売られた夜
粥は、フィンが自分の椀を空にしてから食べた。表面に膜が張り、麦の粒が底に沈んで固まっていた。熱いうちに食えと言われた割に、冷めた粥はそれほどまずくなかった。
舟は明日の朝に出る。落下から推定355日で、1年まで10日だった。荷舟に乗れなければ、灰色の幌の馬車との2日分の差は、また開く。その舟の席を自分の名義で取ったのは、ついさっき俺に嘘をついた男だった。
フィンの取った宿は、下層街の川べりにあった。2階の奥の部屋には、寝台が1つと窓が1つあった。窓は裏の路地に向いていて、向かいの家の壁は腕を伸ばせば届きそうだった。低い天井を、黒ずんだ梁が1本横切っていた。
「席の値は、いくらだった」
俺は窓の脇に立ったまま聞いた。
「2人で銀貨2枚。主を釣った礼に、舟頭に少しまけさせた」
フィンは寝台に腰を下ろし、靴の紐をほどきかけて、手を止めた。
「あんたの分は、銀貨1枚でいい」
「分かった」
「……値切らないのか」
「値切り方を知らない」
フィンは笑いかけて、途中でやめた。角灯の火が、フィンの顔の片側だけを照らしていた。
「なあ。あんた、名前は」
初めて聞かれた。俺は窓の外の暗い路地を見たまま、答えなかった。
「……だよな」
フィンは立ち上がり、膝を一度払った。
「下で湯をもらってくる。その腕、拭いておけ」
戸が閉まった。階段を下りる足音は途中で一度止まり、それから下の階まで続いていった。上がってくる音は、しばらく待っても聞こえなかった。
包みを寝台に下ろすと、布の隙間でシグの光が灯った。
『寝台は、柔らかいですか』
「藁だ。虫がいる」
『記録しますか』
「しなくていい。数まで記録する気だろう」
『数えられます』
「数えるな」
光が一度だけ暗くなって、戻った。
「フィンは、戻ると思うか」
『分かりません。階段を下りたあと、表の戸が開いて閉じる音がしました』
「湯をもらうのに、外へ出る宿はない」
『はい』
この部屋の場所を知っているのは、フィンと宿の者だけのはずだった。詰所の戸の前でフィンが立ち止まっていた3呼吸が、まだ頭に残っていた。俺は左の前腕を膝に置いて押してみた。痛みは、骨の端にだけ残っていた。
路地の暗さが、端から薄くなった。窓から覗くと、右の口にも左の口にも、松明の火が入ってきていた。右は川へ下りる側で、槍を立てた兵が3人並んでいた。左には、棒を持った若い男たちが5、6人、着古した服のまま固まっていた。
階段が軋んだ。足音は1人分ではなかった。俺は包みを背負い、窓を背にして戸の方を向いた。戸までは3歩で、左の壁際に寝台、頭の上には梁があった。
戸を叩く音は、2度だった。
「入ります」
返事を待たずに、戸が開いた。灰色の外套の男が、敷居の内側へ1歩だけ入ってきた。後ろの階段の口に、槍を短く持った兵が2人見えた。男は細身で、外套の胸には手配書と同じ教会の印が縫い付けてあった。
「夜分に失礼します。第三審問隊を預かっています、オズワルドです」
俺は答えなかった。
「表の通りに部下が12人。路地には、この町で雇った若い者たちがいます。数は、窓からご覧になったとおりです」
男は脇に抱えていた布の包みを、両手で開いた。
細剣だった。根元から3分の2が残り、その先はなかった。刃の折れ口と、刻まれていた文字の筋だけが、灰色に崩れて黒ずんでいた。洗濯場で、俺の火が焼いた所だった。
「見覚えがありますね」
「……持ち主は」
「馬車の中です。右の手首を添え木で吊って、保護した娘と一緒に聖都へ」
男は細剣を布に包み直した。
「あの女は甘い。喉の上で拳を外した相手を、生かしたまま報告書に並べて帰った。並べるなら、記録ではなく結果の方です」
「あいつは、どこだ」
自分の声が、思ったより低かった。
「あなたの連れでしたら、昼に詰所へ来られました。金貨の話をして、夜にこの宿の名を置いて帰りました」
路地でフィンが割ったパンの端が、なぜか先に浮かんだ。俺は外套の中で右手を開き、また握った。握った感覚は、遅れて返ってきた。
「一緒に来てください。歩けるなら、縄は使いません」
「断る」
「そうですか」
オズワルドは、敷居から1歩下がった。
入れ替わりに、兵が2人、槍を短く構えて入ってきた。狭い部屋では穂先を振れない。前の兵は柄の方を俺の胸へ突き出し、窓へ押し付けようとした。
俺は左の前腕に硬殻Lv.4を張り、柄を横から受けた。ひびの端に鈍い痛みが走ったが、腕は折れなかった。俺は柄を右手でつかみ、手前へ引いた。兵は前へのめって寝台の縁に脛を打ち、横へ倒れた。
もう1人が、倒れた兵の上から穂先を俺の太腿へ突いた。俺は太腿の外側へ殻を寄せた。刃は殻の上を滑り、布だけを裂いた。俺は手のひらを兵の胸当てに当て、体重だけを乗せて押した。
兵は戸の枠に背をぶつけ、息を吐いて膝をついた。殴れば、2人とも起き上がらない。だから拳は握らなかった。そのぶん、倒れた兵は咳きこみながら槍を拾い直し、階段の口にはもう次の兵が上がってきていた。
オズワルドが、膝をついた兵の横をすり抜けた。速くはなかった。俺の右手はまだ槍の柄を握ったままで、空いていたのは左手だけだった。男の指先が、俺の左手の甲に触れた。
冷たい鉄を押し当てられたようだった。払いのけると、オズワルドはすぐに戸の外へ下がった。手の甲には、親指の先ほどの黒い印が残っていた。
「罪標です。どこへ行っても、私たちには分かります」
オズワルドは、それ以上近づかなかった。
「次の4人は、もう少し手荒です」
戸口に4人が並んだ。この幅を、殺さずに抜ける方法が浮かばなかった。俺は窓の掛け金を外し、背中の包みを右腕で抱え込んで、窓枠を跨いだ。
2階の高さだった。右足から路地の石に降り、遅れて左足が着いた。膝の奥で鈍い音がして、体が左へ傾いた。
左の口から、若い男たちが棒を振り上げて走ってきた。右の口の兵3人は、槍を横に揃えたまま動かなかった。抜けるなら、棒の方だった。
先頭の男が、俺の頭へ棒を振り下ろした。俺は右の前腕に殻を張って受けた。棒が鳴り、男の手から跳ねた。俺はその男の肩を手のひらで壁へ押しつけ、横へ流した。
2人目が外套の左袖をつかんだ。もともと破れていた袖が、肘の上までさらに裂けた。3人目の棒が、包みを庇った左肩に当たった。古い傷が、奥で一度鳴った。
「金貨1枚だぞ! 囲め!」
誰かが叫んだ。俺は袖をつかんだ手を振り払っただけで、殴り返さなかった。男たちは一度下がり、すぐに輪を詰めてきた。下がるたびに、俺は路地の奥へ押されていった。
家と家の間に、肩幅ほどの隙間があった。俺は体を横にしてそこへ入った。松明の火は入り口で止まり、奥は真っ暗だった。暗視Lv.3で、積まれた木箱と、その先の低い板塀が見えた。
包みが、背中で小さく動いた。
『レイ』
シグの声は、布の中で息より小さかった。
『あなたの左手の甲から、私の記録にない信号が出ています。2秒ごとに、同じ形です』
俺は左手を外套の裾で擦った。黒い印は薄くもならず、擦った皮膚だけが熱くなった。
「止められるか」
『分かりません。外から付けられたものです』
「ここに隠れても無駄か」
『あの男の言葉が本当なら、そうなります』
入り口の方で、松明の火が揺れた。若い男たちが、隙間を覗きこんで何か言い合っていた。
板塀の手前の木箱の陰で、何かが動いた。靴を履いていない、泥のついた小さな足だった。昼に、パンを抱えたまま半歩下がった子供だった。木箱の陰を寝床にしていたらしく、藁の上で膝を抱えて俺を見上げていた。
「……フィンは」
子供が小さく聞いた。俺は答えられなかった。
入り口から、誰かが松明を隙間へ突き入れた。火の粉が子供の足元の藁に落ちた。子供は声を上げて跳び起き、俺の脇をすり抜けて入り口の方へ走った。
「来たぞ!」
棒の先が、走り出した小さな体の前を横に払った。子供は足をすくわれ、石の上に転んだ。泣き声が隙間の中で大きく響き、2本目の棒が、暗がりの影へ振り上げられた。
俺は子供の上へ体をかぶせた。背中に殻を張る暇はなく、棒は左の肩甲骨の下に入った。息が一度詰まった。俺は子供を抱えて起き上がり、棒を持った男を手のひらで隙間の外へ押し出した。
子供の泣き声が、胸に直接ぶつかっていた。怖い、と思った。棒が怖いのではなかった。腕の中の小さな体が、俺の握る強さで壊れることが怖かった。
奥の板塀は、子供を抱えたまま越えられる高さではなかった。俺は子供を背中の側へ回し、外套の裾を握らせて、入り口から路地へ出た。
路地の左の口では、若い男たちが松明を掲げて道を塞いでいた。右の口、川へ下りる側では、兵の数が増えていた。並んだ兵の前に、腰の高さの盾が隙間なく立てられていた。
盾の列の後ろで、オズワルドが細剣の包みを脇に抱え直した。
「その子を置いていくなら、道を1つ空けましょう」
子供の指が、外套の裾を強く引いた。
「置いていかない」
「でしたら」
オズワルドは、盾の列の端から1歩前へ出た。
「どうぞ。今度は、喉の上で止めなくて結構です」
お読みいただきありがとうございました!
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、画面の下(または目次ページなど)にある**【ブックマーク登録】と、【★★★★★評価】**で応援していただけると本当に嬉しいです!
感想や「ここが良かった」といったご意見もお待ちしております。
それでは、次回の更新でお会いしましょう!
第1話はこちら → (https://ncode.syosetu.com/n5416mt/1)




