鎧の鰐
割れた板の縁を、指でなぞった。穴は上と下に分かれ、向かい合う弧を作っていた。弧と弧の間には、俺の肩幅がそのまま入りそうだった。
日は対岸の屋根の向こうへ半分沈んでいた。袋の中は銅貨8枚と黒パン4つと干し肉が半分で、舟の出ないこの町では、それを増やせる口はこの一件しかなかった。灰色の幌の馬車は、そのあいだにも1日半先を東へ進んでいるはずだった。
「上と下から、一口だ」
フィンが舟の腹を靴の先で軽く蹴った。
「牛の時は、岸から水まで、引きずった溝が1本残ってただけだ。暴れた跡もなかった」
「いつ出る」
「日が沈みきってから。出てくるのは、決まって杭の列の向こうだ」
「数は」
「1つしか見たことない。2つもいたら、この町はとっくに舟を捨ててる」
フィンは舟小屋の方へ顎をしゃくった。
「灯りを借りてくる。暗いと、俺の逃げ道が見えない」
「俺のは」
「あんたの道は、あんたが作れ」
フィンの足音が石段を上がって遠ざかると、背中の包みが小さく動いた。俺は舟の陰へ回り、包みを下ろした。
『穴の間隔から推定します。口を開いたときの幅は、60センチ前後です』
「腕は入るな」
『入れる前提で話していますか』
「入れなきゃ、届かない」
包みの光が一度暗くなり、また戻った。
『この舟は、直りますか』
「板を替えればな。替える板がなけりゃ薪だ」
『では、直ると記録します』
「なんでだ」
『持ち主が、舟を岸に上げて伏せてあるからです。薪にするなら、もう割っています』
俺は返事をせず、包みの口を閉じて背負い直した。
フィンが角灯を提げて戻ってきたころには、川は空より先に暗くなっていた。俺は暗視Lv.3で、灯りの届かない水面を見渡した。流れはほとんどなく、杭の影だけが黒く立っていた。
俺は苔の石段の一番下に立った。俺の立つ段から左へ5歩の所から、水際に沿って古い杭が並び、右は葦の茂みが岸を覆っていた。フィンは背後の石段の上、舟小屋の脇で角灯を掲げた。退路は、この濡れた石段だけだった。
足元の苔は、靴の裏で踏むたびに少しずつ逃げた。毎日この段を上り下りする舟乗りの膝は、俺のよりよほど出来がいいらしかった。
「牛は、水を飲みに下りてきたところをやられた」
上からフィンが言った。俺はしゃがみ、右手で水を掬っては落とした。音は、静かな川の上でよく響いた。
3度目に水を落としたとき、いちばん奥の杭が根元から小さく揺れた。風はなかった。次の杭が揺れ、その次が揺れて、揺れは水の下を俺の方へ寄ってきた。
「左だ!」
フィンの声と同時に、杭の列の向こうの水が盛り上がった。
黒い背が水を割り、長い口が開いた。上下に並んだ歯が、角灯の光を細かく跳ね返した。この膝では、横へは跳べない。俺は硬殻Lv.3を左の前腕から肩まで張り、腕を横にして、開いた口の奥へ自分から差し込んだ。
口が閉じた。殻の上から、腕の骨へ重さが一度に乗った。殻の表に白い筋が走り、その下で、骨の中から乾いた音が1つ鳴った。
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《技能成長》
硬殻:Lv.3 → Lv.4
硬化できる範囲と、硬化の強度が上昇しました。
忘却値に変化はありません。
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殻の表を走っていた白い筋が、途中で止まった。歯の食い込む所から、殻がもう1枚重なるように硬くなっていった。
歯は、それ以上入ってこなかった。嬉しい、と一瞬だけ思った。
次の瞬間、口が腕を咥えたまま後ろへ引いた。靴の裏が苔の上を滑り、体ごと水の中へ持っていかれた。黒い背が水面でねじれはじめ、俺の腕を軸に回ろうとした。
牛を引き込んだのは、たぶんこの回し方だった。引かれた先に、杭が1本立っていた。俺は右の肩と腰を、その杭へ叩きつけるように預けた。
古い木が軋んだ。
「持てよ」
腐りかけの杭は、折れなかった。回転が止まり、黒い体が半分ねじれたまま、顎の下の白い肌が水面に浮いた。腕はまだ口の中にあり、殻はまだ割れていなかった。白い筋が走った時点で、これまでの殻なら割れていた。
黄色い目が、俺の顔のすぐ横で灯りを跳ね返していた。俺は右の拳を殻で包み、肘を伸ばしきらない短さで、その目へ叩き込んだ。肘の上の刺し傷が、焼けるように鳴った。口が開き、左腕が抜けた。
俺は杭を背にしたまま、水の中で膝をついた。黒い体は一度沈み、すぐに浮いて、石段の方へ回り込んだ。片目をつぶったまま、それは石段の一番下に前脚をかけた。
「上がってくるぞ!」
角灯の光が、段の上で後ろへ下がった。フィンは言ったとおり、一番先に逃げ道の方へ寄っていた。
前脚が、苔の上で滑った。重い体が段の角に腹を擦りつけ、前半分が持ち上がった。白い喉が、段の下の俺の方へ斜めに向いた。
俺は右足で川底を蹴った。左足は乗せるだけにして、杭の根元から2歩で段の下へ着いた。振り向いた口が、俺の頭のあった所で閉じた。俺は低くくぐり、殻を張った右の拳を、喉の白い所へ下から打ち上げた。
柔らかい手応えの奥で、何かが潰れた。黒い体がのけぞり、太い尾が横から来た。左腕の殻で受けると、さっき鳴った骨に響いて、目の奥が白くなった。尾に払われて、俺は苔の段に背中から落ちた。
それは段から滑り落ち、水へ戻ろうとしていた。手負いのまま川へ帰せば、また誰かの舟の底が割れる。俺は段の上から体ごと落ち、右の拳を同じ喉へもう一度沈めた。黒い体が一度大きく跳ね、それきり浅瀬で動かなくなった。
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《討伐結果》
討伐対象:鎧鱗鰐 1体
討伐吸収が完了しました。
蓄積した残滓を統合しました。
能力値が上昇しました。
生命:112 → 115
筋力:106 → 109
耐久:127 → 130
敏捷:121 → 123
魔力:154 → 156
知覚:138 → 140
精神:165 → 167
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
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フィンが角灯を下げて段を下りてきた。灯りの輪の中で、黒い背の鱗は、本当に岩を並べたように見えた。
「……死んでるか」
「動かない」
「動かないのと死んでるのは、違うだろ」
「死んでる」
フィンは角灯を掲げて、黒い体の頭から尾までを照らした。尾の先は、俺の背丈の倍ほど離れた水の中にあった。
俺は左腕を見た。もともと裂けていた袖は歯の並びに沿ってさらに裂け、腕に巻きつくぼろになっていた。殻を解くと、皮膚には歯の形の白い跡が並んでいるだけで、血は出ていなかった。前腕の真ん中を指で押すと、骨の内側に細い痛みが1本走った。
折れてはいない。ひびだ、と俺は見当をつけた。食って寝て自己治癒Lv.2を使っても、元に戻るには何日もかかりそうだった。
「平気か」
「問題ない」
「腕の中で骨が鳴ったろ。上まで聞こえた」
「平気だ」
フィンはそれ以上聞かなかった。俺は川の水を手で掬って口をすすいだ。泥の味がしたが、昼の薬湯よりはましだった。
岸の上が騒がしくなった。舟小屋の窓から見ていた舟乗りたちが、灯りを持って段の上に集まってきた。その後ろに、昼の組合の帳場の男がいた。
帳場の男は段の途中で足を止め、黒い体を見てから、頭巾の下の俺の顔を探すように目を細めた。それから俺ではなく、フィンに小さな袋を渡した。
「舟乗りの組から預かっていた分です。名義の方へ」
「どうも。名義の方です」
フィンは袋の口をのぞいて振り、段を下りてきた。俺の前でしゃがみ、銀貨を3枚、手のひらに並べた。
「半分だ」
「薬湯の分は」
フィンは片方の口の端を上げた。
「今日はいい。あんな苦いもんで金を取ったら、俺が恨まれる」
銀貨は銅貨より薄く、川の風で冷えていた。袋に落とすと、銅貨8枚の上で小さく鳴った。
舟乗りたちが黒い体に縄をかけはじめると、フィンは角灯を足元に置き、俺の隣に座り直した。
「素手だった」
「武器がない」
「そういう話じゃない。あの口に、自分から腕を入れた。それで、腕が残ってる」
フィンは俺の左腕を見て、それから俺の顔を見た。片方の口の端は、上がっていなかった。
「お前、何者だ」
俺は、指の動きがまだ遅れて返ってくる右手を一度握って、開いた。
「銀貨3枚の方だ」
◆
宿場の手前の空き地で、馬車は夜の休みに入った。幌の中には小さな灯りが1つ吊るしてあって、向かいの巡察官様は、膝に載せた板の上で、左手で何か書いていた。右腕は、布で吊ったままだった。
字は、ところどころで線が震えていた。
「左手の字、そんなに悪くないですよ」
巡察官様の手が止まった。
「……そうですか」
「レイの字よりは、ずっと読めます。レイは字が下手なの。力を入れすぎて、紙がへこんでるんだから」
言ってから、自分の口が速くなっているのに気づいた。私は笑ってみせた。巡察官様は笑わなかったけれど、手も動かさなかった。
外で馬が足踏みをして、幌が揺れた。吊った右手首の添え木が、布の中で少しずれていた。
「それ、ずれてます」
「後で直します」
「後でって、片手でしょう。見せてください」
返事を待たずに、私は膝で近づいて結び目をほどいた。添え木を手首の骨に沿わせ直し、指が1本入るくらいの強さで布を巻いた。養護院で何度もやったやり方だった。
「腫れてる。寝るときは、腕を胸より上に置いてください」
「……ミア・ベル」
「はい」
「レイ・クロウが折った手首です」
「そうだろうなって、思ってました」
私は最後の結び目を作った。
「でも、折れたままにしておく理由にはならないでしょう」
巡察官様は答えなかった。左手の指が、膝の上の銀の数珠に触れて止まった。
私は自分の席に戻り、幌の隙間から、後ろの暗い道を見た。
「聖都に着いたら、私は何をされるんですか」
灯りが揺れた。巡察官様の指の間で、数珠の玉が1つ滑った。
返事はなかった。巡察官様は、灯りの下で私の方も見なかった。
しばらくして、巡察官様は膝の板を脇へ置いた。
「腕は、胸より上ですね」
「はい」
巡察官様は吊った右腕を、黙って胸の上へ持ち上げた。
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