霧の濃い夜
谷から上がってきた霧は、日が落ちても引かなかった。窪地を囲む低い木が根元から白く埋まり、縁の向こうの道も見えなくなった。宗方が石を並べて起こした火だけが、白い中に赤くにじんでいた。
落下から357日目の夜だった。1年まで、あと8日。霧に足を止められているあいだも、灰色の幌の馬車は東へ進んでいる。
俺は暗視Lv.3を入れた。闇は薄くなったが、霧は薄くならなかった。白さが灰色に変わっただけで、3歩先に座るフィンの背中が、ようやく人の形に見えた。
「目が利かないなら、鼻を使いましょう」
宗方が火に枝をくべながら言った。
「煙の匂いがするうちは、互いの場所が分かりますから」
湿った枝の焼ける煙が、霧に押されて草の上を低く流れていた。少し甘くて、喉の奥に引っかかる。火を焚いた夜には、いつもこの匂いがした。
「静かすぎないか」
フィンが膝を抱えたまま言った。
言われて、俺は耳を澄ませた。日が暮れる前まで鳴いていた虫が、1匹も鳴いていなかった。
代わりに、谷の方から息の音がした。走ったあとの犬のような、短く湿った息だった。左の木の陰と正面の霧の奥、それより下からも聞こえた。
「数は」
宗方が火から目を上げずに聞いた。
「分からない。多い」
「人ですか」
「人は、あんな息をしない」
フィンが腰の短剣に手をやり、すぐに離した。
「上に小屋がある。昼に枝を拾いに上がったとき見た。屋根は半分落ちてるが、壁は石だ」
「2人で入れ。戸を押さえてろ」
「お前は」
「外にいる」
宗方は燃えている枝を何本か抜き、布を巻いた手でまとめて持った。
「犬の相手は専門外です。君1人で足りますか」
「中に入られる方が困る」
フィンは何か言いかけて、やめた。背中から小さな弩を外し、宗方の後ろについて斜面を上がった。あの弩で霧の中を撃たれたら、獣より先に俺に当たる。
小屋は窪地の上の、道から外れた平らな所にあった。腰の高さまでは石が積まれ、その上は板で、屋根は奥の半分が落ちていた。2人が入って戸を閉めると、宗方の持ちこんだ火が板の隙間から細く漏れた。
俺は戸の前で、石の壁を背にして立った。右手には崩れた石が膝の高さに積もり、正面と左は窪地へ下る草の斜面だった。火のそばに残っていた枯れ枝を抱えてきて、3歩先の草の上へ半円に撒いた。シグの包みは、背中に負ったままにした。
最初に枝が鳴ったのは、左前の3歩先だった。白い中から、低いものが飛び出した。犬に似ていたが、毛が霧と同じ色で、輪郭が途中から溶けていた。
そいつは跳ぶ直前、両肩を1度沈めた。俺はその沈みを見て、右へ半歩ずれた。左の前腕に硬殻Lv.4を張ると、牙が殻の縁を掠め、獣は勢いのまま石の壁にぶつかった。
俺は右の拳を、その首の付け根へ落とした。骨の折れた手応えは、いつものように遅れて返ってきた。獣は草の上で2度足を掻き、動かなくなった。
次は2つ同時だった。正面の枝と、右の石の崩れから、ほとんど同じ音がした。
正面の方が近かった。俺は殻を張ったままの左腕を、低く前へ出した。獣が腕に噛みついて首を振ると、牙は殻を通らなかったが、振られるたびに左肩の古傷が鈍く鳴った。
右の石の上から、もう1つが跳んだ。俺は噛みつかれた左腕ごと体を回し、そいつを右の獣へぶつけた。2つがもつれて草に落ちた。
上になった方の頭を、右の踵で踏み抜いた。体重を受けた左膝が軋んだ。下の方は左腕を放して霧へ逃げかけ、その背へ俺の拳が先に届いた。
3つが草の上に転がると、霧の中の息がいっせいに止まった。少しして、下の方から長い息が1つ聞こえた。ほかの息より低く、喉の奥で鳴らすような音だった。
それを合図にしたように、周りの息がそろって遠のいた。次の音は、背中の壁の向こうからした。爪が板を掻く音だった。
「レイ、裏だ!」
板越しにフィンの声がした。戸の前を離れれば、正面が空く。俺は動かずに、背中の石を左の拳で2度叩いた。
「火を、裏の板の隙間に寄せろ」
「は?」
「いいから」
板の隙間から漏れる光が、裏の方で強くなった。掻く音が止み、唸り声が1つ斜面を遠ざかった。
戸の隙間の光も強くなっていた。正面の霧がわずかに赤みを帯び、その中を低い影がいくつも横切った。目では形にならなくても、影の流れる向きなら追えた。
影は左右から交互に来た。肩が沈むのを待って半歩ずれ、壁か石の崩れへぶつけさせてから拳を落とす。4つ目と5つ目は、それで済んだ。
6つ目には、右の上腕を爪で引っかけられた。宗方の巻き直した布の上から、血が滲んだ。拳は握れたが、肘を伸ばしきると焼けるように痛んだ。
6つ目が草に沈むと、散っていた息はもう寄ってこなかった。代わりに、下の長い息が近づいてきた。草を押し分ける音が、ほかの獣よりずっと重かった。
赤い霧の中に、俺の胸の高さほどの影が立った。大きいのはすぐには来ず、撒いた枝の外を左へ回った。1本も踏まなかった。
枝が鳴った方へ俺が向くのを、見ていたのかもしれない。左は斜面の下で、戸の光が届かず、霧がいちばん濃かった。俺はそっちへ顔を向けたまま、背中を壁から離さなかった。
右で枝が鳴った。同じときに、左の重い息が止まった。右を向けば、大きいのに背中を見せることになる。
俺は右へは向かず、右の前腕にも殻を張った。小さい方が右腕に食らいつき、その重さがずしりとぶら下がった。左の霧の中で、大きな影の肩が沈んだ。
大きいのは、低く左膝へ来た。俺は殻を張った左の前腕を、膝の前へ落とした。顎が前腕を挟み、その勢いで背中が石の壁に叩きつけられた。
殻は牙を止めたが、挟まれた力は骨まで通った。左の肩甲骨の下の打ち身に、壁の石が当たった。息が全部、口から出ていった。
大きいのは前腕を咥えたまま首を振り、俺を斜面の方へ引いた。右腕の小さい方も、同じ向きへ体重をかけた。2つとも、俺を壁からはがそうとしていた。
俺は右腕を振り上げ、ぶら下がった小さい方を崩れた石の上へ叩きつけた。小さい方は石の間に落ちて、それきり動かなかった。空いた右の拳を、大きいのの首へ落とした。
1発では足りなかった。大きいのは前腕を放して2歩下がり、低く唸った。俺は壁に背を戻し、左腕を胸の前に上げた。前腕の内側が、殻の下で熱く脈を打っていた。
大きいのは、もう回らなかった。正面から、両肩を深く沈めた。今度は喉へ来る高さだった。
跳んだのを見てから、俺は右へ体を落とした。大きいのの頭は、俺の首があった所を抜け、壁の石の角へまともに当たった。鈍い音がして、大きな体が戸の前に崩れた。
俺は膝をついたまま、最初の1つと同じ首の付け根へ、右の拳を落とした。2度目は要らなかった。下の方で、いくつもの息がばらばらに遠ざかっていった。
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《討伐結果》
討伐対象:霧狗 7体
討伐対象:霧王狗 1体
討伐吸収が完了しました。
蓄積した残滓を統合しました。
能力値が上昇しました。
生命:115 → 119
筋力:109 → 113
耐久:130 → 134
敏捷:123 → 127
魔力:156 → 159
知覚:140 → 145
精神:167 → 171
獲得可能な技能があります。
獲得候補:嗅跡Lv.1
魂適合率:64%
忘却負荷:微小
取得しますか。
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霧の中で、目は最後まで役に立たなかった。馬車の轍は、雨が1度降れば消える。匂いなら、霧の夜でも残るのかもしれない。
何を持っていかれるのかは、取るまで分からない。俺は膝をついたまま、取る方を選んだ。
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魂喰が発動しました。
獲得対象:嗅跡Lv.1
魂適合率:64%
忘却負荷:微小
技能枠が不足しています。
魂容量を拡張します。
忘却庫が拡張されました。
技能枠:5/5 → 5/6
嗅跡Lv.1を取得しました。
忘却庫へ格納します。
技能枠:6/6
技能取得の代償を徴収します。
忘却深度:10 → 11
残存記憶率:96.3% → 96.0%
――感覚記憶の欠損を確認。
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鼻の奥を、冷たいものが1度だけ通った。
息を吸うと、ただ湿っていただけの霧が、何本もの細い線に分かれた。濡れた毛の匂いが、草の上から斜面の下へ何本も延びていた。散った獣が逃げた跡で、どれも左下の沢の方へ降りていた。
壁の向こうの2人も、見るより先に分かった。古い汗と、昼の黒パンの残りの匂いだった。
霧の中で、初めて道が見えた。
嬉しかった。息を吸うたびに、白い中へ線が1本ずつ増えていった。
いちばん太い線は、背中の板の隙間から流れてくる煙だった。わずかな甘さが、喉の奥に引っかかった。さっき火のそばで、自分でそう思ったことは覚えていた。
火を焚いた夜の匂いと並べようとして、比べるものがどこにもないことに気づいた。煙だということは分かる。今の匂いもはっきり分かる。前の夜の匂いだけが、出てこなかった。
背中の包みの奥で、光が灯った。
『終わりましたか』
「終わった」
少し間を置いてから、俺は言った。
「煙の匂いが、分からなくなった。今のは分かる。前のが、ない」
『記録します』
光が、いつもより長く灯っていた。
『失った感覚の記録、これで7件です』
「多いな」
『はい。件数は私が数えます』
俺は、草の上の大きな体を見下ろした。霧と同じ色の毛が、戸の隙間の光で少しだけ赤く見えた。
『獣の匂いは、どうですか』
「濡れた毛布を、火で乾かし損ねた匂いだ」
『記録しますか』
「いらない」
戸の向こうで閂代わりの板が外れる音がして、光は消えた。
宗方が、燃えさしの枝を何本か持って出てきた。後ろからフィンが弩を下げたまま顔を出し、戸の前に転がった大きな体を見て足を止めた。
「これ全部、素手かよ」
「石も使った」
「そういう話じゃない」
宗方は燃えさしを地面に挿し、何も言わずに俺の左腕を取った。外套の左袖の残りは牙で裂け、その下の前腕が手首の方まで腫れ始めていた。指で押されると、骨の奥が熱く鳴った。
「折れてはいません。ひびくらいは入ってるかもしれない」
「平気だ」
「平気な人は、そこで息を止めませんよ」
宗方は右の上腕の布もほどき、滲んだ血を見てから、きつく巻き直した。肘を伸ばしきると、また焼けるように痛んだ。
「火、消すか」
フィンが小屋の方を振り返った。
「匂いで、また寄ってくるだろ」
「もう来ない。下の沢へ降りた」
「なんで分かる」
返事までに、少し間が空いた。
「匂う」
「犬かよ」
宗方が、口の端だけで笑った。俺の顔を1度見て、それ以上は聞かなかった。
俺は窪地の縁まで歩き、道の方へ顔を向けた。霧の中に、獣とも煙とも違う線が1本、道に沿って細く延びていた。汗をかいた馬の匂いと、油を塗った革の匂いだった。
「どうした」
フィンが後ろから聞いた。
「道に、馬の匂いがある」
「馬車か」
「違う。新しい」
蹄の匂いは、俺たちが明日進む東の道を、先へ延びていた。
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第1話はこちら → (https://ncode.syosetu.com/n5416mt/1)




