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それでは、どうぞお楽しみください。

ミアは、俺の3歩手前で止まった。首の鈴が、走ってきた勢いのまま1度鳴った。灰青色の目が、俺の顔から右腕へ下りた。


袖は肩まで裂け、肘の上の傷からまだ血が垂れていた。鉄門から入った群れの残りは、まだ路地のどこかにいる。そして明日の夜には、山の上の石室で、あの光の柱がまた立つ。


「……その腕」


まだ耳に馴染んでいない声だった。


「後でいい」


「後で、ばっかり」


ミアは言い返しながら、もう俺を見ていなかった。石畳に寝かされた兵のそばに、膝をついていた。ミアに付き添っていた兵だった。


目は開いていた。唇が、声にならないまま同じ形を繰り返している。首の後ろの白い線は止まっていたが、身体の震えは止まっていなかった。ミアが、その手を両手で包んだ。


しばらく、何も起きなかった。ミアは目を閉じていた。眉の間に、痛いものを我慢するときの皺が寄っていた。


兵の震えが、少しずつ小さくなった。やがて、兵の目がミアの顔の上で止まった。


「……娘。無事か」


兵自身の、低い声だった。


「無事です。あなたが、扉の前にいてくれたから」


ミアは手を離さなかった。


「何をした」


俺が聞くと、ミアは首を振った。


「分かんない。この人の中に、怖いのがいっぱい残ってたから。大丈夫だよって、思っただけ」


大通りの角に、白い外套(がいとう)の男が馬を止めていた。イレーネと来た男の片方だった。男は、ミアの手と兵の顔を長く見ていた。それから馬首を返し、教会の方へ去った。


ヴァルターが来たのは、兵が6人を戸板で運び出した後だった。


「路地の中のは、兵が片づけた。鉄門から入った分も、まだ少し残っているが、数えられる数だ」


「死んだのは」


「兵が2人。外壁区の住民が3人。糸に繋(つな)がれた者は、夜番の男を入れて7人。今のところ、全員息はある」


代官の目が、灰色の山から俺へ移った。


「次の話だ。2日後に開くと言ったな」


「明日の夜だ。山の上へ行く」


「閉じられるのか」


「開いてる間なら、たぶん焼ける」


「兵はつけん」


ヴァルターは短く言った。


「山の上で兵が見たものは、私に報告される。報告されれば、私は書く」


「それでいい」


「食料は小隊長に持たせる。閉じたら、戻れ」


代官は、それ以上言わずに背を向けた。


ミアは、兵の手当てを修道女に任せて戻ってきた。


「また行くの」


「閉じに行く。明日の夜、あそこがまた開く。開けたのは、俺だ」


「何日」


「2日」


ミアの目が細くなった。


「前は、3日って言った。1年だった」


「今度は2日だ。数えていい」


「数える。1日でも遅れたら、怒る」


「知ってる」


「……話は?」


「戻ってからだ。約束が2つになる」


「私も行く」


「駄目だ」


「また勝手に――」


「勝手じゃない。お前は、あの7人を見てろ。首の傷は酒か灰汁(あく)で洗わせろ。糸の端が動いたら、兵に言え」


ミアは唇を噛(か)んだ。それから、俺の外套(がいとう)の胸を指で1度だけ突いた。記録帳の角があるところだった。


「2つとも、守って」


昼過ぎに、西門を出た。出る前に黒パンを2つ食べ、水を飲み、左膝へ自己治癒(じこちゆ)Lv.2を4呼吸だけ流した。熱い痛みが骨の奥へ沈み、膝の抜ける感じが半分になった。右上腕の傷は、裂けた袖ごと布で縛った。


道は、探さなくてよかった。採石場の先の山道の出口から、斜面をまっすぐ上へ、刈り込まれたような跡が続いていた。踏み倒された草、爪の刺さった足跡、日に当たって白く乾き、縮れた菌糸(きんし)の筋。群れが下りてきた道だった。


来たときは6日かかった。道を知らなかったからだ。登りでは、左の踵(かかと)と脇腹が、1歩ごとに順番に痛んだ。


『群れは、道を使いませんでした』


人のいない斜面で、シグが言った。


『施設跡から城塞まで、まっすぐ下りています』


途中で、グールの死骸を2つ見た。どちらも、弩砲(どほう)の太い矢が胸に刺さったまま、斜面を這(は)い戻ろうとした形で止まっていた。坂の下で撃たれ、山へ帰ろうとしたのだろう。


日が落ちてから、岩陰で足を止めた。振り返ると、斜面のずっと下に、ベルガルドの明かりが小さく固まっていた。西の城壁の魔導灯(まどうとう)は、まだ外を向いていた。


あの明かりのどこかで、ミアが指を折っている。


『質問してもよいですか』


シグが、包みの口から単眼を半分出した。


「何だ」


『受入の命令を焼けば、経路は閉じます。向こうの転移区画は、呼びかける相手を失います』


「それでいい」


『あの区画は、避難者を送り届けるために作られていました。もし、まだ向こうで待っている者がいたら、その者の帰り道も閉じます』


俺は、第12層の崩れた街を思い出した。名前を削られた壁。歩行可能者43名。最後の4名が転移できたかは、分からなかった。


「……いたのか」


『私の記録では、第12層に生きた避難者の反応はありませんでした。私たちが第12層にいた3か月近く、あなた以外には』


「なら、閉じる」


『記録します。質問したことも』


「なぜ聞いた」


『あなたが後で、同じことを考えると推定したからです。そのとき、答えがあった方がよいと判断しました』


俺は、何も言わなかった。岩に背をつけ、3刻ほど眠った。


夜明け前に、また登った。平らなところではシグが歩き、坂では背負った。翌日の夕方、見覚えのある斜面に出た。低い森の中腹に、半分埋まった石室があった。


落下から推定350日。


石室の天井の穴は、前と同じ形をしていた。床は踏み荒らされていた。グールの足跡が幾重にも重なり、割れた台座の周りには、白い粉が乾いてこびりついていた。壁の表示は、欠けたままだった。


『経路 閉――』


シグが台座の縁に接続棒を入れた。単眼が、長く明滅した。


『応答はありません。今は、閉じています』


「開くのを待つ」


俺たちは、石室の壁際に座った。シグが時間を数えた。夜が来た。天井の穴の向こうで、星の位置が変わっていった。


真夜中を過ぎたころ、足の下で石が鳴った。台座の割れ目から、白い光が滲(にじ)み出した。光は割れ目に沿って広がり、台座の外周を1周して、天井の穴へまっすぐ立ち上がった。見張りが、流れ星と書いた光だった。


光の中から、匂いが来た。腐った菌床(きんしょう)の甘さと、血流河(けつりゅうがわ)の鉄臭さ。1年近く吸い続けた、奈落(ならく)の空気だった。


『接続を確認しました』


シグの単眼が、台座の上を走る細い線を追った。


『到着側の台座は割れています。ですが、受入の命令だけが生きています。閉じる手順を待ったまま、向こうの呼びかけに応え続けています』


「それを焼けば」


『呼びかけに応えるものが、なくなります。ただし、経路が開いている間に焼けば、火は向こう側へ引かれます』


「開いてる間しか、命令は光らない」


『はい』


「なら、今だ。お前は台座から離れろ」


シグが接続棒を抜き、6歩下がった。


光の奥で、何かが動いた。灰色の手が、台座の縁を掴(つか)んだ。長い指の先に、爪。光の中から、グールの頭がせり上がってきた。


俺は左手に硬殻(こうかく)Lv.3を張り、その顔を光の中へ押し戻した。


「戻れ」


手応えが、光の向こうへ落ちていった。


台座の縁に、線が浮かんでいた。割れ目から壁の表示へ向かって走る、1本の命令の線。その途中に、古代文字が1つ光っていた。第12層で、シグの中の「帰還」を焼いたときと同じ形の文字だった。


『受入です』


左の人差し指に、黒炎(こくえん)Lv.1を灯した。爪より小さく。右腕は使わなかった。昨日の熱が、まだ骨の内側に残っていた。


広げるな。焼くのは1本だけだ。文字へ、火を沈めた。


黒い炎が文字を噛(か)んだ。その瞬間、胸の奥が引かれた。


光の向こうから、何かが俺の火を吸っていた。受入の線の先、経路の奥、第12層の転移区画の方へ。待機のまま、半月のあいだ呼び続けていたものが、ようやく返事を見つけたように、俺の中の熱を引きずっていった。


胸から、両腕へ。右腕の、黒い炎が何度も通った道へ。


「止まれ」


止まらなかった。


『供給を切ってください』


シグの声が遠かった。


火の走る先を見た。文字は半分焼けていた。あと半分。


俺は、胸の中で熱の根を探した。腕へ流れ込む口を、1つずつ閉じた。右腕の方から。左腕は、最後まで開けておいた。


文字の最後の1画が、黒く沈んだ。


「止める」


供給を断った。


白い光が、根元から折れた。天井の穴へ立っていた柱が、音もなく細くなり、糸になり、消えた。石室が、暗くなった。


俺は、床に倒れていた。右腕の内側を、焼けた杭(くい)が何本も通っていた。


肘から手首まで。胸の真ん中から、両肩へ。息を吸うたびに、骨の内側が焼けた。


『レイ。応答してください』


「……聞こえてる」


『台座の受入命令、消失を確認しました。向こうの呼びかけに、応えるものはありません』


シグの単眼が、台座から壁へ移った。


『経路、閉鎖』


欠けた壁の文字の続きを、シグが読み上げた。


俺は右腕を、単眼の光にかざした。肘から手首にかけての内側に、細い黒い筋が2本、皮膚の下に浮いていた。指を握ると、動いたという感覚が、前よりさらに遅れて返ってきた。


『魔力経路の損傷が広がっています。第12層で命令を焼いたときより広い範囲です。自己治癒(じこちゆ)の届かない側の傷です』


「消えるか」


『不明です。消えないと推定します』


「そうか」


それが、この扉を開けた分だった。


夜明け前に、石室を出た。天井の穴の下で、割れた台座はただの割れた石になっていた。第12層の転移区画は、今も待機を表示しているのだろう。応える者がいなくなっただけだ。


奈落(ならく)へ戻る道は、もうどこにもなかった。戻るつもりもなかった。


斜面の途中で、記録帳を開いた。


『落下から推定350日。施設跡の台座で、受入の文字を焼いた。経路は閉じた。右腕の内側に、黒い筋が2本残った』


その下に、1行だけ足した。


『あと1日。ミアが数えている』

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