街道の値段
藁の山から這い出したとき、空はまだ白くなりきっていなかった。分かれ道の土は夜露を吸って黒く、2本の道へ続く深い轍は、夜中に測ったときのまま並んでいた。どちらにも手で7つ半。どちらにも、同じ重さが沈んでいた。
布の包みには、黒パンが3つと干し肉が半分残っていた。馬車は1日先にいて、1年までは12日。道を選び違えれば、その1日が2日になる。
南へ曲がる本道の先、なだらかな丘の向こうに、煙が何本も細く立っていた。朝飯を炊く煙だった。風が吹くたびに、煙は同じ向きへ少しずつ傾いた。その手前に、石を積んだ見張り台の頭が1本、灰色に突き出ていた。
見張り台があるなら、道を見張る兵がいる。兵なら、通った馬車を見ている。俺は轍から目を上げ、本道の方へ体を向けた。
背中の包みを下ろして口を開けると、シグの光の上に藁が載っていた。
「入ったか」
『3本です。駆動に障りはありません』
「俺の袖には、もっと入ってる」
『数えますか』
「数えなくていい。痒いだけだ」
袖を振ると、乾いた藁が足元へ落ちた。裂けた右袖の内側にはまだ何本か残っていて、腕をちくちく刺した。俺は包みを背負い直し、本道へ出た。
丘を越えると、町は思っていたより小さかった。街道の両側に家が並び、その真ん中を木の柵と門が横切っていた。門の脇に石造りの詰所があり、兵が2人、入ってくる荷車の荷を覗いていた。
歩いて入る者には、兵は目を向けるだけだった。俺は頭巾を目深に下ろしたまま、荷車の陰について門を抜けた。左の膝が、門の下の段差で1度だけ抜けかけた。
門の内側に、詰所の蔵があった。麦の袋を山積みにした荷車が横づけされ、太った男が荷台の上から人を呼んでいた。
「担げる奴はいないか。昼までに、この麦を全部、蔵へ入れる」
近くにいた男たちは、目を逸らして通り過ぎた。袋は大きく、蔵の入口には段が3つあった。
「担げる」
俺が言うと、荷主は荷台の上から俺を見下ろした。その目が、裂けた袖と、踵に巻いた布で止まった。
「その袖で、か」
「袖で担ぐわけじゃない」
「……名前は」
「いらないだろう」
「昼までで銅貨5枚。落として破いたら、1枚引く」
「分かった」
シグの包みを背中から胸の前へ回し、外套の内側で縛り直した。袋は肩に載せずに背中へ負い、両手の掌で底を支えた。指で掴めば、どれだけ握っているのか指が教えてくれない。下から手のひらで受けていれば、袋の布を裂かずに済んだ。
1つ目の袋は、蔵の奥まで運べた。2つ目から先は、数えるのをやめた。袋を下ろすたびに、肘の上の刺し傷が鈍く疼いた。
麦の粉が汗で首に貼りつき、藁の痒さが粉の痒さに入れ替わった。蔵の中は薄暗く、乾いた麦と古い木の匂いがこもっていた。
蔵の入口の2段目で、左の膝が抜けかけた。背中の袋が傾き、俺は右足で段を踏み直して、袋を壁へもたせかけた。
「落とすなよ」
「落としてない」
荷主は鼻を鳴らし、次の袋を荷台の縁へ押し出した。
蔵の入口の横の長椅子には、詰所の兵が2人腰を下ろしていた。袋を運ぶたびに、2人の話す声が耳に入った。
「ベルガルドの話、聞いたか」
「生贄が戻ったって話だろう。昨日の荷馬車の連中が、そればかり喋ってた」
「灰色の頭巾の男で、教会の巡察官の剣を、素手で折ったらしい」
「素手で剣が折れるか」
「折れたから、話になってるんだ」
袋の底を支える手に、力が入りかけた。俺は手を広げたまま段を上がり、袋を蔵の床へ下ろした。右腕の内側を袋の方へ向け、裂けた袖から黒い筋が見えないようにした。
蔵から戻ってくると、若い方の兵がこっちを見ていた。
「おい、そこの頭巾。お前も、ベルガルドの方から来たのか」
「来た」
「なら、その生贄を見たか」
「知らない」
「頭巾は取らないのか。暑いだろう」
「日の光が、目に痛い」
若い兵は笑った。
「黒淵帰りみたいなことを言うな」
年かさの兵が、手の甲で若い兵の膝を叩いた。
「働いてる奴に絡むな。麦が昼に間に合わなかったら、お前が担げよ」
若い兵は肩をすくめ、また別の話を始めた。俺は次の袋を背負った。
最後の袋を蔵へ入れたときには、日はもう真上を過ぎていた。荷主は俺の手のひらに銅貨を5枚、1枚ずつ数えて落とした。
「1枚も引かずに済んだな。明日もいるなら、使ってやる」
「いない」
門の脇で、年かさの兵が荷車の札を見ていた。俺はその横に立った。
「昨日、教会の馬車がここを通ったか」
兵は札から目を上げなかった。
「通ったかもしれんし、通らなかったかもしれん」
俺は、もらったばかりの銅貨を1枚、兵の手元の台に置いた。兵はそれを指で寄せ、袖の中へ落とした。
「灰色の幌で、前と後ろに騎馬がいた。昨日の昼過ぎだ。止めるなと言われてな、門を開けたまま通した」
「どっちへ行った」
「南回りだ。ここを抜けたら、南回りしかない」
「北東の荷車道にも、深い轍があった」
「あっちは石切り場へ行く荷車だ。重いのは、みんな石だよ」
兵は、そこでようやく俺の方を見た。
「幌の中で、鈴が鳴ってた。教会の馬車に鈴なんて、聞いたことがない」
台の上に置いたままの指が、止まった。
「……そうか」
「南回りへ行くなら、夜は野営地の火から離れるな。このところ、羊がやられてる」
「何に」
「見た奴がいない。だから、火から離れるなと言ってる」
南回り、と聞いて、少しだけ安心した。分かれ道で南を選んだ足は、外れていなかった。俺は残りの銅貨を数え直し、胸の内側へしまった。
門の手前に、黒パンを籠に並べた女がいた。
「黒パン、2つ」
「銅貨2枚だよ」
銅貨を渡すと、女は大きい方を選んで2つ寄こした。
「ベルガルドから来たんだろう。向こうのとどっちがうまいか、言っておくれ。向こうから来る連中は、うちのは酸っぱいって言うんだ」
俺はその場で1つにかじりついた。
固かった。少し酸っぱかった。養護院の黒パンも固くて少し酸っぱかったことは、知っている。ミアとその話をしたことまで覚えているのに、口の中のこれを並べて置く場所が、どこにもなかった。
「……固さは、同じくらいだ」
「味を聞いてるんだよ」
俺は、もう一口かじってから答えた。
「分からない」
「何だい、それ」
女は呆れた顔をした。
「うまい。それは分かる」
「……変な客だね」
女はそう言いながら、残りの1つを布にくるんで渡してくれた。
町を出て丘を1つ越えると、街道の前にも後ろにも人がいなくなった。俺は胸の前の包みを背中へ戻した。左の膝は、蔵の段を何十回も上がった分だけ重くなっていた。
『あの兵の話を、記録しました』
「どこまで聞こえた」
『鈴のところまでです。馬車との差は、1日と半分に広がったと推定します』
「蔵で、半日使った」
『はい。その半日で、道が1本になりました』
「噂の方が、俺より先を歩いてる」
『馬に乗っていますから』
「俺は歩きだ」
『知っています』
鈴は、昨日、大通りで鳴った。俺はあの音の高さも、鳴り終わりの細い震えも覚えている。幌の中で鳴ったのも、同じ音のはずだった。
あの音を、俺は忘れていない。昔のミアの声はなくしても、鈴の音は残っている。今は、その音に今の声が重なっていた。
日が傾くと、本道は低い丘の間を縫って南へ下っていった。踏み固めた路面の上で、轍はもう測れなかった。測らなくても、道は1本だった。
丘を2つ越えた先、街道脇の窪地に、荷車が1台止まっていた。その横で、焚き火が小さく燃えていた。火の輪の中で、人の影がいくつか動いていた。風に乗って、薪のはぜる音がかすかに届いた。
火の輪から、小さな影が1つ、桶を提げて、暗くなりかけた水路の方へ離れていった。
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