金貨1枚の男
夜が明けると、川の主は渡し場の上の広場へ引き上げられていた。舟乗りたちは縄を外しながら、黒い背の鱗を拳で叩いて笑っていた。舟は明日の朝から出る、という声が、広場のあちこちから聞こえた。
俺は舟小屋の陰で頭巾を深くかぶり、外套の中で左腕を抱えていた。前腕の骨の内側の細い痛みは、一晩で鈍い熱に変わっていた。落下から推定355日で、1年まで10日だった。灰色の幌の馬車は、もう2日分先を東へ進んでいるはずだった。
袋の中は、銀貨3枚と銅貨8枚、黒パン4つと干し肉が半分だった。舟の席にいくらかかるのか、俺は知らなかった。広場では、舟乗りの1人が鱗を1枚剥がそうとして指を挟み、怒鳴っていた。あれを剥がしたくなる気持ちが、俺にはよく分からなかった。
「舟の値を聞きに、組合へ行く。来るか」
フィンが舟小屋の戸口から言った。昨夜の角灯はもう返したらしく、手は空だった。
「行く」
「その腕で」
「腕で歩くわけじゃない」
フィンは鼻で小さく笑って、先に歩き出した。
組合の建物は広場の奥にあった。帳場の前では舟乗りが3人、昨夜の話をしていた。帳場の男は俺たちに気づくと帳面から目を上げ、すぐにまた下ろした。
組合の壁に、新しい紙が1枚増えていた。昨日は、舟板の修理の求人が貼ってあった所だった。紙の下の端には、教会の印が黒く押してあった。
『手配。頭巾の男。喋る遺物を連れた、神印なき者。生死を問わず、金貨1枚』
背中の包みが、外套の下で一度だけ小さく動いた。俺は肘で包みを押さえ、紙から目を離さなかった。ここで目を逸らせば、帳場の男がまた顔を上げる気がした。
「金貨1枚」
フィンが小さく読んだ。
「生死を問わず、か。字の上手い奴が書くと、物騒な文句まで行儀よく見えるな」
「読めるのか」
「金の字だけはな。残りは、だいたいだ」
フィンは紙の前で腕を組んだ。
「頭巾の男なら、この町に何十人もいる。喋る遺物ってのは何だ。喋る壺か」
「知らない」
「神印なき者、ってのは」
俺は答えなかった。フィンの目が一度だけ、俺の外套の背中の膨らみへ下り、壁へ戻った。
帳場の男が咳払いをした。フィンは壁から離れ、帳場の前に肘をついた。
「東行きの舟は」
「荷舟が明日の朝に。席の値は舟頭が決めます。名義は」
「俺の名義で、2人」
帳場の男は帳面に何か書き、俺の方は見なかった。フィンも、俺の名を聞かなかった。
パンは下の方が安い、とフィンが言い、俺たちは広場から川べりへ石段を降りた。下層街は川の湿気で壁の漆喰が剥がれ、軒の低い家が互いに寄りかかるように並んでいた。
路地の口で、子供が4人、フィンを見つけて駆けてきた。いちばん小さい子は靴を履いていなかった。フィンはパン屋で買ったばかりの黒パンを2つに割り、それをさらに半分に割って、1つずつ渡した。
「昨日の主、見たか」
「見た! フィンがやったの」
「俺は灯りを持ってただけだ。やったのは、こっちの頭巾」
4人の目が、一斉に俺を見上げた。いちばん小さい子がパンを抱えたまま半歩下がった。俺は頭巾の縁を少しだけ上げ、何も言わずに下ろした。
子供たちが路地の奥へ散ってから、俺はフィンの手に残った、割った端だけのパンを見た。
「お前の弟か」
「顔が似てないだろ」
「似てるかどうかは知らない」
フィンは端のパンを口に放りこみ、しばらく噛んでいた。
「俺のは3人だ。もう、こういう路地にはいない」
「どこにいる」
「地方の孤児院。毎月、金を送ってる」
「なんで孤児院だ」
「前は、盗賊団の使い走りをしてた。荷を運んで、見張りをして、たまに落ちてる財布を拾った」
フィンは軽い声のまま続けた。
「そのうち連中が、弟たちにも同じことをさせると言い出した。小さい方が、人の懐に手が入りやすいんだと」
「それで」
「裏切った。その晩のうちに、3人を連れて町を出た」
フィンは、子供たちが消えた路地の奥を見ていた。
「ここの子供は、あの時の弟たちと同じ顔で、パンを抱える」
「孤児院ってのは、金がないと屋根から先に駄目になる」
フィンが言った。
「知ってる」
「何で知ってる」
「雨漏りの桶を並べるのは、年上の役だった」
言いながら、桶に落ちる音を思い出そうとした。並べた場所も、夜中に中身を捨てに行ったことも覚えていた。屋根を打つ音だけが、どこからも来なかった。
俺は口を閉じた。
「あんたも孤児院か」
「養護院だ」
「どこの」
俺は黙っていた。フィンは肩をすくめた。
「答えないのも答えだな」
石段を上りかけたところで、フィンが足を止めた。
「金貨1枚あったら、あそこは屋根を全部直して、冬も越せる」
俺は振り向いた。フィンは石段の上の、組合の屋根の方を見ていた。
「……冗談だ。金貨なんて、触ったこともない」
フィンは片方の口の端を上げた。目は、組合の屋根から動かなかった。
「昼から用がある。夕方には舟小屋へ戻る」
舟小屋に戻ると、伏せてあった舟の腹に、新しい板が1枚当てられていた。俺は奥の網を積んだ陰に座り、黒パンを1つと干し肉の端をかじって、水を半筒飲んだ。干し肉は、昨日の靴の革よりいくらか噛み切りやすかった。
左の前腕を膝の上に置き、自己治癒Lv.2を流した。骨の内側の熱が、呼吸を重ねるたびに細くなっていった。10呼吸ほどで止めると、指で押しても痛みは端の方にしか残らなかった。少し、ほっとした。
包みを下ろして口を開けると、シグの光が網の陰で小さく灯った。
『舟は、直りましたか』
「板が1枚当たってる」
『では、記録どおりです』
「お前の手柄みたいに言うな」
『記録しただけです』
光が一度暗くなり、戻った。
『壁の紙は、私のことですか』
「喋る遺物が、ほかにいるならな」
『人前で話したのは、母体の前の1度だけです。後ろに兵がいました』
「知ってる」
『私が話さなければ、あの紙に、あの行はありませんでした』
「話さなけりゃ、俺は偽の声に返事をしてた」
シグは、それには何も返さなかった。
俺は包みを、通りに向いた板壁の隙間の前に置いた。それから網に背を預け、目を閉じた。腕の熱が引いたぶん、眠気が先に来た。
『レイ』
低い声だった。俺は目を開けた。外の光は、もう斜めになっていた。
『フィンが、通りの向こうの建物へ入りました』
俺は網の陰から這い出し、隙間に目を当てた。広場の端に、石を積んだ四角い家があった。戸口の両脇に槍を持った兵が2人立ち、戸の上には、手配書と同じ教会の印が掲げてあった。
教会の兵の詰所だろう。この町に兵がいるなら、あの紙を貼らせたのも同じ連中のはずだった。俺は包みの紐を右手で握った。握った感覚は、いつものように遅れて返ってきた。
「入るとき、何か持ってたか」
『何も持っていませんでした。扉の前で、3呼吸ほど立ち止まりました。入る前に一度、こちらを振り返りました』
戸は閉まっていた。兵は2人とも、前を向いたまま動かなかった。
小屋の裏の戸は川の側へ開く。その戸から数えて、石段まで10歩、水際まで15歩だった。俺は裏の戸の閂に手をかけ、音を立てずに半分だけ引いた。
『どうしますか』
俺はしばらく答えなかった。
「……銀貨の半分を、取らなかった奴だ」
『はい。薬湯の代金も、取りませんでした』
「待つ」
俺は包みを背負い直し、表の戸と裏の戸の両方が見える網の陰に座った。
日が対岸の屋根に掛かるころ、表の戸が開いた。フィンは両手に、湯気の立つ椀を1つずつ持っていた。
「下の通りの粥だ。冷める前に食え」
「どこへ行ってた」
フィンは椀の1つを、俺の前の網の上に置いた。
「組合だ。舟の席の値を、もう一度聞いてきた」
嘘だ。
「そうか」
俺は椀に手を伸ばさなかった。フィンは自分の椀をすすり、熱い、と顔をしかめてから、片方の口の端を上げた。
「それと、今夜は宿を取った。屋根の下で寝ろ。その腕に、川の夜風は毒だ」
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