名前を呼ぶ
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それでは、どうぞお楽しみください。
西門の小さな扉をくぐったのは、夕方の鐘が鳴り終わったころだった。夜明け前に石室を出て、1日かけて斜面を下りてきた。約束の2日目の、最後の明るさだった。
広場の北の端、倒れた荷車の横の井戸の石に、ミアが座っていた。膝の上で、指を折って何かを数えていた。俺を見ると、指が止まった。
一昨日の朝、白い外套の男は、ミアが兵の手を握るのを見てから教会へ馬を返した。経路は閉じたが、あの男が見たものは閉じていない。
ミアは立ち上がったが、走ってはこなかった。歩いてきて、俺の前で止まった。
「2日」
「2日だ」
「……ちゃんと、戻った」
ミアの目が、俺の右腕へ下りた。裂けた袖の下で、肘から手首へ黒い筋が2本浮いていた。肘の上の刺し傷は、布で縛ったまま、まだ閉じていなかった。
「それも、後で?」
「今、話す。全部だ」
西門の兵が2人、扉の横から俺たちを見ていた。俺と目が合うと、1人は目を逸らした。もう1人は逸らさず、何も言わなかった。
大通りを歩く間に、ミアはこの2日のことを話した。下りの斜面で無理をした左膝が、石畳の段差のたびに抜けかけた。
糸に繋がれた7人は、誰も死ななかった。首の傷は、兵と修道女が酒で洗った。夜番の男の首の白い線も、一昨日の朝から動いていない。若い男は今日、自分の足で家へ帰った。
「それから、町の人が」
ミアは、少しだけ言葉を探した。
「礼拝堂の前で見てた人たちは、何も言わなかった。お礼も、悪口も。……石もね」
「そうか」
「パンを置いていった人がいたの。礼拝堂の石段に、黙って。誰にって言わなかったけど、兵隊さんが、あんたのだろうって」
1年前、鎮災の行列で、俺は石を投げられた。今は、黙ってパンが置かれる。どちらも、俺の前には立たなかった。
養護院の厨房の奥の机は、1年前と同じ場所にあった。子供たちは、昨日のうちに礼拝堂から戻っていた。2階は静かだった。
修道女は俺を見て何か言いかけ、ミアの顔を見てやめ、角灯を1つ置いて出ていった。机の端に、灰を薄く敷いた盆があった。縁が欠けていた。
ミアは、向かいではなく俺の隣に座った。向かいだと字が逆さに見える。1年前も、そうだった。椅子に腰を下ろすと、左の脇腹が鈍く痛んだ。
「話して」
俺は、盆の灰を見たまま言った。
「お前の声を、覚えてない」
ミアは、何も言わなかった。
「顔は覚えてる。髪も、目の色も、鈴の音も。お前が言ったことも、ほとんど全部覚えてる。3日で帰るって言った、と怒ったことも、見れば分かるでしょうと言ったことも。声だけが、ない」
「……いつから」
「奈落の、一番下で。あそこで、力を1つもらうたびに、何か1つ忘れた。最後にもらった力の代わりに、お前の声がなくなった」
「黒い火?」
「そうだ」
「何で、そんなのもらったの」
声が速くなった。怒っているときの速さだった。
「もらわなきゃ、帰れなかった」
「ばか」
ミアは、机の上で両手を握っていた。
「ばか。……ばか」
3度目は、声が震えていた。
「他には」
しばらくして、ミアが聞いた。
「他にも、何か忘れたんでしょう。その顔は」
隠す理由は、もうなかった。
「黒パンの味。薪を握ったときの木の手触り。薬湯の匂い。屋根を打つ雨の音。それから、お前に傷の手当てをされたときの、指の温かさ」
ミアの肩が、小さく跳ねた。
「全部……私と一緒のやつだ」
黒パンは、ミアが裏口から抱えて走ってきた。薬湯の日は、ミアが鼻を押さえて笑っていた。手当てをしたのは、ミアだった。俺は、何も言えなかった。
「だから、洗濯場で、あんな顔してたんだ。私が喋るたびに、何か探してるみたいな顔」
「探してた。見つからなかった」
「一昨日の朝のも?」
「あの白い塊は、お前の声でレイと呼んだ。兵の喉を使って、何度も」
ミアの顔から、血の気が引いた。
「……私には、あれ、自分の声に聞こえた。気持ち悪いくらい」
「俺には、区別がつかなかった。どっちがお前か、耳では分からなかった」
「じゃあ、どうやって」
「鈴だ。お前の方だけ、鈴が鳴った」
ミアは、首元の鈴に指で触れた。1年前、石板の下から這い出してきたとき、この鈴には布が巻かれていた。音を立てないように。
「……もう、布は巻かない」
小さな声だった。
「呼ぶときは、鳴らす。ちゃんと、私だって分かるように」
ミアは、長いあいだ黙っていた。それから、俺の右手を取った。黒い筋の浮いた方の手だった。
「痛い?」
「少しな」
ミアは、俺の手を両手で包んで目を閉じた。礼拝堂の前で、糸を切った兵にそうしたように。眉の間に、あのときと同じ皺が寄った。
「……穴がある」
目を閉じたまま、ミアが言った。
「いくつも。空っぽなのに、形だけ残ってる。ここに何かあったって、分かる形」
「何か、見えるのか」
「見えない。聞こえるのとも違う。……分かるだけ」
ミアの指に、少し力が入った。
「その穴の周りで、ずっと同じのが鳴ってる。帰る、帰る、って。うるさいくらい」
手当ての指の温かさは、思い出せなかった。今、俺の手を包んでいる指が温かいことだけが分かった。それで、よかった。
ミアが目を開けた。濡れていた。今度は、怒っていなかった。
「私は、覚えてる」
「……ああ」
「レイが忘れた分、私が覚えてる。黒パンの味も、雨の音も、薬湯がどれだけ苦かったかも。私の声も。全部」
「声は、お前に聞けばいいのか」
「聞けばいいの。何度でも。それで、今日の声を覚えて。明日の声も、その次も」
ミアは、灰の盆を2人の間へ引き寄せた。人差し指で、灰の上に字を書いた。2つ。
「最初に教えたの、覚えてる?」
「レイと、ミア」
「そう」
ミアは、1つ目の字を指でなぞった。
「レイ」
それから、2つ目を。
「ミア」
少しかすれた声だった。最後の音が、細く震えて消えた。洗濯場で初めて聞いた声と、同じ声だった。
1年前の声とは、比べられない。比べるものがない。だから、この声を最初にする。
俺は、灰の上に同じ字を書いた。自分の名前と、ミアの名前。
「違う、そこは払うの」
ミアの指が、俺の字の最後の1画を直した。
「……前も、そう言ったな」
「言った。何回も」
「言葉は覚えてる」
「じゃあ、今の声で覚え直して。違う、そこは払うの」
俺は、もう1度書いた。今度は、払った。
「ミア」
呼ぶと、ミアが俺を見た。
「レイ」
呼び返された。鈴が、小さく鳴った。
「記録帳、出して」
胸から出すと、ミアは最初の頁を開いた。自分の字を、しばらく指でなぞっていた。それから、後ろの白い頁を探した。
「帰ってきたら、続きを書くって言ったでしょう」
炭筆を取って、書いた。
『落下から推定351日。レイが帰ってきた。』
『レイは、私の声を覚えていない。』
『私は覚えてる。 ミア・ベル』
濃い筆跡だった。少し右上がりで、最後の丸だけが大きかった。ミアは、炭筆を俺へ返した。
俺は、その下に書いた。字は、やはり右へ傾いた。
『ミアの声を、今日から覚える。』
ミアは、その1行を長いあいだ見ていた。
「傾いてる」
「知ってる」
「直さなくていい。それが、レイの字だから」
俺は、椅子の背に掛けていた包みを膝の上へ下ろした。
「もう1つ、見せるものがある」
包みの口を開けた。単眼が、角灯の明かりの中で細く灯った。ミアが、椅子の上で身を引いた。
「……何、これ」
「シグだ。奈落の底で会った。俺が忘れたことを、覚えておく役目をしてる」
単眼が、ゆっくり1度明滅した。
『はじめまして、ミア・ベル。記録中継施設の保守守護機、シグです』
ミアは瞬きを2度した。それから、おそるおそる身を乗り出した。
「……喋った」
『喋ります。人前では、喋らないことにしています』
「私は?」
『レイが、あなたの前では喋ってよいと判断しました。ですから、喋ります』
ミアは、俺とシグを交互に見た。
「レイの記録、この子も取ってるの?」
『取っています。見たこと、聞いたこと、決めたこと。それから、洗濯場と、一昨日の朝と、今夜のあなたの声も』
「……私の声も」
『はい。レイが忘れても、事実は読み上げられます。気持ちは、復元できません』
ミアは、しばらく単眼を見ていた。それから、少しだけ笑った。洗濯場から数えて、初めて見る笑い方だった。
「じゃあ、気持ちの方は、私の担当ね」
『分担を記録します』
角灯の火が、少し小さくなった。ミアは記録帳を閉じて、俺の胸元へ返した。1年前に山道でそうしたように、襟の中へ差し入れた。角が、胸の骨に当たった。
「今日、教会の人が来た」
ミアが、盆の灰を指でならしながら言った。
「私の神印のこと、聞かれた。小さいころ、聖板で読まれたときのこと。一昨日、あの兵隊さんの手を握ったのを、見てた人がいたって」
あの白い外套の男だ、と思った。言わなかった。
「何と答えた」
「本当のこと。分かんないって」
「それで」
「巡察官様が、明日の朝、ここへ来るって」
ミアは、灰をならす指を止めなかった。
「今夜は、ここにいて。厨房の床でいいから」
「そうする」
厨房の床に横になると、左の踵の上の傷が、靴の裂けた革に擦れて熱を持っていた。右手を握ると、握ったという感覚が、まだ遅れて返ってきた。
外の通りを、蹄の音が1つ、ゆっくり通り過ぎていった。




