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聖都への馬車

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それでは、どうぞお楽しみください。

蹄(ひづめ)の音で、目が覚めた。厨房の床に、朝の光が細く差し込んでいた。落下から推定352日。机の向こうの椅子は、空だった。


巡察官が今朝ここへ来る、と昨夜ミアは言った。ミアの神印のことを教会へ報せたのは、たぶんあの白い外套(がいとう)の男だ。


表の門の方で、馬が鼻を鳴らした。車輪が石を噛(か)んで止まる音がした。俺は外套(がいとう)を掴(つか)んで立ち上がった。左の踵(かかと)の上の傷が、靴の裂けた革にまた擦れた。


中庭に、ミアが立っていた。髪を後ろで1つにまとめ、門の外を見ていた。


門の前に、灰色の幌(ほろ)の馬車が止まっていた。横腹に、七柱の印の円。その両側に、白い外套(がいとう)の騎馬の男が2人いた。


馬車の前に、イレーネ・ヴァイスがいた。右腕を、布で胸の前に吊(つ)っていた。手首に添え木が当てられ、黒い手袋は左手にだけはめていた。銀の数珠は、左の手首から垂れていた。


その少し後ろに、司祭のエイベル・ローデンが立っていた。聖印を握り、地面を見ていた。2階の窓に、子供の顔がいくつも並んでいた。修道女が、戸口で両手を胸の前に組んでいた。


「ミア・ベル」


イレーネは、俺ではなく、ミアを見て言った。


「あなたを、聖都へお連れします。保護です」


俺は、ミアの前へ出た。騎馬の男たちの手が、剣の柄へ動いた。イレーネは、振り返らずに左手を上げた。男たちの手が止まった。


「レイ・クロウ。今日は、あなたを拘束しに来たのではありません」


「保護って、何だ」


「聖都の中で、教会があの娘を預かります。危害は加えません」


左の手首で、数珠の玉が1つだけ滑った。


「私の知る限りでは」


ミアが、俺の横へ出てきた。


「どうして、私なんですか」


丁寧な言い方だった。声は、震えていなかった。


「あなたの神印に刻まれた固有技能は、教会の記録にあります」


イレーネは、平らな声で言った。


「追憶共鳴(ついおくきょうめい)。人や物に残った、強い記憶と感情の残響を感じ取る力です。3日前の朝、あなたは糸に繋(つな)がれた兵の手を取り、鎮めました。私の連れが、それを見ました。報告は、その日のうちに聖都へ送っています」


ミアの指が、首元の鈴に触れた。俺は、昨夜の机を思い出した。穴がある、とミアは言った。空っぽなのに、形だけ残っている、と。


あれにも、名前があった。


「聖都を出るとき、私は命令を2つ預かっていました。1つは、帰還した者の処分。もう1つは、帰還した者のそばに、あの娘がいた場合のことです」


「……1年前から、決めてたのか」


「命令は、そう書かれていました。私が決めたことではありません」


「断ったら、どうなる」


俺は聞いた。イレーネは、答える前に少しだけ間を置いた。


「教会は、この養護院を、帰還した災厄をかくまった場所として記録します。子供たちは別々の場所へ移され、ここは閉じられます」


2階の窓で、子供が1人、窓枠から顔を引っ込めた。


「そして、あなたは災厄の元として処分されます。今度は、1人の執行官ではありません」


「来るなら、来い」


「そう言うと思っていました」


イレーネの目が、俺の右腕へ下りた。裂けた袖の下の、黒い筋へ。肘の上の刺し傷は、布で縛ったまま、まだ閉じていなかった。


「あなたは、来た者を全員倒せるかもしれません。ですが、殺さずには倒せません。3日前、あなたはそれを私に見せました」


言い返す言葉は、なかった。


胸の奥で、熱が動いた。俺は、両手に硬殻(こうかく)Lv.3を張っていた。いつ張ったのか、自分でも分からなかった。


騎馬の男が2人。手首の折れた女が1人。司祭が1人。今朝の俺なら、ここにいる全員を、息1つ乱さずに地面へ倒せた。


能力値は上がった。1年前、鎖につながれて山道を歩いたときの何倍にもなっていた。だが、倒した後のことを、この手は何も知らなかった。


「巡察官様」


ミアが言った。


「私が行けば、ここは閉じられないんですか」


「報告には、そう書きます。災厄をかくまった場所ではなく、保護すべき者を差し出した場所として」


「レイは?」


「レイ・クロウの処分は、完了していません。それは変わりません」


イレーネは、少しだけ言葉を選んだ。


「ですが、災厄の元としてではなく、私の役目として残ります」


ミアは、2階の窓を見上げた。子供たちの顔を、1つずつ見ていった。戸口の修道女を見て、俯(うつむ)いたままの司祭を見た。


最後に、俺の右腕を見た。


「……行きます」


「ミア」


「行きます」


2度目は、イレーネではなく、俺に向かって言っていた。


「駄目だ」


「また勝手に、って言っていい?」


ミアは、俺の前に回った。


「言わない。勝手じゃないから。私が決めた」


「レイが戦ったら、レイが災厄になる。みんなが言ってる方に、本当になっちゃう」


ミアの声が、少しだけ速くなった。怒っているときではなかった。泣かないようにしているときの速さだった。


「それに、見てくる。教会が、何を隠してるのか。レイを落とした理由も、1年前のことも、全部。私、記録するの得意だから」


「1人で行くな」


「レイにだけは言われたくない」


ミアは、少しだけ笑った。笑おうとしていた。


「1年前は、レイが行った。今度は、私が行く。だから、今度はレイが来て」


ミアの手が、殻を張った俺の手の上に重なった。


「追ってきて。でも、戦わないで」


殻の上から、ミアの指の温かさは分からなかった。俺は、殻を解いた。胸の奥の熱を、底まで沈めた。


力はあった。3日前より、1年前より、ずっとあった。そのどれを使っても、ミアが頼んだことの逆にしかならなかった。


「……分かった」


イレーネは、そのやり取りの間、1歩も動かなかった。数珠の上の親指が、玉を1つ押さえたまま止まっていた。


「1年前、私はあなたに言いました。彼女を捕らえれば、あなたは逃げない、と」


平らな声だった。


「今度は、逆ですね。あの娘がいる場所へ、あなたは来る」


「来る。戦わないで」


「聖都で、お待ちしています」


それが脅しなのか、ただの事実なのか、分からなかった。


「報告には、何と書いた」


「見たとおりに」


イレーネは、吊(つ)った右腕に1度だけ目を落とした。


「あなたが鎖を焼き、剣を折り、私の喉の上で拳を外したこと。群れの主を焼いたとき、糸に繋(つな)がれた者を1人も死なせなかったこと。一昨日の夜、山の上の光が上がってすぐに消えたこと」


「それで、これか」


「報告は、事実を並べるだけです。どう読むかは、私が決めることではありません」


数珠の玉が、また1つ滑った。


「黒淵(こくえん)から戻った者はいない、と書かれた記録の横に、私は、戻った者の記録を並べました。それだけです」


ミアは養護院の中へ戻り、小さな布袋を1つだけ持って出てきた。2階の子供たちに手を振り、修道女の手を1度だけ握った。司祭の前を通るとき、足を止めずに言った。


「行ってきます、司祭様」


エイベルの指が、聖印の上で止まった。


ミアは、俺の前で立ち止まった。それから、額を俺の胸の真ん中へ押しつけた。1年前の山道と同じところだった。外套(がいとう)の下の記録帳の角が、2人の間に挟まった。


「痛い」


ミアが言った。


「生きてる証拠だ」


ミアが、胸に額をつけたまま小さく笑った。俺は、両手をミアの背中に置いた。握らなかった。ただ、離さなかった。


ミアが幌(ほろ)の中へ入り、イレーネがその向かいに乗った。騎馬の男が前と後ろにつき、馬車が動き出した。車輪が石を噛(か)み、門を出て、大通りを東へ下っていった。


俺は、門の外まで歩いた。追いかけはしなかった。左の膝が、石畳の段差でまた抜けかけた。


大通りの半ばで、幌(ほろ)の後ろの垂れ布がめくれた。ミアが、身を乗り出していた。鈴が鳴った。


「レイ!」


少しかすれた声だった。最後の音が、細く震えて消えた。


1年前、山道で、俺は同じように名前を呼ばれた。あのときの声は、もう残っていない。


だが、今の声は覚えた。鈴の音と一緒に、この朝の光と一緒に。これは、俺が忘れていない方の声だった。


俺は、手を上げた。1年前は鎖につながれていた手だった。今は、何にもつながれていなかった。馬車は東の門をくぐり、見えなくなった。


東の門の上に、ヴァルターが立っていた。


「命令書は本物だった」


俺が門の下まで来ると、代官は言った。


「知ってる」


「取引は、ここまでだな」


「ああ」


「今夜の分の食料までは、小隊長に届けさせる。その先は知らん」


ヴァルターは、東へ延びる街道を見ていた。


「追うのか」


「追う。戦わないで」


「……難しい注文だな」


代官は、それ以上何も言わなかった。


俺は門の陰で、記録帳を開いた。昨夜のミアの字の下に、書いた。字は、やはり右へ傾いた。


『落下から推定352日。ミアが聖都へ行った。自分で決めた。』


『追ってきて。でも、戦わないで。ミアがそう言った。』


『追う。』


包みの中で、シグが小さく言った。


『ミア・ベルの声を、記録しました』


「いい」


俺は、記録帳を閉じた。


「これは、俺も覚えてる」


東の街道が、刈り入れの済んだ畑の間をまっすぐに延びていた。その先に、聖都がある。


1年まで、あと13日。


今度は、俺が追う番だった。

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