に足をかけたところで出てきます」
宗方が言った。
「向こうの3人が橋の上で前を塞ぐ。そういう並べ方ですね」
「回るか」
フィンが言った。
「半日だ」
フィンは息を吐いて、背中の弩を外した。
「何をすればいい」
「向こうの足を止めろ。当てなくていい」
「当てる気なんかない。あの距離で当たるか」
宗方は何も言わずに上着の袖をまくった。殺すな、とは、2人とも言わなかった。
俺は1人で角を出て、橋へ歩いた。茂みは左の杭から3歩、岩は右の杭から4歩の所にあった。30歩後ろの角に、宗方とフィンがいた。
左の杭に手をかけると、縄がわずかに軋んだ。茂みの中で、汗の匂いの線が揺れた。
葉を割って、短い槍が低く出てきた。穂先は俺の右の腿を狙っていた。殺すつもりなら、もっと上を突く。
俺は杭から手を離し、穂先の内側へ半歩踏みこんだ。槍の柄が脇腹を擦って後ろへ抜けた。茂みから半身を出した男の右腕が、俺の胸の前で伸びきっていた。
俺は握らなかった。右の掌を、男の肘の裏へ当てただけだった。そのまま腕をまっすぐ押し、体重を前へ落とした。
男の体は、伸ばされた腕に引かれて前へ折れた。顔から落ちかけたところで、俺は肘を押す力だけを残した。男は胸から地面に伏せ、短い息を吐いた。
俺は男の肩甲骨の上に右膝を置いた。体重は半分だけ乗せた。男は2度もがき、伸びた肘が鳴る前に、自分から動きを止めた。
肘も肩も、曲がるべきでない方へは曲がっていなかった。男は地面に頬を押しつけたまま、荒い息をしていた。
ほっとした。俺の手の下で、人が壊れずに止まっていた。
右の岩の陰の男は、すぐには出てこなかった。砂利を踏む音が1度だけして、また止まった。後ろから、宗方の走ってくる足音が近づいた。
「代わります」
宗方が俺の横に膝をつき、男の腕を両手で取った。俺が膝を退けると、男はもう1度もがいたが、宗方の手の中で腕が少し伸びただけで静かになった。
立ち上がったとき、右の岩の陰で鉄の匂いが動いた。振り向くと、剣を抜いた男がもう3歩の所にいた。男は刃を寝かせ、剣の腹で俺の右肩を打つ構えをしていた。
左腕は上げられなかった。上げれば、ひびの入った前腕で剣を受けることになる。俺は右の前腕に硬殻Lv.4を張り、振り下ろされた剣の腹を受けた。
剣が殻の上で止まり、男の手首が俺の顔の前に来た。俺の右手は、考えるより先にその手首を掴んでいた。
握った強さは、いつものように遅れて返ってきた。返ってきたときには、指の下で細い骨がずれる手応えがあった。男の声が、谷に響いた。
剣が地面に落ちた。俺は手を開いた。男は手首を胸に抱えて膝をつき、歯の間から息を漏らしていた。
向こう岸で、誰かが叫んだ。灰色の外套が1つ、槍を構えて板の上へ走り出した。橋が大きく揺れ、縄が軋んだ。
後ろの角で、弦の鳴る音がした。フィンの矢は男の3歩手前の板に突き立ち、男はそこで足を止めた。2本目を構える音が、角の方から聞こえた。
板の上の男は、俺と、伏せた仲間と、膝をついた仲間を順に見た。その向こうで、もう1人が木から馬の縄を解き、鞍に飛び乗った。
蹄の音が東へ遠ざかった。板の上の男は後ずさりで向こう岸へ戻り、残った1人と馬に乗って、先の1頭を追っていった。
谷に、川の音だけが残った。
宗方は伏せた男の腕を背中へ回し、縄で縛った。男は呻き声1つ上げなかった。
手首を折った男は、まだ膝をついていた。俺と同じくらいの年に見えた。
「見せてください」
宗方が男の前にしゃがんだ。男は首を振ったが、宗方がもう1度言うと、黙って腕を出した。
「折れてますね。骨がまっすぐ折れたぶん、まだましです」
宗方は落ちていた剣の鞘を拾い、男の帯を切って添え木にした。俺は立ったまま、自分の右手を見ていた。指を開いて閉じると、動いた感覚が少し遅れて返ってきた。
「1人目は、教えたとおりでした」
宗方が手を止めずに言った。
「2人目は、握った」
「分かってる」
「左が使えなかった。剣が上から来た。手首が目の前にあった。君の手は、一番近いものを取ったんです」
「取ったら、折れた」
宗方は返事をせず、添え木の上に帯を回した。
フィンが弩を下げたまま、角から出てきた。板に刺さった自分の矢を見て、それから東の方を見た。
「3人、東へ行った。馬でだ」
「見てた」
「次の宿場には、俺たちより先に着く。顔も人数も、全部向こうに届くぞ」
「矢は、拾っていけ」
「今それかよ」
フィンは文句を言いながら、揺れる板の上へ矢を抜きに行った。
手首を折られた男が、顔を上げた。添え木を巻かれながら、俺を見ていた。
「……生贄が、人の手首に添え木を当てさせるのか」
「当ててるのは俺じゃない」
「君が折ったんですよ」
宗方が帯の端を俺に差し出した。
「最後は、君が結んでください」
俺は膝をついた。左膝が軋んだ。帯の端を受け取り、男の手首の上で、握らずに結び目を寄せた。
男は何も言わなかった。俺は立ち上がって、橋の向こうへ鼻を向けた。
向こう岸の木の下から、新しい蹄の匂いが3本、馬車の通った道を東へ延びていた。
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