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また忘れたのか

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それでは、どうぞお楽しみください。

巨大な眼は、瞬きもしなかった。黒い瞳の奥で、赤い光が細く揺れている。俺が右へ身体をずらすと、瞳も同じだけ動いた。


床から伝わっていた振動が止まった。静かになったのではない。空間そのものが、息を止めたようだった。


次の瞬間、胸へ重さが落ちてきた。何かに押されたわけではない。目の前のものを見た身体が、勝手に膝を折ろうとしていた。肺が縮み、右手の指から力が抜けて、鎖が床へ触れた。金属音はしなかった。音まで、黒い床へ吸い込まれていた。


右足首は使えない。壁も見えない。身体を支えられるのは左脚だけだった。


膝をつけば、次は頭を下げる。理由は分からない。ただ、それだけはしてはいけないと思った。歯を食いしばって顔を上げると、首の後ろが引きつり、額の汗が目に入った。


『また忘れたのか、アルド』


声は前からではなかった。床から、天井から、胸の内側から、同時に響いてきた。低い音が骨を震わせ、脇腹の傷が開く。布の下へ、温かいものが流れた。


俺は息を押し出した。


「俺は、レイだ」


『レイ』


確かめるように繰り返したあと、闇の奥で何かが動いた。


眼の周りに、黒い輪郭が現れた。最初に見えたのは鱗(うろこ)だった。1枚が人の盾より大きく、重なった鱗(うろこ)の隙間から赤黒い火が漏れている。眼の上には長い角が伸び、先は闇へ消えていた。


竜だった。


城塞の門には、建国王が竜を討った場面が彫られていた。だが、石の像から圧力は伝わってこない。目の前のものは、呼吸のたびに床を震わせ、鼻先から漏れる熱で頬についた血を乾かしていった。


『名など、奴も何度も変えた。魂の臭いは同じだ』


「人違いだ」


『その言葉も聞いた』


黒い竜の口元が、わずかに上がった。笑ったらしい。


俺は鎖を拾い、手首へ二重に巻いた。竜の視線は、俺の腕ではなく胸元へ向いていた。記録帳を入れた革袋がある場所だった。


『今度は紙へ縋(すが)るか』


「見るな」


『見ずとも臭う。死者の恐れと、お前ではない者の執着がな』


俺は身体を斜めにして、胸元を竜から隠した。意味があるとは思えない。それでも、記録帳を正面へ晒(さら)したままにはできなかった。


『それも同じか』


「何の話だ」


『忘れた者へ語るほど、我は親切ではない』


「なら、アルドと呼ぶな」


竜は答えなかった。俺も目を逸らさなかった。


圧力が、さらに強くなった。全身の骨が軋(きし)み、左肩は腕の重さだけで外れそうになる。視界の端が黒く狭まっていった。


竜は動いていない。見ているだけだ。このまま立っていても、押し潰されるのを待つだけだった。


倒すつもりはなかった。あれが実体なら、今の俺では傷一つつけられない。確かめるだけだ。


俺は鎖を振った。鉄輪が闇を切り、竜の眼へ向かった。黒い瞳は閉じなかった。


鉄輪は、眼の直前で止まった。当たった音はない。空中へ縫いつけられたように動かず、引いても戻らなかった。


竜が息を吐いた。鎖が逆向きに引かれ、俺の身体が床を滑った。左脚で踏ん張ったが、靴底が黒い石を擦(こす)っただけだった。


竜の鼻先まで引き寄せられた。鱗(うろこ)の隙間の火が、腕を焼く距離で揺れている。鎖を放せば止まるかもしれない。だが、鎖しか武器がない。


俺は放さず、引かれる勢いに身体を預けた。残った石の鏃(やじり)を革袋から抜き、竜の鼻先へ突き出した。


鏃(やじり)は黒い鱗(うろこ)に触れなかった。指ごと、影の中へ入った。熱も硬さもない。


幻だった。


そう分かった直後、見えない力が胸にぶつかった。身体が後ろへ飛び、背中から床へ落ちた。右足が遅れて石へ当たり、足首から膝まで痛みが走った。


鏃(やじり)は手の中に残っていた。鎖も床に落ちている。竜の姿だけが、何もなかったように闇へ浮かんでいた。


刃は届かない。届かないものに、潰されることはある。それだけは分かった。


『鈍ったな』


「知っているように話すな」


『知っている』


「俺は知らない」


『だから、また忘れたのかと聞いた』


竜の声に怒りはなかった。嘲(あざけ)りとも違う。長く待っていたものが、予想どおり壊れていたと確かめたような響きだった。


右足に力が入らない。左脚と右手で身体を持ち上げても、腰が上がったところで崩れた。


竜は待っていた。魔物が獲物を弄(もてあそ)ぶときの待ち方ではない。俺が立てるかどうかを見ている。


黒い床には継ぎ目がなく、鎖を引っかける場所もない。俺は腰の水筒を外し、床へ立てた。潰れた金属へ右手を置き、体重をかける。水筒が軋(きし)んで、底の亀裂から残っていた水が流れ出た。黒い石が、それを音もなく吸っていった。


止められなかった。俺はそのまま、身体を押し上げた。


右足は床へつけない。左脚が細かく震え、右手にも力が残っていない。それでも、竜から目を外さなかった。


『弱い』


「知ってる」


『その身体で、何をしに来た』


「帰る」


『どこへ』


「ベルガルド」


『捨てられた場所へか』


俺は答えなかった。帰るのは、城塞のためでも養護院のためでもない。ミアがいるからだ。


胸元の記録帳へ、右手を置いた。顔は思い出せる。怒った目も、泣きながら俺を呼んだ声も、銀の鈴の音も残っている。


黒パンの味だけがない。


その空白に触れた瞬間、竜の瞳孔が開いた。


『喰らったか』


「何を知っている」


『僅(わず)かな力のために、また己を削った。お前は変わらぬ』


竜の声が近くなった。


『何を失った』


俺は鎖を握り直した。


「先に名を言え」


闇が揺れた。竜の顔が離れ、輪郭が広がっていく。長い首と、山のような胴。翼は片側にだけ開き、反対側には骨の根元だけが残っていた。


胸には、白い槍が刺さっていた。7本あった。槍から伸びた光の鎖が四肢と首へ絡みつき、鱗(うろこ)の隙間の火は、鎖に触れるたびに弱くなった。


目の前にいるのは、身体ではない。どこか別の場所に縛られた竜の姿が、闇に映っているのだ。


『我が名を、お前は呼んだ。敵として。盟友として。最後には、忘れたまま』


「今は知らない」


『ならば知らぬままでいろ』


竜の尾が動いた。実体のない影が、床を横切ってくる。避けようとしたが、右足が動かない。


尾は身体へ触れていないのに、横から圧力が来た。俺は床を転がった。革袋が床に当たり、中の炭筆が折れる感触がした。俺は記録帳を守ろうと、身体を丸めた。


その動きを見て、竜が止まった。


『それほど大事か』


「俺のものだ」


『お前の記憶は、お前のものではなかったか』


返す言葉がなかった。記憶も俺のものだった。誰かへ渡すと決めた覚えはない。それでも魂喰(こんじき)は、力の代わりにそれを持っていった。


この竜はそれを知っている。アルドという者も、同じ力を使ったのかもしれない。


俺は身体を起こした。


「アルドは、俺と同じなのか」


『同じではない。だが、お前の前にいた』


「どこに」


『ここに。この奈落(ならく)を下り、我の前へ来た』


「地上へ戻ったのか」


竜は答えなかった。眼の赤い光が細くなる。その沈黙で、良い結末ではなかったことだけは分かった。


「探索隊の昇降鎖は、上で切られて、落盤で埋まっていた。投下口の下は死体の山だ」


俺は竜の眼を見たまま言った。


「ほかに、上へ戻る道を知っているか」


『上』


竜が鼻で笑った。


『お前は落ちても、まだ上を目指すか』


「帰ると言った」


『ならば壁でも掻(か)いてみるか。爪が砕け、骨が見えるまで掻(か)けば、一歩くらいは上がれよう』


「壁じゃない道だ」


『ある』


俺は息を止めた。竜はすぐには続けなかった。


「どこだ」


『下だ』


「地上へ帰るのに、下りるのか」


『この穴で上下に意味があると思うな。神々が捨てたものは、底へ集まる。古い道も、古い扉もな』


探索隊の地図の裏の一文が、頭をよぎった。『上へ戻る道は閉じた。忘都(ぼうと)を目指せ』。死んだ者たちも、同じ扉を目指していたのかもしれない。


竜の輪郭が揺らぎ始めた。胸の7本の槍が先に薄れ、光の鎖が闇へ溶けていく。


「待て。忘都(ぼうと)に何がある」


『お前が地上へ戻るための扉』


「なぜ教える」


竜の顔だけが残った。巨大な眼が、俺の胸元をもう一度見た。


『確かめるためだ。今度のお前が、どこまで失えば我の前へ辿り着くか』


闇が、竜の鱗(うろこ)を呑(の)み込んでいく。俺は鎖を握り、立てないまま身構えた。


「お前は、忘都(ぼうと)にいるのか」


『我はさらに下だ』


「なら、そこで待っていろ」


赤い瞳が、わずかに見開かれた。怒ったのか、笑ったのか分からない。


『その傲慢だけは、よく残った』


圧力が消えた。肺へ一気に空気が入り、俺は咳(せき)き込んで床へ手をついた。脇腹を押さえた指の間が、血で濡れていた。


黒い床だと思っていた場所には、ひび割れた石板が並んでいた。巨大な空間も消え、周りは10歩ほどの円形の部屋に変わっている。


正面の壁に、竜の眼を刻んだ古い紋章があった。その下に割れ目が開き、奥へ下り階段が続いていた。


上へ続く口は、どこにもなかった。あるのは、下へ続くこの暗がりだけだ。


俺は右手で胸元の革袋を押さえた。記録帳の角が、布越しに指へ当たった。


そのとき、声だけが、最後に胸の奥へ響いた。


『帰りたければ、忘都(ぼうと)まで下りてこい』

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