縁の道
「どんな道だ」
フィンは土手の切れ目から目を離さなかった。
「地面が裂けてる所の、縁を歩く。下は昼でも底が見えない。昼は風が強いだけだが、夕方になると下から黒い霧が上がる。だから、まともな奴は通らない」
東の空が白みはじめていた。夜が明ければ、落下から356日目になる。1年まで、あと9日だった。
左手の甲の罪標は、川霧の中でも黒いままだった。宿場の詰所で手を見せれば、そこで終わる。灰色の幌の馬車は3日先を行っていて、街道を使えない分、差は開く一方だった。
「縁を行けば、どれだけ縮む」
「街道を回れば、宿場を2つ越えて支流の渡し場まで2日。縁なら、今日の夕方には渡し場の上に出る」
「なら、縁だ」
「少しは迷えよ」
フィンは櫂を俺の手から取り、舟の頭を東の岸の葦へ向けた。
舟は葦の中へ乗り上げて止まった。フィンは縄を根元にくくり、舟底を1度だけ手で叩いた。
「舟頭には悪いけどな。置いていく」
俺は岸の泥へ右足から下りた。左足を乗せると、膝の奥がまた鈍く鳴った。舟へ跳んだ夜の分が、まだ引いていなかった。
「歩けるのか」
「平気だ」
フィンは俺の膝を見て、何か言いかけてやめた。
土手を越えると、刈り入れの済んだ畑はすぐに途切れた。その先は、低い草と石ばかりの丘が東へ重なっていた。
丘を2つ越えたところで、地面が裂けていた。草の縁から先が急に消え、向こう側の縁は、石を投げても届きそうにない遠さにあった。裂け目は丘を斜めに切って、北東へずっと延びていた。
俺は縁の手前で膝をつき、下を覗いた。朝の光は壁の途中までしか入らず、その先には灰色の影が重なっているだけだった。
「石は落とすなよ」
フィンが言った。
「音が返ってこないから、気味が悪い」
縁に沿って、草が踏まれて細い筋になっていた。人の足か獣の足か、分からない幅だった。
「逃げ道は」
「1本。後ろだ。いつもどおり」
フィンは振り返らずに答え、筋の上を先に立った。
昼が近づくと、風が強くなった。裂け目の上を吹き抜ける風は、縁の草を全部同じ向きに寝かせていた。
道の幅は、場所によって靴1足分まで細った。俺は右足で踏み、左足は置くだけにして進んだ。払い下げの靴の、後ろの裂けた革から小石が入り、3度目でようやく脱いで振った。
「その靴、捨てた方が早くないか」
「裸足は、もう十分やった」
「どこで」
俺は答えずに靴を履き直した。この靴は大きすぎて、巻いた布がすぐ緩む。文句を言う相手は、ベルガルドの門の上にしかいなかった。
平たい岩の陰で、水を1口ずつ回した。筒は1つと半分しかなく、縁には沢も井戸もなかった。
干し肉を噛みちぎると、塩の味しかしなかった。
「これは肉か」
「塩漬けの靴底だよ。宿場で一番安いやつだ」
俺は潰れた黒パンを2つに割り、片方をフィンへ放った。フィンは受け取ったまま、俺の右腕を見ていた。
裂けた右袖の下で、肘の上の傷に巻いた布が赤く湿っていた。夜に櫂を押したときに開いたらしかった。フィンは岩の割れ目から、細長い葉の草を根ごと引き抜いた。
「血止めの草だ。下層街じゃ、これを噛んで貼る」
俺は葉を受け取り、鼻へ近づけた。青い匂いはした。それが薬草の匂いなのか、ただの草の匂いなのか、比べるものが鼻の奥のどこにもなかった。
養護院の棚の前で、同じように確かめたことは覚えていた。どの葉を摘んだかも、言える。匂いだけが、そこになかった。
「何してる」
「匂いを見てる」
「で」
「草の匂いだ」
フィンは吹き出した。
「そりゃそうだろ。いいから噛め」
俺は葉を噛み、苦い汁ごと傷へ押し当てた。フィンが上から布を巻き直し、結び目を2度引いた。
「痛いなら言えよ」
「問題ない」
「顔が言ってる」
少し先で、道が山側へ曲がっていた。フィンは立ち上がり、目を細めてそちらを見た。
「崩れてる所があったはずだ。先を見てくる。そこで待ってろ」
フィンの背中が草の向こうへ消えると、背負った包みの中で光が1度灯った。
『よく喋る人です』
「お前よりはな」
『私は、必要なときに喋ります』
「今は必要なのか」
光が少しのあいだ消えて、また灯った。
『必要ではありません』
俺は包みの上から布を1度叩いた。風の向こうから、フィンの足音が戻ってきた。
崩れた所は、縁が3歩分ほど削り取られていた。残っているのは、山側の斜面に張りついた肩幅ほどの岩の段だけだった。
「斜面に腹をつけて、横に這って越える。俺が先だ」
フィンは身軽に渡り、向こうで手招きした。俺は斜面に胸をつけ、右足から岩の段へ移った。
2歩目で、左足の下の石が抜けた。膝が内へ折れかけ、俺は左足を捨てて右足に体重を全部乗せた。抜けた石は縁を越え、裂け目の中へ消えた。
フィンが息を止めて、下を見ていた。俺も耳を澄ましたが、石の落ちた音は、いつまでも返ってこなかった。
「……だから、まともな奴は通らないんだよ」
フィンの声が、少しかすれていた。俺は残りを渡りきり、左膝に手を当てた。熱は増えていたが、抜ける感じは前と変わらなかった。
日が丘の向こうへ傾くと、風が止んだ。寝ていた縁の草が起き上がり、裂け目の中から、黒いものがゆっくり立ちのぼってきた。煙のように見えたが、焦げた匂いはしなかった。
先を行くフィンが足を止めた。
「来た。……今日は早いな」
霧は縁を越え、俺の膝のあたりを這ってきた。その匂いを吸ったとき、足が勝手に止まった。
湿った石と、古い灰と、錆に似た乾いた血の匂い。奈落の底で、眠るたびに鼻の奥にあった匂いだった。薬草の匂いはどこにもつながらなかったのに、こっちは吸った途端に全部が戻ってきた。
俺は縁の土に指をついて、もう1度ゆっくり吸った。間違いようがなかった。
「戻るぞ。縁から離れて、来た道を半日だ」
フィンはもう半分、体を後ろへ向けていた。
「俺の道は、後ろに1本出てる」
「半日戻れば、渡し場は明日の夕方になる」
「霧の中を歩くよりましだ」
「霧は、吸っても死なない」
「なんで分かる」
「知ってる匂いだ」
フィンが振り返った。黒い霧の向こうで、薄青の目が細くなった。
「どこで知った」
俺は答えなかった。
奈落では、この匂いの中で眠り、この匂いの中で起きた。息をして死んだことは、1度もない。死にかけたのは、足場を失ったときと、匂いの中で動くものに背を向けたときだけだった。
ベルガルドの山の上で、俺は経路を焼いて閉じた。シグが、それを確かめた。なのに同じ匂いが、聖都へ向かう道の脇から上がってきていた。この裂け目の底がどこへつながっているのか、俺には分からなかった。
「死ぬのは、落ちたときだけだ」
俺は立ち上がった。
「縁は、俺が見る」
暗視Lv.3を開くと、黒い霧の中に、縁の線と岩の角が白く浮いた。霧は、目の邪魔にならなかった。底でも、こうして歩いていた。
「俺の道は、まだ後ろを向いてるんだぞ」
「なら、俺の外套の裾をつかんでろ」
「子供扱いか」
「あの子の方が、黙ってつかんでた」
フィンは鼻を鳴らした。少しして、後ろで裾が引かれた。
その重さが、少しだけ嬉しかった。
霧の中を、俺が先に歩いた。縁の線から山側へ半歩の所を選び、曲がる前に声をかけた。
「左へ寄れ。ここから3歩、細い」
「見えてるのか、本当に」
「見えてる」
フィンの息が、すぐ後ろで浅くなっていた。足音は、昼よりも小さかった。
曲がり角の先で、フィンの足が濡れた岩で滑った。裾が強く引かれ、フィンの体が縁の側へ流れた。
手を伸ばしかけて、俺は指を開いた。この手で腕を掴めば、骨を折る。俺は体ごと半歩戻り、右の前腕をフィンの胸に当てて、山側の斜面へ押しつけた。
フィンの背が岩にぶつかり、止まった。足元から小石が2つ、霧の中へ落ちていった。音は、やはり返ってこなかった。
「……今、手で掴まなかったな」
「掴むと折る」
「落ちるのと折れるの、どっちも嫌だ」
「なら、足元を見ろ」
「見えないんだよ」
フィンは笑いかけて、うまく笑えずに息を吐いた。それでも、裾は離さなかった。
しばらく行くと、道は縁を離れ、山の襞に沿って下りはじめた。下るにつれて霧は膝の下へ沈み、やがて足首のあたりを流れるだけになった。
匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。俺は暗視Lv.3を切った。霧の切れ目から、坂の下を流れる川の音が上がってきた。
フィンが裾を離し、俺の横へ並んで坂の下を指さした。
川べりに張り出した小屋の軒下で、角灯が1つ揺れていた。
「渡し場だ。……この霧の晩に、灯りを消してない」
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