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黒い霧の狗

桶(おけ)を提げた影は、水路の手前の草むらで一度しゃがみ、見えなくなった。火の輪の縁から数えて、30歩ほど離れていた。大人の足なら、何でもない距離だった。


詰所の門で聞いた声が、まだ耳に残っていた。夜は野営地の火から離れるな。このところ、羊がやられてる。


俺は街道の上から窪地(くぼち)を見下ろしたまま、暗視(あんし)Lv.3を開いた。火の明かりの外が、灰色の濃淡に変わった。水路の上に、霧が溜(た)まっていた。


霧は黒かった。焚(た)き火の煙は東へ傾いているのに、その霧は西へ、風に逆らって草の上を這(は)い進んでいた。濃いところで、低い形がいくつか動いた。


俺は斜面を下った。右足で蹴り、左足は地面に乗せるだけにした。左の膝は、蔵の段を上がった分だけまだ重かった。


火の横で、男が顔を上げた。荷車の陰に女が1人いて、車輪の脇に驢馬(ろば)が1頭つながれていた。男は俺の頭巾(ずきん)を見て、足元の棒を掴(つか)んだ。


「誰だ」


「水路の子を呼べ」


「何?」


「霧が来てる。今すぐだ」


男の顔が、水路の方を向いた。


「おい、戻れ!」


水路の岸で、小さな影が立ち上がった。ミアより幾つか下に見える娘だった。振り向いた娘の足元へ、黒い霧が草ごと流れ込んだ。


霧の中から、犬の形が1つ、低く跳ねた。大きさは牧羊犬ほどで、輪郭から霧がほどけ続け、どこまでが体なのか分からなかった。娘の左から、喉の高さへ来ていた。


俺は火の縁から娘までの30歩の、半分まで来ていた。右足で3度蹴って残りを詰め、娘と霧の間へ体を入れた。左の前腕に硬殻(こうかく)Lv.3を張り、顔の前へ差し出した。


牙が殻の上で鳴り、腕に犬の重さが乗った。生臭い息と、濡れた灰のような臭いが頬にかかった。犬は噛(か)んだまま首を振り、俺を横へ引き倒そうとした。


左の膝に体重が乗りかけ、奥が抜けそうになった。俺は右足で踏み直し、噛(か)ませた腕を下へ引いて、犬の頭を胸の高さまで落とした。右の拳を、下から頭の横へ打ち上げた。


肘を伸ばしきれない分は、腰で打った。骨の割れる手応えが、遅れて腕を上ってきた。犬の形は霧ごと崩れ、草の上で動かなくなった。


娘は桶(おけ)を抱えたまま、尻もちをついていた。


「立てるか」


娘は答えなかった。目が、俺の後ろの霧を見ていた。


霧の中で、荒い息がいくつも重なっていた。左に2つ、水路の上に1つ、右の草むらにもまだいた。暗視(あんし)Lv.3で見えるのは霧の濃い塊だけで、中の体までは透けなかった。


俺は娘を左腕で抱え上げ、火の方へ走った。桶(おけ)は草の上に転がった。後ろで、草の裂ける音が2つ、3つと追ってきた。


火の輪へ入って娘を下ろすと、追ってくる音が止んだ。振り返ると、黒い霧の塊が明かりの縁で横へ流れていた。火から10歩ほどの所を、ぐるりと回り始めた。


女が娘を荷車の陰へ引き込んだ。男は棒を構えたまま、俺と霧を交互に見た。


「何だ、あれは」


「知らない」


「羊を食ってたのは、あれか」


「たぶんな。火の中へは、入ってこない」


「なんで分かる」


「入れるなら、もう入ってる」


明かりの縁を回る塊を数えた。5つあった。水路の上に残っていた1つも、遅れて輪に加わった。


火に近い側だけ、霧が薄かった。熱にほどかれるのか、光の縁で中の脚と背骨の線が透けていた。体は、霧で見えていたより一回り細かった。


俺は焚(た)き火の端から、先だけ燃えている薪(たきぎ)を1本引き抜いた。手のひらの中で、樹皮がざらついているのは分かった。養護院の裏で何百本も割ったはずの手触りなのに、それが手のどこにも引っかからなかった。


右手は、握った強さもまだ返してこない。俺は薪(たきぎ)に目を落とし、指が節をちゃんと巻いているのを見てから顔を上げた。燃えさしは重さが先へ寄っていて、ひどく振りにくかった。


荷車の向こうで、驢馬(ろば)が鳴いた。綱を引きちぎりそうな声だった。荷車の裏までは、火の明かりが届かない。


男が棒を握って走りかけた。


「火から出るな」


「うちの驢馬(ろば)だぞ!」


「俺が行く」


荷車を回り込むと、塊が1つ、驢馬(ろば)の後ろ脚へ低く寄っていた。驢馬(ろば)は蹴ろうとして、短い綱に首を取られていた。俺は燃えさしを、塊の真ん中へ突き出した。


霧が火の先で裂け、細い体が丸見えになった。犬は横へ跳んで火を避けた。その着地へ、俺の左の拳が先に届いた。


拳の下で肋骨の並びが潰れた。犬は荷車の車輪へぶつかり、そのまま起きなかった。残りは5つだった。


明かりの縁を回っていた塊が、止まった。そのうち2つが、明かりの届かない荷車の裏へ、同時に入ってきた。


俺は背中を車輪に付けた。後ろと上は、荷車が塞いでくれる。右から1つが高く、左から1つが低く、膝の高さへ来た。


高い方へ燃えさしを振った。霧が剥(は)がれ、牙が火の手前で空を噛(か)んだ。低い方は、左の脛(すね)へ来ていた。


脛(すね)に殻を張るのが、間に合った。牙が殻の上で滑り、犬の頭が俺の左足の外へ流れた。俺は背中を車輪に預けたまま、右足でその首を上から踏み抜いた。


高い方は、火を嫌って1歩下がった。下がった先は、焚(た)き火の明かりが斜めに差し込む所だった。霧の薄くなったその背へ、俺は右の拳を落とした。


残りは3つになった。明かりの外で、塊がまた輪を描き始めた。


俺が車輪から離れると、2つが左右から挟みにきた。燃えさしで右の霧を剥(は)がしてから殴り、左は殻を張った腕で受けて、地面へ叩きつけた。2つとも、二度とは起き上がらなかった。


最後の1つは、水路の方へ下がっていった。娘の落とした桶(おけ)のそばを抜け、草を這(は)っていく。走って追えば、左の膝がどこかで抜ける。


俺は燃えさしを、塊の先の草へ投げた。火は草の上で跳ね、水路の手前に落ちた。犬は火の前で足を止め、逃げ場を探して、こっちへ向き直った。


向き直った鼻先へ、俺は右で2度蹴って間合いを詰めた。腰の高さで、拳を振り抜いた。黒い霧が草の上で散り、夜風に流されて薄くなった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

《討伐結果》

討伐対象:霧狗(むく) 7体

討伐吸収(とうばつきゅうしゅう)が完了しました。

力の残滓(ざんし)を蓄積しました。

獲得可能な技能はありません。

忘却値に変化はありません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


霧の犬には、名前があった。俺はそれを頭の中で1度だけ読み、水路の手前の燃えさしを靴の底で踏み消した。


左の前腕に、牙の跡が白い筋になって3本残っていた。皮膚は切れていなかった。脛(すね)の方も同じだった。外套(がいとう)の左袖は、前からの裂け目が肘の上まで広がっていた。


桶(おけ)を拾って戻ると、焚(た)き火の明かりの中に、男と女と娘が揃っていた。驢馬(ろば)は耳を伏せていたが、脚に傷はなかった。その全部を見てから、俺はようやく安心した。


娘が母親の腕から抜けてきた。俺が差し出した桶(おけ)を、両手で受け取った。


「ありがとう」


返事が、すぐには出なかった。俺の方へ飛んでくるのは、たいてい石の方だった。


「……ああ」


「ああ、じゃなくて」


娘は口を尖(とが)らせた。


「腕、噛(か)まれてたでしょ。痛くないの」


「平気だ」


「噛(か)まれたのに?」


「噛(か)ませた。わざとだ」


娘は俺の左腕と顔を見比べ、それ以上は言わなかった。ミアなら、ここでもう一言返してくる。


男が棒を荷台へ立てかけ、火の向こうから俺を見た。視線が、裂けた右袖と、踵(かかと)に巻いた布で止まった。


「あんた、どこまで行く」


「東だ。聖都の方」


「歩いてか」


「歩いてだ」


「俺たちは夜明け前に出て、朝のうちに川港の町まで荷を運ぶ。荷台は麻の袋でいっぱいだが、袋の上なら1人は乗れる」


「払えるものがない」


「誰が払えと言った」


男は娘の頭に手を置いた。


「こいつと、驢馬(ろば)の分だ」


俺は、男の手の下の娘を見た。それから、東へ延びる暗い道を見た。


「乗る」


娘が顔を上げた。


「前の方がいいよ。後ろは揺れるから」


「知ってるのか」


「私、いつも後ろだもん」


女が、小さく笑った。


家族は荷車の下に毛布を敷き、3人で並んで眠った。驢馬(ろば)もいつの間にか脚を折り、目を閉じていた。俺は火の番を引き受け、背中の包みを膝の横へ下ろした。


手のひらに、燃えさしの煤(すす)が黒く残っていた。外套(がいとう)の裾(すそ)で擦(こす)っても、指の間の黒は落ちなかった。


包みの口から、細い光が漏れた。


『音だけ、聞いていました』


「どうだった」


『あなたの呼吸は、途中で一度も乱れませんでした』


「膝は乱れた」


『膝は呼吸をしません』


「知ってる」


『荷車なら、歩くより半日早く川港の町に着くと推定します』


「半日分、膝が休める」


『はい』


光が少し動いて、荷車の方を向いた。


『あの驢馬(ろば)は、あなたより先に眠りました』


「火の番が誰か、見てたんだろう」


『驢馬(ろば)が見ていたという記録は、ありません』


「俺は見てた」


光が、ゆっくり暗くなった。


しばらくして、俺は火に薪(たきぎ)を1本足した。はぜた火の粉が、荷車の下の方へ流れた。


荷車の下から、眠ったはずの娘の声がした。


「ねえ。名前、まだ聞いてない」

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それでは、次回の更新でお会いしましょう!


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