轍を追う
門の陰を出ると、刈り入れの済んだ畑の上を、朝の光が斜めに渡っていた。俺は頭巾を目の上まで下ろし、東の街道へ足を出した。灰色の幌の馬車は、もうどこにも見えなかった。
食料は、今夜の分が届けばそれで最後だった。その先は、銅貨6枚と水2筒しかない。聖都までは急げば7日、1年までは13日。左の膝は、急げる膝ではなかった。
門の前の石畳には、何も残っていなかった。朝のうちに畑へ出る荷車が何台も通り、車輪の跡も蹄の跡も、乾いた埃の下で重なっていた。石畳が切れて踏み固めた土の道になった所で、俺はしゃがんだ。
土の上に、轍が何本も走っていた。畑へ向かう荷車の跡は浅く、幅も狭い。その中に1組だけ、深く沈んだ跡があった。車輪の縁が、指の関節1つ分より深く土を割っていた。
その前と後ろに、蹄の跡が1頭分ずつついていた。騎馬の男が2人、馬車の前と後ろ。今朝、養護院の門の前で見たとおりの並びだった。
俺は右の掌を広げ、親指と小指で土を押さえながら、左の車輪の跡から右の跡まで手を送った。指が土に触れた感じは、少し遅れて返ってきた。肘から手首の内側の黒い筋が、そのたびに薄く熱を持った。
手で7つ半。もう1度測っても、同じ数だった。
街道の前にも後ろにも人の影がないのを確かめてから、背中の包みを少し緩めた。
「幅を、測っておいてくれ」
『測ります。少し動かないでください』
包みの口から細い光が出て、地面の上を1度だけ撫でた。
『左右の車輪の間隔は、1メートル48センチです。記録しました』
「俺の手だと、7つ半だ」
『あなたの手の数も、記録しますか』
「しておけ。歩きながら測るのは、こっちの手だ」
俺は立ち上がった。左の膝の奥で何かがずれかけて、戻った。体重を右へ移し、轍の横を歩き出した。
街道の最初の石柱は、門からしばらく歩いた所にあった。腰の高さの灰色の石で、刻まれた字は雨で角が丸くなっていた。その横で、鞍をつけた馬が1頭、道端の草を食べていた。
石柱にもたれていた兵が、俺を見て背を離した。日没前に水門小屋へ食料を届けに来ていた、あの小隊長だった。
「来たか」
小隊長は、鞍の横から布の包みを外した。
「代官の言いつけだ。黒パン4つと、干し肉1本。今夜の分」
「知ってる」
「これで最後だ」
「それも、知ってる」
包みを受け取って、落とさないように左手を下に添えた。布越しに、パンの固い角が指に当たった。
正直に言えば、ほっとした。今夜は、空の腹で歩かずに済む。
小隊長は、俺の足元を見ていた。
「その靴、うちの払い下げだろう。後ろが裂けてる」
「歩ければいい」
「その足で、聖都まで行くのか」
「行く」
「馬車には、歩いて追いつけないぞ」
「追いつかなくていい。見失わなければいい」
小隊長は少しの間、何か言いかけた顔をしていた。それから鞍に手をかけ、馬に跨がった。
「代官には、届けたと言っておく」
「ああ」
馬は、来た道を門の方へ戻っていった。俺は包みを外套の内側へ入れ、石柱の横を過ぎた。
昼が近づくと、靴の後ろの裂けた革が、左の踵の上の傷を擦り始めた。1歩ごとに、乾きかけた傷の縁がめくれた。立ち止まって布を裂き、傷の上に2重に巻いてから、靴を履き直した。
払い下げの靴は、どこまでも払い下げだった。1年ぶりの履物だというのに、裸足で歩いた古道の方が、まだ優しかった。
街道沿いに、細い水路が流れていた。俺は縁に膝をつき、筒の水を汲み直した。それから右の袖をまくり、肘の上を縛った布を解いた。刺し傷はまだ閉じきらず、縁が赤く腫れていた。
水路の縁に、細長い葉が生えていた。養護院の裏で、傷に効くと教わって摘まされた葉に形が似ていた。1枚ちぎって指で潰し、鼻へ近づけた。
青い匂いがした。それが、あの葉の匂いなのかどうか、分からなかった。煎じる鍋の横に座っていたことは覚えている。その鍋から何が立ちのぼっていたのかだけが、どこにもなかった。
「これ、何か分かるか」
『植物を見分ける記録は、私にはありません』
「だろうな」
潰した葉を水路へ捨て、傷を水だけで洗った。分からない葉を貼るより、水の方がまだましだった。布を縛り直すと、肘の上がまた鈍く疼いた。
午後になると、轍の前の蹄の跡が、間を開け始めた。1つ1つの跡は浅くなり、後ろの縁だけが土を蹴り上げていた。馬が、速く歩かされていた。
1度、跡を見失った。脇道から出てきた荷車が何台も重なり、深い跡が途切れていた。道の両側で手を7つ半ずつ広げ、前と後ろの蹄の跡を探して、少し先でようやく拾い直した。
人の気配が途切れた所で、包みの中からシグが言った。
『馬車との差を、推定しますか』
「言え」
『あの蹄の間隔なら、馬車は今夜、あなたより1日先にいると推定します』
1日。朝、門の前で手を上げたときは、まだ車輪の音が聞こえていた。
「雨が降らなければ、跡は残る」
『空に、雨の兆候はありません』
俺は、空を見上げなかった。昼の光を正面から見ると、目に涙が滲む。代わりに足元の深い跡へ目を落とし、歩く速さを1段上げた。左の膝が、それに文句を言った。
日が傾く頃、道が2つに分かれた。
広い方は南へ曲がり、石の混じった路面が遠くまで白く延びていた。もう1本は細い荷車道で、畑の間を北東へ入っていく。分かれ目の土は、畑から戻る荷車と人の足で、一面に踏み荒らされていた。
俺はしゃがんで、手で7つ半の幅を探した。深い跡は、踏み荒らされた土の中へ沈んで、それきり出てこなかった。前と後ろの蹄の跡も、ほかの馬の跡に紛れていた。
日が沈むのは早かった。左の膝は、しゃがんだ姿勢から立つのを嫌がった。俺は分かれ道を見下ろせる畑へ入り、麦藁の山の陰に腰を下ろした。
刈り入れの済んだ畑に、麦藁の山がいくつも残っていた。持ち主の家は、灯りが小さく見えるほど遠くにあった。
「借りる」
誰もいない畑にそう言ってから、山の奥へ体を押し込んだ。乾いた藁が外套の裂けた袖から入りこみ、すぐに腕が痒くなった。それでも、土の上よりは温かかった。
包みを膝の横へ下ろし、口を開けた。シグの光が、藁の隙間で小さく揺れた。
小隊長の包みから干し肉を出して半分に裂き、黒パンを1つ取った。パンは固かった。干し肉は、それよりもっと固かった。
「靴の革の方が、まだ噛み切れる」
『靴を食べた記録は、ありません』
「食べてない」
『では、比べることはできません』
「比べなくていい。文句だ」
『文句として記録しますか』
「しなくていい」
残りの黒パン3つと干し肉の半分を、布に包み直した。明日の朝の分と、その先の分だった。
シグに光を寄せてもらい、記録帳を開いた。ミアの字が、先に目に入った。
『私は覚えてる。 ミア・ベル』
その下に、門の陰で書いた俺の3行がある。最後の『追う。』の下に、炭筆を当てた。
『落下から推定352日、夜。東の街道。幌の馬車の轍、手で7つ半。前と後ろに馬1頭ずつ。』
『馬車は1日先。分かれ道で跡が切れた。明日、拾う。』
字は、やはり右へ傾いた。ミアの丁寧な字の下で、俺の字だけが坂を下るように傾いていた。
「……今日は、ここまで来た」
返事のない頁に言って、記録帳を閉じた。胸の内側へ戻し、目を閉じても、眠りはなかなか来なかった。
夜が更けてから、俺は藁の山を抜け出した。遠くの家の灯りは、もう消えていた。暗視Lv.3を通すと、月のない分かれ道が、平らな灰色で浮かび上がった。
荷車の音は絶え、踏み荒らされた土は夕方のまま止まっていた。分かれ目から、それぞれの道へ10歩ずつ入り、しゃがんで手を広げた。
南へ曲がる広い本道にも、北東へ入る細い荷車道にも、手で7つ半の轍が、深く沈んで続いていた。
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