渡し場の男
坂を下りきると、霧は足首より下へ沈み、川の音が急に近くなった。
落下から356日目の夜だった。1年まで、あと9日。縁を歩いて1日を拾ったが、灰色の幌の馬車は、それでもまだずっと先にいた。
俺は左手の甲の罪標に、裂けた袖の残りをかぶせた。渡し場に人がいるなら、その人はまず手を見る。見られれば、詰所で見られるのと同じことだった。
小屋は川へ張り出して建っていて、軒下の角灯のそばに男が1人座っていた。膝に網を広げ、破れた目を指で結び直していた。岸の杭には平たい舟がつながれ、黒い水が舟腹を叩いていた。
男が顔を上げた。30をいくつか過ぎたくらいで、短く刈った髪に白いものが混じっていた。その目は、俺の顔より先に、手と足を見た。
「縁から下りてきたのか」
フィンが、俺より半歩前に出た。
「よく分かるな」
「膝から下が濡れてて、上が乾いてる。霧の中を歩いてきた足ですよ」
「この霧の晩に、なんで灯りを消さない」
「霧の晩だから点けてるんです。縁から下りてきた人は、川の手前で道を見失う。灯りを消した晩に、1人、川へ入りました」
男は網をたたんで、膝から下ろした。
「渡るなら夜明けですね。霧の川は、底も向こう岸も見えないんで」
「急いでるんだよ」
「急いでる人ほど、夜の川に落ちるんですよ」
フィンは口を開きかけて、閉じた。言い返す言葉が見つからないらしく、そのまま俺を振り返った。
男の目が、また俺の左手へ戻った。袖の端を握り込んだ指を、しばらく見ていた。
「その手は、そのままでいいですよ」
俺は返事をしなかった。
「ここに詰所はありません。見せろとも言いません。……ただ、隠し方が下手だな。隠すなら、握らないことです。握ると、そこに何かあると教えてるのと同じですから」
俺は指を開いた。袖の布は、手の甲にかかったまま落ちなかった。
「宗方です。この茶屋を預かってます。渡しの舟は朝に爺さんが出すんで、夜の番は自分の仕事です」
「フィンだ。こっちは」
フィンがこちらを見た。俺は黙っていた。
「名乗りたくないなら、それでいいですよ。名前は渡し賃に入ってないんで」
茶屋の中は土間と板の間が1つずつで、奥に竈があった。宗方は灰の下の火を起こし直し、水を張った鍋を掛けた。
「裏に薪が積んであります。乾いた方を、一抱え持ってきてもらえますか」
「それが泊まり賃か」
フィンが聞いた。
「そうです。渡し賃は1人銅貨3枚。払いは渡ってからでいいです」
「2枚」
「3枚です。夜明けまで屋根を貸して、粥も出しますから」
「……2枚と半分」
「銅貨は半分に割れませんよ」
フィンは舌打ちをして、俺の背中を裏口へ押した。
裏の軒下に、薪が肩の高さまで積まれていた。俺は1本を取り、指の腹で表をなぞった。皮が少し剥けたが、乾いているのか湿っているのか、指のどこからも答えが返ってこなかった。
今の右手は、握った強ささえ遅れて返してくる。俺は薪を2本持ち、端同士を打ち合わせた。高く乾いた音のものを左腕に積み、鈍い音のものは山へ戻した。
迷ったものは持ち比べ、軽い方を残した。
戻ると、宗方は竈の前から俺の腕の中を見た。
「叩いて選んだんですか。音がしてました」
「手が、鈍い」
「どっちの手です」
「両方だ」
宗方はそれ以上聞かず、薪を1本ずつ火へ入れた。はぜる音がしただけで、煙はほとんど上がらなかった。
鍋の湯が沸くと、宗方はそれを桶に半分移し、洗いざらしの布と一緒に俺の前へ置いた。
「右の肘の上。布が赤いですよ。洗ってから巻き直しましょう」
「見てたのか」
「下りてきたときから、袖が重そうだったんで」
俺は板の間の端に座り、布をほどいた。縁で噛んで貼った草が、血で傷に張りついていた。
湯で湿らせて剥がすと、傷の口が開き、新しい血が細く流れた。湯を傷の周りへかけたとき、痛みより先に、ほっとした。温かい湯が肌に触れたのは、東の門を出てから初めてだった。
宗方が横から布を取り、俺の腕を下から支えた。巻く手は迷わず、2周目で布の端を折り込み、きつすぎない所で止めた。
その手が、一瞬だけ止まった。肘から手首の内側へ、皮膚の下に黒い筋が3本走っていた。宗方はそこから目を離し、何も言わずに最後の結び目を作った。
「慣れてるな」
「前の仕事で、何度もやったんです」
「何の仕事だ」
「昔の話ですよ」
フィンが鍋をのぞき込んだ。
「で、粥は」
粥は麦を塩で煮ただけのもので、椀に縁まで盛られていた。俺は椀の底を両の掌に載せ、指は添えるだけにして口へ運んだ。熱さが喉を下り、腹の底に溜まった。
「縁の干し肉より、ずっと肉の味がする」
フィンが言った。
「肉は入ってませんよ」
「だから褒めてるんだよ」
宗方は木の杯に何かを注いで、俺の前に置いた。茶色い湯が、薄く湯気を立てていた。
口に含むと、苦かった。苦い以外に、何の味もしなかった。
「これは、茶か」
「葉を煮た湯です。ここらの人は、それを茶と呼んでます」
「お前は、呼ばないのか」
宗方は、少しだけ口の端を上げた。
「自分の知ってる茶は、もう少しましだったんですけどね」
宗方の目が、椀を載せた俺の掌へ移った。
「その持ち方も、手が鈍いせいですか」
「握ると、割る」
「……そうですか」
宗方はそれきり黙ったが、俺が椀を置くまで、手から目を離さなかった。
食べ終わるころ、表で水の音が変わった。宗方が立ち上がり、戸を細く開けて川を見た。
「霧の晩は水が上がるんです。舟を上へ引いておきます。フィンさん、でしたね。手を貸してください」
「なんで俺が」
「そっちの人は、腕を洗ったばかりなんで」
フィンは天井を見上げてから、俺の横へ顔を寄せた。
「逃げ道は2本。川と、裏の坂だ。……何かあったら、坂だぞ」
「分かった」
2人が出ていくと、俺は包みを背負い直し、板の間の奥の梯子へ向かった。左足を段に掛けるたび膝の奥が鈍く鳴り、上がるのは右足に任せた。
屋根裏は低く、頭のすぐ上を梁が渡っていた。床には古い藁が敷かれていて、座ると、外套越しに尖った先が腿に当たった。
包みを下ろすと、中で光が1度灯った。
『乾いた場所です』
「藁が刺さる」
『縁の岩よりは、柔らかいと推定します』
「比べる相手が悪い」
光が1度だけ瞬いた。それから、少し暗くなった。
『報告があります。あの人のことです』
「宗方か」
『はい。人の体には、外へつながる細い流れがあります。イレーネ・ヴァイスにも、騎馬の男たちにも、あなたの案内人にもありました』
「あいつには」
『ありません。茶屋の中で、手の届く距離から何度か確かめました。一度も、ありませんでした』
俺は、自分の右腕を見下ろした。巻き直されたばかりの布の上に、宗方の結び目があった。
「俺には」
『ありません。あなたを最初に記録した日から、変わっていません』
「……神印か」
『その名で呼ばれるものと同じかどうかは、私には判定できません。私に分かるのは、あなたにないものが、あの人にもないことです』
落とされた夜、俺はレベル0で、神印もなかった。そういう者が、詰所もない川べりで灯りを点け、縁から下りてくる誰かを待っていた。
俺は藁から腰を上げた。梁に頭をぶつけかけ、首を縮めた。
『下りるのですか』
「聞く」
『私は、人前では喋りません』
「知ってる」
光が消えた。俺は包みの口を閉じ、梯子に足を掛けた。
下りたところで、表の戸が開いた。フィンが膝まで濡れて入ってきて、土間で足を踏み鳴らした。
「舟ってのは、なんであんなに重いんだ。中に石でも詰めてるのか」
「水を吸ってる」
「知ってるよ。言ってみただけだ」
フィンは梯子に手を掛けたまま、俺の顔を見た。
「寝ないのか」
「少し、外にいる」
「……逃げ道は、坂だからな」
フィンは欠伸をしながら上がっていき、すぐに藁の鳴る音がした。
表へ出ると、宗方は軒下に戻っていた。角灯を下ろし、芯の長さを指で直していた。川の上の霧は、さっきより厚くなっていた。
「灯りの番を、代わる」
「客に番はさせませんよ」
「客なら、1つ聞いていいか」
「聞くだけなら」
俺は宗方の手を見た。網の糸で擦れた跡のある、太い指だった。
「お前、神印はあるか」
芯を直していた指が止まった。川の音だけが、しばらく続いた。
宗方は、顔を上げずに言った。
「ない、と言ったら、君はどうします。詰所へ走りますか」
「走らない。俺も、ない」
宗方がゆっくり顔を上げた。目が、袖のかかった俺の左手へ下り、それから顔へ戻った。返事までの間は、網の目を1つ結ぶより長かった。
「……そうですか」
宗方は角灯を軒下の鉤へ掛け直した。灯りが揺れて、霧の中に2人分の影が伸びた。
「ここの人たちは、自分をレベル0と呼ぶんです」
宗方は火の加減を見たまま、短く息を吐いた。
「……0になった覚えは、一度もないんですけどね」
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