閉じる接続
ご覧いただきありがとうございます!
よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!
それでは、どうぞお楽しみください。
ミアは、俺の3歩手前で止まった。首の鈴が、走ってきた勢いのまま1度鳴った。灰青色の目が、俺の顔から右腕へ下りた。
袖は肩まで裂け、肘の上の傷からまだ血が垂れていた。鉄門から入った群れの残りは、まだ路地のどこかにいる。そして明日の夜には、山の上の石室で、あの光の柱がまた立つ。
「……その腕」
まだ耳に馴染んでいない声だった。
「後でいい」
「後で、ばっかり」
ミアは言い返しながら、もう俺を見ていなかった。石畳に寝かされた兵のそばに、膝をついていた。ミアに付き添っていた兵だった。
目は開いていた。唇が、声にならないまま同じ形を繰り返している。首の後ろの白い線は止まっていたが、身体の震えは止まっていなかった。ミアが、その手を両手で包んだ。
しばらく、何も起きなかった。ミアは目を閉じていた。眉の間に、痛いものを我慢するときの皺が寄っていた。
兵の震えが、少しずつ小さくなった。やがて、兵の目がミアの顔の上で止まった。
「……娘。無事か」
兵自身の、低い声だった。
「無事です。あなたが、扉の前にいてくれたから」
ミアは手を離さなかった。
「何をした」
俺が聞くと、ミアは首を振った。
「分かんない。この人の中に、怖いのがいっぱい残ってたから。大丈夫だよって、思っただけ」
大通りの角に、白い外套の男が馬を止めていた。イレーネと来た男の片方だった。男は、ミアの手と兵の顔を長く見ていた。それから馬首を返し、教会の方へ去った。
ヴァルターが来たのは、兵が6人を戸板で運び出した後だった。
「路地の中のは、兵が片づけた。鉄門から入った分も、まだ少し残っているが、数えられる数だ」
「死んだのは」
「兵が2人。外壁区の住民が3人。糸に繋がれた者は、夜番の男を入れて7人。今のところ、全員息はある」
代官の目が、灰色の山から俺へ移った。
「次の話だ。2日後に開くと言ったな」
「明日の夜だ。山の上へ行く」
「閉じられるのか」
「開いてる間なら、たぶん焼ける」
「兵はつけん」
ヴァルターは短く言った。
「山の上で兵が見たものは、私に報告される。報告されれば、私は書く」
「それでいい」
「食料は小隊長に持たせる。閉じたら、戻れ」
代官は、それ以上言わずに背を向けた。
ミアは、兵の手当てを修道女に任せて戻ってきた。
「また行くの」
「閉じに行く。明日の夜、あそこがまた開く。開けたのは、俺だ」
「何日」
「2日」
ミアの目が細くなった。
「前は、3日って言った。1年だった」
「今度は2日だ。数えていい」
「数える。1日でも遅れたら、怒る」
「知ってる」
「……話は?」
「戻ってからだ。約束が2つになる」
「私も行く」
「駄目だ」
「また勝手に――」
「勝手じゃない。お前は、あの7人を見てろ。首の傷は酒か灰汁で洗わせろ。糸の端が動いたら、兵に言え」
ミアは唇を噛んだ。それから、俺の外套の胸を指で1度だけ突いた。記録帳の角があるところだった。
「2つとも、守って」
昼過ぎに、西門を出た。出る前に黒パンを2つ食べ、水を飲み、左膝へ自己治癒Lv.2を4呼吸だけ流した。熱い痛みが骨の奥へ沈み、膝の抜ける感じが半分になった。右上腕の傷は、裂けた袖ごと布で縛った。
道は、探さなくてよかった。採石場の先の山道の出口から、斜面をまっすぐ上へ、刈り込まれたような跡が続いていた。踏み倒された草、爪の刺さった足跡、日に当たって白く乾き、縮れた菌糸の筋。群れが下りてきた道だった。
来たときは6日かかった。道を知らなかったからだ。登りでは、左の踵と脇腹が、1歩ごとに順番に痛んだ。
『群れは、道を使いませんでした』
人のいない斜面で、シグが言った。
『施設跡から城塞まで、まっすぐ下りています』
途中で、グールの死骸を2つ見た。どちらも、弩砲の太い矢が胸に刺さったまま、斜面を這い戻ろうとした形で止まっていた。坂の下で撃たれ、山へ帰ろうとしたのだろう。
日が落ちてから、岩陰で足を止めた。振り返ると、斜面のずっと下に、ベルガルドの明かりが小さく固まっていた。西の城壁の魔導灯は、まだ外を向いていた。
あの明かりのどこかで、ミアが指を折っている。
『質問してもよいですか』
シグが、包みの口から単眼を半分出した。
「何だ」
『受入の命令を焼けば、経路は閉じます。向こうの転移区画は、呼びかける相手を失います』
「それでいい」
『あの区画は、避難者を送り届けるために作られていました。もし、まだ向こうで待っている者がいたら、その者の帰り道も閉じます』
俺は、第12層の崩れた街を思い出した。名前を削られた壁。歩行可能者43名。最後の4名が転移できたかは、分からなかった。
「……いたのか」
『私の記録では、第12層に生きた避難者の反応はありませんでした。私たちが第12層にいた3か月近く、あなた以外には』
「なら、閉じる」
『記録します。質問したことも』
「なぜ聞いた」
『あなたが後で、同じことを考えると推定したからです。そのとき、答えがあった方がよいと判断しました』
俺は、何も言わなかった。岩に背をつけ、3刻ほど眠った。
夜明け前に、また登った。平らなところではシグが歩き、坂では背負った。翌日の夕方、見覚えのある斜面に出た。低い森の中腹に、半分埋まった石室があった。
落下から推定350日。
石室の天井の穴は、前と同じ形をしていた。床は踏み荒らされていた。グールの足跡が幾重にも重なり、割れた台座の周りには、白い粉が乾いてこびりついていた。壁の表示は、欠けたままだった。
『経路 閉――』
シグが台座の縁に接続棒を入れた。単眼が、長く明滅した。
『応答はありません。今は、閉じています』
「開くのを待つ」
俺たちは、石室の壁際に座った。シグが時間を数えた。夜が来た。天井の穴の向こうで、星の位置が変わっていった。
真夜中を過ぎたころ、足の下で石が鳴った。台座の割れ目から、白い光が滲み出した。光は割れ目に沿って広がり、台座の外周を1周して、天井の穴へまっすぐ立ち上がった。見張りが、流れ星と書いた光だった。
光の中から、匂いが来た。腐った菌床の甘さと、血流河の鉄臭さ。1年近く吸い続けた、奈落の空気だった。
『接続を確認しました』
シグの単眼が、台座の上を走る細い線を追った。
『到着側の台座は割れています。ですが、受入の命令だけが生きています。閉じる手順を待ったまま、向こうの呼びかけに応え続けています』
「それを焼けば」
『呼びかけに応えるものが、なくなります。ただし、経路が開いている間に焼けば、火は向こう側へ引かれます』
「開いてる間しか、命令は光らない」
『はい』
「なら、今だ。お前は台座から離れろ」
シグが接続棒を抜き、6歩下がった。
光の奥で、何かが動いた。灰色の手が、台座の縁を掴んだ。長い指の先に、爪。光の中から、グールの頭がせり上がってきた。
俺は左手に硬殻Lv.3を張り、その顔を光の中へ押し戻した。
「戻れ」
手応えが、光の向こうへ落ちていった。
台座の縁に、線が浮かんでいた。割れ目から壁の表示へ向かって走る、1本の命令の線。その途中に、古代文字が1つ光っていた。第12層で、シグの中の「帰還」を焼いたときと同じ形の文字だった。
『受入です』
左の人差し指に、黒炎Lv.1を灯した。爪より小さく。右腕は使わなかった。昨日の熱が、まだ骨の内側に残っていた。
広げるな。焼くのは1本だけだ。文字へ、火を沈めた。
黒い炎が文字を噛んだ。その瞬間、胸の奥が引かれた。
光の向こうから、何かが俺の火を吸っていた。受入の線の先、経路の奥、第12層の転移区画の方へ。待機のまま、半月のあいだ呼び続けていたものが、ようやく返事を見つけたように、俺の中の熱を引きずっていった。
胸から、両腕へ。右腕の、黒い炎が何度も通った道へ。
「止まれ」
止まらなかった。
『供給を切ってください』
シグの声が遠かった。
火の走る先を見た。文字は半分焼けていた。あと半分。
俺は、胸の中で熱の根を探した。腕へ流れ込む口を、1つずつ閉じた。右腕の方から。左腕は、最後まで開けておいた。
文字の最後の1画が、黒く沈んだ。
「止める」
供給を断った。
白い光が、根元から折れた。天井の穴へ立っていた柱が、音もなく細くなり、糸になり、消えた。石室が、暗くなった。
俺は、床に倒れていた。右腕の内側を、焼けた杭が何本も通っていた。
肘から手首まで。胸の真ん中から、両肩へ。息を吸うたびに、骨の内側が焼けた。
『レイ。応答してください』
「……聞こえてる」
『台座の受入命令、消失を確認しました。向こうの呼びかけに、応えるものはありません』
シグの単眼が、台座から壁へ移った。
『経路、閉鎖』
欠けた壁の文字の続きを、シグが読み上げた。
俺は右腕を、単眼の光にかざした。肘から手首にかけての内側に、細い黒い筋が2本、皮膚の下に浮いていた。指を握ると、動いたという感覚が、前よりさらに遅れて返ってきた。
『魔力経路の損傷が広がっています。第12層で命令を焼いたときより広い範囲です。自己治癒の届かない側の傷です』
「消えるか」
『不明です。消えないと推定します』
「そうか」
それが、この扉を開けた分だった。
夜明け前に、石室を出た。天井の穴の下で、割れた台座はただの割れた石になっていた。第12層の転移区画は、今も待機を表示しているのだろう。応える者がいなくなっただけだ。
奈落へ戻る道は、もうどこにもなかった。戻るつもりもなかった。
斜面の途中で、記録帳を開いた。
『落下から推定350日。施設跡の台座で、受入の文字を焼いた。経路は閉じた。右腕の内側に、黒い筋が2本残った』
その下に、1行だけ足した。
『あと1日。ミアが数えている』




