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川港の町

「聞いて、どうする」


返事はすぐには来なかった。俺は火に手をかざしたまま、外套(がいとう)の内側の袋を指で探った。銅貨8枚、黒パン4つ、干し肉が半分。


「覚えとく。助けてもらったら、名前くらい覚えるでしょ」


「覚えなくていい」


「ずるい」


娘はそれきり黙った。しばらくして、荷車の下に寝息が戻った。


聖都までは、急げば7日だとベルガルドで聞いていた。ミアを乗せた灰色の幌(ほろ)の馬車は、もう1日半は先を走っている。この袋の中身では、その差を詰める前に腹の方が先に尽きそうだった。


夜明け前、男が驢馬(ろば)を荷車につないだ。俺は背中の包みを背負い直し、麻袋の山の前の方に座った。娘の言ったとおり、後ろより揺れは少なかった。


袋の中身は豆らしく、体を動かすたびに尻の下で形を変えた。座りの悪い荷だった。左腕の白い筋は、朝にはもう消えていた。


日が昇ると、俺は頭巾(ずきん)を深く下ろした。朝日を正面から見れば、まだ涙が出た。左の膝は、車輪が石を踏むたびに奥で鈍く鳴った。


街道が下りになり、木立の切れ目から広い川が見えた。岸に沿って屋根が並び、桟橋に舟がいくつも繋(つな)がれていた。舟のほとんどは、帆を下ろしたままだった。


男が振り返った。


「カルムだ。荷はあそこの市で下ろす」


「舟が動いてないな」


「近ごろ、舟乗りが川へ出たがらない。荷が止まって、市の値ばかり上がる」


男は手綱を引きながら、俺の手元の袋を見た。


「あんた、払えるものがないって言ったな」


「ああ」


「なら組合へ行け。桟橋の前の、石の建物だ。腕のある奴は、あそこで仕事をもらう」


市で荷車が止まると、娘が荷台から飛び降りた。


「名前、次は教えてね」


俺は答えず、片手を上げた。指の間には、昨夜の煤(すす)がまだ黒く残っていた。


組合の建物は、川から上がる湿った風で石の壁が黒ずんでいた。中には長い卓が並び、剣や弓を持った男たちが朝から椀(わん)を前に座っていた。奥の壁には、紙が何十枚も留めてあった。


帳場の男は、俺の裂けた両袖を見てから口を開いた。


「用件は」


「仕事がほしい」


「なら、登録から。頭巾(ずきん)を外して、右手をこれに」


帳場の上に、手のひらほどの白い板が置かれていた。表には細かい文字が刻まれ、縁は手垢で黒くなっていた。


「顔の分からない者は、帳面に書けない決まりです」


俺は頭巾(ずきん)を下ろした。近くの卓で、話し声が1つ途切れた。額と顎(あご)の古傷と、刃で雑に切った髪が、窓の光の下に出た。


右手を板に置いた。手のひらの切り傷に、石の冷たさがしみた。袖の裂け目から、肘から手首へ走る黒い筋が2本のぞいていた。


板は白いままだった。帳場の男がやり直せと言い、俺は置き直した。2度目も、何も光らなかった。


「……聖板(せいばん)が応えない」


帳場の男は板を自分の方へ引き寄せ、俺の手が触れた所を袖で拭(ふ)いた。


「神印のない方は、組合の帳面に載せられません」


「荷担ぎでもいい」


「組合を通る仕事は、荷担ぎでも全部帳面に載ります」


後ろの卓で、誰かが鼻で笑った。


「レベル0かよ。よく生きて歩いてるな」


振り返ると、笑った男は目を逸らした。代わりに、壁際の卓で、茶色のくせ毛の細い男がこっちを見ていた。卓に両足を上げたまま、俺の顔から目を離さなかった。


俺は頭巾(ずきん)を戻し、外へ出た。


桟橋の下手へ下りると、道が狭くなり、魚と泥の臭いが濃くなった。荷揚げ場で仕事を聞いたが、舟が出ないから荷もない、と手を振られた。2軒目でも同じだった。


3軒目の酒場は、川へ張り出した床が傾いていた。日雇いの口はないかと聞くと、亭主は返事の代わりに、隅の腰掛けを顎(あご)で指した。


座って間もなく、向かいの腰掛けが引かれた。


「よう。白い板に嫌われた奴」


組合の壁際にいた男だった。腰に短剣を差し、目は薄い青で、笑うと片方の口の端だけが上がった。


「誰だ」


「フィン。この町で斥候(せっこう)をやってる。で、あんたは」


「言わない」


「いいね。名前を安売りしない奴は、話が早い」


フィンは勝手に、亭主へ指を2本立てた。


「市で、麻袋の行商が喋ってたよ。頭巾(ずきん)の男が、素手で霧みたいな犬を全部片づけた。娘が助けられた。そこら中に言って回ってた」


「それで」


「仕事の話だ」


フィンは懐から畳んだ紙を出し、卓に広げた。組合の壁に留めてあった紙と、同じ大きさだった。


「川の主。舟乗りがそう呼んでる。ひと月で渡し舟が2艘ひっくり返されて、岸の牛も1頭、水へ引き込まれた」


「見たのか」


「背中だけな。岩が浮いてるのかと思った」


「お前がやればいい」


「俺がやったら、俺が食われる。俺は逃げるのが上手いだけだ」


亭主が、湯気の立つ木の椀(わん)を2つ置いた。中身は茶色く濁っていた。


「舟乗りの薬湯だ。二日酔いにも腹下しにも効く。おごり……ってのは嘘で、報酬から引く」


俺は椀(わん)を持ち上げ、鼻を寄せた。知らない相手が勧める飲み物は、先に匂いで確かめるつもりだった。湯気は顔に当たったが、鼻には何も来なかった。


薬草の湯なら、養護院で何度も飲まされたはずだった。それと比べる匂いが、どこからも出てこなかった。俺は椀(わん)を少し離し、もう一度近づけてから、諦めて口を付けた。


「鼻でも詰まってんのか」


「かもな」


舌に、苦さだけが残った。何か混ぜてあっても、毒分解(どくぶんかい)Lv.5が腹で止めるはずだった。右手の指が椀(わん)の縁をちゃんと巻いているのを目で確かめてから、俺は椀(わん)を置いた。


「話を戻す。名義は俺、倒すのはお前、報酬は半分ずつ」


「半分は多い」


「帳面に載れない奴の分を、帳面に載れる奴が取ってくる。手間賃だ」


「お前は何をする」


「案内。主の出る刻、岸の浅い所、舟を貸す奴。あと、危なくなったら一番先に逃げる」


「正直だな」


「正直は安いからな。いくらでも配る」


「なぜ俺だ」


フィンは椀(わん)を指で回した。


「この依頼は、ひと月壁に留まってる。腕のある連中は、見て見ぬふりだ。白い板に嫌われた奴なら、ほかに断る先がない」


「断れる」


「じゃあ断れよ。銅貨、何枚ある」


俺は答えなかった。フィンが片方の口の端を上げた。


「その間が答えだ」


ミアの「戦わないで」は、門の前で俺を囲んだ人に向けた言葉だった。川の底のものまでは、たぶん入っていない。


「乗る」


フィンが卓を軽く叩いた。俺は、少しだけほっとした。


「1つ、言っとく」


フィンは声を落とした。


「組合で頭巾(ずきん)を取ったろ。あれで、あの部屋にいた連中はあんたの顔を覚えた。この町は狭い。昼過ぎには、市の半分が知ってる」


「知ってる」


「知ってて取ったのか」


「取らなきゃ、帳面に書かないと言われた」


「で、書かれなかった」


フィンは喉の奥で笑い、腰掛けから立った。


「日が傾いたら、渡し場の下の舟小屋だ。俺は今から、俺の名前で依頼を取ってくる」


酒場の裏は、倉の壁と川に挟まれた細い通路だった。人の気配がないのを確かめてから、俺は包みを壁に寄せて下ろした。


包みの口から、細い光が漏れた。


『組合の部屋で、あなたの顔を見た人を数えました。14人です』


「数えなくていい」


『記録です。あの男は、その中に入っています』


「知ってる」


光が少し揺れた。


『薬湯は、どんな味でしたか』


「苦い」


『苦い、と記録します』


「記録するほどの味じゃない」


『では、ひどく苦い、と記録します』


「直さなくていい」


俺は指の間の煤(すす)を、倉の壁の乾いた所で擦(こす)った。壁の方が黒くなっただけで、指は変わらなかった。


日が傾くころ、渡し場の下へ下りた。岸までの石段は苔(こけ)で濡れていて、左の膝が段ごとに奥で鳴った。右足で降り、左は後から添えるように下ろした。


舟小屋の前で、フィンが紙を振った。


「取れた。名義は俺だ。あんたが主を倒せば、俺が組合で銀貨を受け取る」


「逃げるなよ」


「報酬の前には逃げない。後でも、たぶん逃げない」


岸には葦(あし)が茂り、水際に古い杭(くい)が何本も並んでいた。その杭(くい)の列の向こうで、川は流れの音も立てずに暗くなっていた。


フィンが、引き上げられて腹を見せている舟を顎(あご)で指した。


「昨日ひっくり返された渡し舟だ。見てみろ」


俺は舟の横にしゃがんだ。舟底の板が、外から内へ割れていた。


割れ目の縁に、俺の拳より大きい穴が、弧を描いて並んでいた。

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