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追わない

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それでは、どうぞお楽しみください。

イレーネは、同じ道を来た。洗い桶(おけ)の横から、俺の左の斜め前へ。距離は3歩。先のない細剣を右手に下ろし、その手を少しずつ腰の後ろへ隠していく。


北から東へ回った重なった声は、もう大通りの方角で鳴っていた。大通りの先には、教会がある。城壁の縁は白く、夜はほとんど残っていなかった。ここで手間取れば、群れが先に教会の前へ着く。


白い喉が、夜明けの光の中で、さっきよりはっきり見えた。1度見せた攻め方を、この女は理由なく繰り返さない。繰り返すのは、それが効くと分かっているからだった。


俺の手は、喉へ行く。止まる。止まった間に、腰の後ろから刃が来る。


来る場所も分かっていた。止まった俺の腕か、体重を預けた右の膝か。


距離が2歩になった。俺は、右の拳を出した。喉へ向けて、まっすぐに。


奈落(ならく)で1年かけて覚えた通り道だった。灰色の喉、濁った目、息の通り道。そこを潰せば、相手は止まる。


拳は、白い襟の、指2本分手前で止まった。肘は、固まっていなかった。


止めたのは、俺だった。


淡い紫色の目が、ほんのわずかに開いた。喉の前の拳を見ていた目が、俺の肘へ動いた。固まっていない肘へ。


腰の後ろから、刃が出てきた。下から斜めに、俺の右の膝へ。先を失った刃は突けない。だから、刃の縁で膝の裏の筋を裂きに来る。


俺は、それを待っていた。喉の前で止めた右の拳は、そのままにした。左手だけを下ろし、硬殻(こうかく)Lv.3の左手で、出てきた右の手首を掴(つか)んだ。


掴(つか)んだ瞬間に、分かった。強すぎた。指の中で細い骨が鳴り、黒い手袋の下で、何かがずれる手応えがあった。


イレーネの息が、1度だけ詰まった。声は出さなかった。折れた細剣が、指から離れて泥に落ちた。


殻の指は、握った強さを最後まで返してこなかった。返ってきたのは、骨がずれたという結果だけだった。


俺は、掴(つか)んだ手首を引いた。右脚を軸にして、身体を回した。イレーネの身体が、引かれた勢いのまま、俺の横を流れていった。


流れた先に、井戸の脇に並んだ洗い桶(おけ)の1つがあった。雨水を縁まで張った、重い桶(おけ)だった。イレーネの左の脇腹が、その縁に当たった。


鈍い音がした。桶(おけ)が傾き、雨水が泥の上へあふれた。イレーネは、水と一緒に仰向けに倒れた。


俺は、その上に右膝をついた。左手で、彼女の右の前腕を泥へ押さえつけた。右の拳を、喉の真上へ上げた。


白い外套(がいとう)の男たちが、石垣から飛び下りる音がした。2人とも、剣を抜いていた。石垣から井戸まで、7歩と少し。俺の拳が落ちるまでに、間に合う距離ではなかった。


イレーネは、それを分かっていた。目を閉じなかった。泥と雨水の中で、淡い紫色の目が、俺の拳を見上げていた。


喉は、晒(さら)されたままだった。今度は、晒(さら)したのではなかった。晒(さら)すしかなかった。


左手は、泥の中に投げ出されたまま動かなかった。打った脇腹を押さえようともしなかった。浅く、短い息だけが、白い喉を上下させていた。


拳の下に、それがあった。1年かけて身体が覚えたことが、全部そろっていた。止まらずに振り下ろせば、この女は死ぬ。


死ねば、もう来ない。聖都へ報告する者が、1人いなくなる。ミアの記録を読む者も、教会の地下へ俺を連れていこうとする者も、1人いなくなる。


それを、考えた。考えたうえで、拳を見た。灰色の殻に、俺の血と、この女の手袋の泥がついていた。


「殺すために、戻ったんじゃない」


拳を、振り下ろした。イレーネの耳の横の、泥へ。


拳は、手首まで泥に沈んだ。その下の敷石が、割れる手応えがあった。はね上がった泥が、イレーネの頬と、白い髪にかかった。


イレーネは、瞬きを1度だけした。俺は、泥の中から拳を抜いた。石垣の方から来ていた足音は、井戸の手前で止まっていた。白い外套(がいとう)の男たちは、剣を構えたまま動けずにいた。


「……なぜ、ですか」


イレーネが言った。声は、まだ平らだった。息だけが、浅かった。


「言った」


俺は、彼女の右腕から手を離した。


「殺すために戻ったんじゃない。帰るために、戻った」


イレーネは、何も言わなかった。しばらくして、左の手首の数珠に、親指が触れた。触れたまま、動かなかった。


「黒淵(こくえん)から戻った者は、いません」


泥の上で、彼女は言った。


「戻れる者はいないと、私は教えられてきました」


「俺は、戻った」


「はい」


淡い紫色の目が、俺から逸れた。白み始めた空の方へ。


「戻って、外しました」


それから、目を閉じた。


「記録は、します」


そのとき、職人区の方から、泥を跳ね上げて走ってくる音がした。兵だった。ミアたちを連れていった3人のうちの1人で、松明は持っていなかった。


兵は、泥の中のイレーネと、その上に膝をついた俺と、剣を構えた白い外套(がいとう)の男たちを見て、足をもつれさせた。それでも、叫んだ。


「礼拝堂の前の通りに、灰色のが回ってきた! 裏の路地から、何体も!」


俺は、立ち上がった。


「娘は」


「礼拝堂に入れた! 入れたら、あの娘が、あんたを呼んでこいって……」


兵は、喉を鳴らして息を吸った。


「西門から来た列の後ろが、まだ大通りにいる。年寄りと、子供が」


重なった声が、はっきり聞こえた。東の、大通りの方角から、少しずつずれた声の束が、低く、長く鳴っていた。群れは、鉄門から外壁区の家並みの裏を抜けて、避難の道へ回り込んでいた。


白い外套(がいとう)の男たちが、イレーネの両脇に膝をついた。1人が、彼女の肩の下へ腕を入れた。


起こされるとき、イレーネは右手を泥につこうとした。手首から先が言うことを聞かないのに気づいたように、途中で左手に替えた。左手は、そのまま脇腹へ当てられた。黒い手袋の右手は、手首から先が、少しおかしな向きに垂れていた。


「退きます」


イレーネは、男たちに言った。男たちは彼女を支え、石垣の方へ歩き出した。1歩ごとに、イレーネの息が短く切れた。


もう1人の男は、剣を抜いたまま、後ろ向きに歩いていた。刃の先が、ずっと俺の胸を向いていた。西門の大通りの角で、1度だけ目が合った男だった。


泥の上に、先のない細剣と、切れた鎖が残っていた。イレーネは、どちらにも目をやらなかった。


今なら、追いつけた。左膝が抜けかけていても、3歩で石垣に届く。白い外套(がいとう)の男2人は、俺を止められない。手首の折れた女を、もう1度泥へ倒すのに、半呼吸もいらない。


逃がせば、この女は聖都へ報告する。準備を足りるようにして、また来る。次は、1人では来ないかもしれない。ミアのことも、報告に書く。


それが分かっていて、俺は石垣を見ていた。東で、悲鳴が上がった。子供の声だった。


俺は、石垣に背を向けた。


「レイ・クロウ」


背中で、イレーネの声がした。石垣の上からだった。振り返らなかった。


「私は、聖都へ報告します。見たとおりに」


「好きにしろ」


「それから」


声が、少しだけ間を置いた。


「あの娘は、この1年、毎晩、西の窓を開けていたそうです。見張りの記録に、そうありました」


俺は、答えなかった。石垣の向こうへ、足音が下りていった。軽く、一定の間隔を崩さない足音ではなかった。1歩ごとに、途切れた。


泥の上の折れた細剣も、切れた鎖も、俺は拾わなかった。職人区の道へ、走り込んだ。


左膝が、1歩ごとに抜けそうになった。右の爪先で地面を蹴り、左は乗せるだけにした。左の踵(かかと)の上の傷が、靴の中で脈を打った。右腕の傷からは、走るたびに血が振り落とされた。


兵が、俺の後ろを走ってきた。4歩と離れてはいなかった。


職人区の裏は、どの戸も閉じていた。染め桶(おけ)を干す台が倒れ、濡れた布が道に垂れていた。その布を跳び越えるたびに、左膝の奥が鳴り、打たれた左の脇腹が重くなった。


細い道を抜けると、正面の城壁の上に、朝日の縁が出ていた。光が、まっすぐ目を刺した。涙がにじんで、通りの先が白く溶けた。俺は目を細め、音の方へ走った。


重なった声が、近くなった。何を言っているのかは、分からなかった。いくつもの声が、少しずつずれて、同じ言葉を繰り返していた。


その中から、1つの声が抜け出した。


「レイ」


俺の名前だった。少しかすれた声だった。最後の音が、細く震えて消えた。


足が、止まった。ミアは、礼拝堂に入った。兵は、そう言った。だが、あいつは1度、止められたのに聞かずに戻った。


俺は、その声を聞いた。耳の全部を使って、聞いた。かすれ方も、震え方も、洗濯場で覚えようとしたものと同じに聞こえた。


同じに聞こえることは、何の証明にもならなかった。西門の広場で、縛られた男の声の後ろにも、同じ言葉を言う声が重なっていた。


比べるものが、俺には少なすぎた。1年前までの声は、1つも残っていない。今夜聞いた数えるほどの言葉は、まだ耳に馴染んでいなかった。


それが、ミアの声なのかどうか。俺の耳は、何も答えなかった。


鈴の音は、聞こえなかった。

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