渡り人
角灯の火が霧の中で細く伸び、また縮んだ。宗方はそれ以上何も言わず、網を膝に戻した。
川の霧は、軒下の柱の根元まで上がってきていた。舟が出るのは夜明けで、それまでは何もできない。その間にも、灰色の幌の馬車は東へ進んでいる。
車輪が一回りするごとに、ミアとの間は開いていく。そう考えるのをやめようとしても、霧の白さがそれを許さなかった。
落下から356日目の夜は、まだ半分も過ぎていなかった。1年まで、あと9日。俺は柱に背を預けて左膝を伸ばした。肩甲骨の下の打ち身が柱に当たり、鈍く鳴った。
「0になった覚えがない、ってのは何だ」
宗方は網の目を1つ結んでから答えた。
「座ってください。立って聞くには長いんで」
俺は長椅子の端に腰を下ろした。板は霧を吸って湿っていて、縁の岩と同じくらい冷たかった。
「自分が生まれた所には、レベルがなかったんです」
「ない?」
「人を数字で並べる仕組みがない。神印もない。生まれて、働いて、年を取る。それで終わりです」
「どこだ」
「日本という国です。……知らないでしょう」
「知らない」
「ここで話した人は、みんなそう言いました」
宗方は網から目を上げなかった。指だけが、同じ速さで糸を結び続けていた。
「前の仕事は何だ、と聞きましたね」
「昔の話だ、と言った」
「言いました。……人を捕まえる仕事です。逃げる人や暴れる人を、殺さずに押さえる。その晩も、勤めの帰りでした」
宗方の指が止まった。
「向こうには、山の腹を抜ける長い穴があるんです。車という、馬の要らない荷車で、そこを毎晩通ってました。同じ道を、同じ時刻に」
「穴の中で、何があった」
「前が、白くなりました」
角灯の火が、また揺れた。
「月の光を、もっと冷たくしたような白でした。止まろうとして、足で踏んだ。……そこまでは覚えてます」
「それで」
「目を開けたら、この川の上の山にいました。荷車も、穴も、道もない。持ってたのは、着てた服だけです」
俺は自分の右手を見た。白い光なら、俺も1度くぐっている。第12層の転移区画から、シグと一緒に地上の施設跡へ出た夜だ。
口を開きかけて、閉じた。あの光の話をすれば、シグのことも、穴の底のことも話さなければならなくなる。今それを並べても、この男の帰り道が見つかるわけではなかった。
「嘘なら、もっと分かりやすい嘘をつく」
「信じるんですか」
「疑う理由が見つからない」
宗方は短く笑った。笑ったのは口の端だけで、目はすぐ網に戻った。
「山を下りて、この渡しの爺さんに拾われました。茶屋も、今は自分が預かってます。爺さんは、自分のことを渡り人と呼ぶんです。どこか別の所から渡ってきた人、という意味だそうで。渡しで拾ったからちょうどいい、と笑ってましたよ」
「家は」
返事までに、網の目が2つ結ばれた。
「女房と、娘が1人。家で待ってるはずでした」
「はずだった、か」
「待ってるかどうか、確かめようがないんです。……娘は、あの朝、玄関で手を振りました。何て言ったかも、どんな声だったかも、覚えてます」
覚えてる、という一言が、霧の中で妙にはっきり聞こえた。養護院で昔ミアに言われたことなら、俺は一字も欠けずに言える。その頃のミアの声がどんな音だったのかだけが、どこを探しても出てこない。
俺は黙ったまま、川の方を見ていた。霧の向こうで水が岸を舐める音だけが、規則正しく続いていた。
宗方が網をたたんだ。
「水がまた上がりましたね。綱を見てきます」
角灯を残して、宗方は岸の杭の方へ下りていった。霧が背中を呑み、足音と水の響きだけが残った。
背中の包みの奥で、光が1度灯った。
『聞いていました』
「知ってる」
『あの人が言った白い光を、記録しました。施設跡の台座から上がった光と、同じ範囲の色です』
「同じ光か」
『言葉だけで色を決めることは、私にはできません。同じである可能性が高い、と記録します』
施設跡で、俺は台座の受入命令を焼いた。シグが『経路、閉鎖』と言い、壁の文字の続きが埋まった。あの白い光が、もし宗方の穴とどこかでつながっていたなら。
「俺が閉じた道は」
『閉じたのは、奈落への経路です。あの人の穴とつながっていたかどうかは、私の記録にありません』
「記録にない、ってだけだな」
『はい。つながっていなかった、という記録もありません』
俺は懐の炭筆に指を掛け、出さずに戻した。何と書けばいいのか、分からなかった。俺の手がどこかの誰かの帰り道を焼いたかもしれないと考えたとき、右腕の黒い筋が、初めて怖くなった。
光が少し暗くなり、また戻った。
『あの人の茶は、どんな味でしたか』
「苦いだけだ」
『あの人も、向こうの茶はもう少しましだったと言っていました』
「向こうの茶がましでも、こっちで飲めないなら同じだ」
『記録しておきますか』
「いらない。葉を煮た湯の文句なんか、残すな」
光が1度だけ瞬いて、消えた。屋根裏で藁が鳴り、フィンが寝返りを打つ音がした。霧の下から、濡れた足音が戻ってきた。
宗方は軒下へ上がると、濡れた手を服の裾でぬぐった。
「綱はもちます。夜明けまでは平気です」
「帰る道は、探したのか」
宗方は長椅子に座り直した。
「探しましたよ。目を開けた山も、近くの洞穴も、白い光を見たという噂の出所も。……どれも外れでした」
「それで、ここで灯りを点けてる」
「霧の晩に人が流れるのを、もう見たくないだけです」
少し間があって、宗方は角灯の芯へ指を伸ばした。
「夜が明けたら、自分も川を渡ります。聖都まで行くつもりなんです」
「聖都」
「君たちも行くんでしょう。フィンさんが舟を引きながら、3度聞きました。灰色の幌の馬車は通らなかったか、って」
「通ったのか」
「通ってません。ここは本道から外れてるんで」
俺は息を吐いた。縁を歩いて拾った1日は、川の手前で霧に止められている。霧が晴れるのを待つしかないと分かっていても、膝の上の手はひとりでに固く閉じかけていた。
「頼みがあるんです」
「聞くだけなら」
宗方の口の端が、また少し上がった。さっき俺が言われたのと、同じ返し方だった。
「聖都まで、自分を連れていってもらえませんか。山にも街道にも、獣が出る。人なら押さえられますが、獣は無理です」
「金はないぞ。渡し賃も、あいつが値切ってる」
「金はもらいません。代わりに、渡せるものがあります」
宗方の目が、俺の右手へ下りた。
「握ると、割る、と言いましたね」
「言った」
「向こうでの仕事は、人を殺さずに、折らずに、動けなくすることでした。逮捕術といいます。それを教えます」
俺は右手を膝の上で開いた。洗濯場で、俺はイレーネ・ヴァイスの手首を掴み、折った。拳を止めることはできたのに、握る強さが分からなかった。
骨の折れる手応えは、手を離したあとで遅れて届いた。あの感触は、今も指の奥に残っている。
「折らずに、できるのか」
「できるようにするのが、稽古ですよ」
「俺の手は、握った強さが遅れて返ってくる。両方だ」
「さっき聞きました。なら、強さで覚えなければいい。……やり方は、明るくなってからです」
養護院の門の前で聞いたミアの声を、俺は覚えている。追ってきて。でも、戦わないで。
「聖都まで、守る」
「獣からだけでいいですよ」
「人からもだ。殺さずに止めるやり方は、お前が教える」
宗方は少し黙ってから、短く頷いた。
宗方が右手を差し出した。俺はそれを見たまま、動かなかった。
「握らなくていいです。手のひらを合わせるだけで」
俺は指を伸ばしたまま、掌を宗方の掌に当てた。網の糸で荒れた皮膚は乾いていて、温かかった。宗方は1度だけ軽く押し返し、すぐに手を離した。
「割れてませんね」
「まだ何もしてない」
「何もしないで割る人もいます。君は、そうじゃなかった」
角灯の芯が短くなり、灯りが少し落ちた。宗方は芯を指で引き出し、火の大きさを元に戻した。
「なぜ聖都だ」
宗方は角灯を見たまま、しばらく黙っていた。霧の向こうで、舟腹を叩く水の音がした。
「……自分より前にも、来た人がいたらしいんです」
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