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折らない手

舟の底が対岸の砂利を擦(す)って止まった。川の霧はまだ水面から腰の高さまで残っていて、岸の葦(あし)の先だけが白い中から突き出ていた。ゆうべ宗方(むなかた)はあの一言の先を話さず、俺も聞かなかった。


落下から357日目の朝だった。1年まで、あと8日。霧に止められた一晩のあいだにも、灰色の幌(ほろ)の馬車は東へ進んでいる。


渡し賃は、フィンがゆうべ値切った額で済んだ。爺さんは宗方(むなかた)からは何も取らず、舟底に溜(た)まった水を桶(おけ)で掻(か)き出していた。その桶(おけ)の方が、舟よりよほど新しかった。


俺は舟べりに右手を掛けて砂利へ降りた。左膝をかばって右足から出たぶん、体重が右手に乗った。古い板が、指の下で低く鳴った。


「握らないで」


後ろから宗方(むなかた)が言った。


「掴(つか)んでない。手を掛けただけだ」


「板は鳴りましたよ。君の指より先に、板が教えてくれた」


俺は手を離した。指の腹に、ささくれの跡が白く残っていた。握った強さは、いつものように遅れて返ってきた。


宗方(むなかた)は岸に上がると、俺の前に立った。


「手首を出してください。見せるだけです」


右の手首を出すと、宗方(むなかた)の指が外側から添えるように掛かった。握られた感じはなかった。宗方(むなかた)が半歩、横へ回った。


手首が外へ返った。肘が伸びきる前に、俺の右膝が砂利に落ちていた。痛みが来るより先に、体の方が逃げていた。


「今のが手首返しです。回したのは自分の手じゃない。自分の体です」


「指は、ほとんど掛かってなかった」


「掛ける必要がないんです。手首は曲がる方にしか曲がらない。曲がりきった先へは、相手が自分で逃げます」


宗方(むなかた)は手を離し、俺を引き起こしもしなかった。


「歩きながら考えておいてください。昼に、やってもらいます」


フィンが舟から荷を下ろしながら、こっちを見ていた。


「やってもらうって、誰に」


宗方(むなかた)は答えず、フィンの方を見た。フィンは荷を抱えたまま、1歩下がった。


本道へ出る手前の、倒れた木の陰で昼の休みを取った。爺さんが持たせてくれた黒パンは、歯の方が先に負けそうなほど固かった。フィンは自分のぶんを半分かじって、残りを腰の袋へしまった。


「石の方が、まだ割れやすい」


「なら石を食え」


「食って歯が欠けたら、治療代はそっち持ちだぞ」


宗方(むなかた)がパンの最後のひと口を飲みこみ、立ち上がった。


「フィンさん。右手を出してください」


「冗談だろ。こいつが舟の板を鳴らしたの、見てたぞ」


「見てたなら、どこで止めればいいかも見ててください」


「止めるのはこいつだろ」


フィンは宗方(むなかた)と俺を順に見て、長く息を吐いた。それから右の袖をまくり、手首を俺の方へ突き出した。


「折ったら、治るまで荷物は全部お前が持て」


「最初から持ってる」


「じゃあ、もっと持て」


倒れた木の横の平らな土の上で、俺とフィンは2歩離れて向き合った。左には倒木があり、右は下りの斜面だった。俺はフィンの右手首に、朝の宗方(むなかた)と同じように外側から指を掛けた。


回そうとした。手首は外へ傾いたが、フィンの体はついてこなかった。肘は曲がったまま残り、膝も伸びていた。


俺は指に力を足した。返ってこないぶんを、もう少し、もう少しと足していった。


「待て、待て待て、痛い!」


フィンの顔から、先に血の気が引いた。指が何かを伝えてくるより早く、それが見えた。俺は手を開いた。


フィンの手首には、俺の指の形が赤く4本残っていた。フィンは手首を胸に抱えて、地面にしゃがみこんだ。


宗方(むなかた)がフィンの前に膝をつき、手首を軽く押した。フィンが息を詰めた。


「折れてはいません。……あと少しで、折れてました」


「回らなかった」


「だから足したんでしょう」


「足した」


「力で極(き)めると折れるんです。回らなかったのは、君の体が止まってたから。止まった体の代わりに、指が仕事をした」


俺は自分の右手を見た。手首の内側の黒い筋が3本、昼の光の下で皮膚の色を少し暗くしていた。指を開いて閉じると、動いたという手応えが半拍遅れて戻ってきた。


「指じゃ分からなかった。フィンの顔で分かった」


「顔が変わってからじゃ遅い。もっと手前を見てください」


フィンが手首を振りながら立ち上がった。


「次やるときは、先にお前の手首で試せ」


「朝、試された」


「あれは手本だろ。とにかく、昼の残りは休ませろ」


本道へ出てからは、宗方(むなかた)に渡された枯れ枝を右手に持って歩いた。指先だけで持て、と言われていた。親指と人差し指のあいだで、乾いた皮が少しずつ温まった。


1本目は坂の途中で鳴って折れた。2本目は、石を跨(また)いだときだった。


養護院の裏で、俺は毎朝薪(たきぎ)を割っていた。割った薪(たきぎ)を裏口に積んだことも覚えている。あのとき手に持った木肌がどんなだったかを思い出せれば、加減の目安になる気がした。


探しても、手の記憶はどこにも引っかからなかった。薪(たきぎ)を割っていたことは浮かぶのに、持った木の皮の感じだけが出てこない。俺は3本目の枝を拾い、思い出すのをやめて、指の下の皮を見た。


皮は、押しすぎると指の腹の周りから白く変わった。白くなりかけたところで、俺は指を止めた。歩きながらそれを繰り返すうちに、枝は坂の上まで鳴らなくなった。


日が傾き始めたころ、道が細い沢を跨(また)いだ。宗方(むなかた)とフィンが水を汲(く)みに下り、俺は荷と一緒に道端の岩に残った。


背中の包みの奥で、光が1度灯った。


『昼の悲鳴を、記録しますか』


「いらない」


『では、記録しません。大きな声でしたので、記録しなくても残ると推定します』


「本人に言うな」


『人前では喋りません』


光が少し揺れた。


『枝の折れる音は、坂を上がってから一度もしていません』


「見てたからだ」


『私には、見えていません。聞いていただけです』


「なら、そう記録しとけ」


『記録しました』


沢の方から、フィンが水筒を振りながら上がってきた。光は、その前に消えていた。


日が山の肩にかかるころ、道から少し入った草の窪地(くぼち)で足を止めた。風が弱く、周りを低い木が囲んでいた。宗方(むなかた)が窪地(くぼち)の真ん中を指さした。


「もう1度です。フィンさん」


「治療代の話が、まだ済んでない」


「折らなかった。昼も」


「あと少しだった、って聞いたぞ」


フィンは俺の顔を長く見ていた。それから昼と同じ手首を、昼よりゆっくり差し出した。


草の上で、2歩の距離を取って向き合った。俺の左は低い木で、フィンの後ろは柔らかい草だった。俺はフィンの手首の外側に、指を置くだけにした。


手は動かさなかった。右足を半歩、フィンの右へ回した。左膝が小さく鳴ったが、体重は右に残した。


フィンの手首が外へ傾いた。俺はフィンの肘を見ていた。肘が伸びかけ、右の膝がわずかに沈んだ。


そこで、俺は体を止めた。止めたのに、フィンの体は止まらなかった。自分から逃げるように膝を折り、背中から草の上へ転がった。


指先の手応えは、フィンが倒れきったあとで、ようやく戻ってきた。軽かった。洗濯場でイレーネ・ヴァイスの手首を掴(つか)んだのも、この右手だった。


フィンは仰向けのまま、自分の手首を顔の前にかざした。


「……あれ」


「痛いか」


「痛くない。痛くなる前に、こけてた」


宗方(むなかた)が草を踏んで近づき、フィンの手首を裏返して見てから離した。


「今のでいいです」


嬉しかった。顔に出したつもりはなかったが、フィンが起き上がりながら俺を指さした。


「笑ったな、今」


「笑ってない」


「笑った。見たよな」


宗方(むなかた)は返事の代わりに、口の端だけを少し上げた。


「今日のは、フィンさんが逃げなかったからできた。逃げようとする相手は、また別ですよ」


「明日か」


「歩きながら、です。止まってる暇はないんでしょう」


俺は頷(うなず)いた。


日が落ちきる前に、俺は記録帳を開いた。ミアの書いた頁(ページ)を1枚めくり、その次の空いたところに炭筆を当てた。


『落下から推定357日。手首返しを習った。フィンの手首は、折れていない。』


炭筆を止めて、右手を見た。力を1つ得るたびに、俺はどこかで何かを1つ置いてきた。今日は、頭の奥で何も鳴らなかった。


『奪わずに覚えたものは、何も奪わない。』書き足してから、指についた炭を外套(がいとう)の裾(すそ)で拭(ぬぐ)った。


宗方(むなかた)が火に使う枝を膝で折りながら、こっちを見た。


「何を書いたんです」


「今日のことだ」


「自分の名前も書きましたか」


「書いてない」


「それでいいです。書かれるほどのことは、まだ教えてないんで」


窪地(くぼち)の縁に立っていたフィンが、急にこっちを振り返った。昼に手首を押さえていた方の手で、谷の方を指さしていた。


下の谷の底から、白いものが木の根元を伝って上がってきていた。


「……霧だ。ゆうべのより、濃いぞ」

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それでは、次回の更新でお会いしましょう!


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