第6話 魔王の退職面談の面接官は勇者でした 〜「死にたい」と「死なせません」が決着する前に、秘書官が扉を蹴破ってきました〜
問いかけは、静まり返った広間の空気にゆっくりと溶けていった。
ゼロスは玉座の肘掛けを握ったまま、数秒真剣に言葉を探した。
悪役として答えるなら、台詞ならいくらでも出てくる。
けれど、蒼い瞳に正面から問われると、そのどれもが急に薄っぺらく思えてしまった。
「……死にたいわけでは、ない」
「はい」
「ただ、勤務を終えたいのだ。円満にな」
「つまり、ご退職をご希望なのですね」
「そうだ」
「では、退職理由をお聞かせいただけますか」
(退職面談だ)
元保険代理店の店長として何十人もの部下の退職面談を担当してきたゼロスが、いま、勇者に面談されている。
立場の逆転に軽くめまいがした。
仕方なくゼロスはぽつぽつと話し始めた。
前の世界で働きすぎて死んだこと。
気づいたらこの玉座に座っていたこと。
転生した直後に、一度だけ「エンディングに到達すれば元の世界へ帰れる」という意味の文字を見たこと。
肝心の部分は文字化けして読めなかったこと。
そして、自分の知る筋書きなら勇者に討たれれば物語が終わるはずだということ。
「……だから、貴様に討たれるのがいちばん確実だと思った」
アリアは両手を膝に置いたまま、最後まで一度も口を挟まなかった。
しばらく黙って、それからひとつ、ゆっくりと頷く。
「……お疲れ様でした」
ゼロスは瞬きを忘れた。
前世でも今世でも、その言葉をまっすぐ向けられたのはいったい何年ぶりだろう。
胸の奥がふいに熱くなって慌てて奥歯を噛みしめた。
(泣くな、俺、悪役だぞ)
「ずっとお一人で、頑張ってこられたのですね」
「べ、別に頑張ったつもりはない。ただ放っておけなかっただけだ。部下も、領民もな」
(言い方が完全にツンデレだ、自分で聞いていて恥ずかしい)
「はい、存じております」
アリアは花がほころぶように、ふふ、と微笑んだ。
◆
「ただ、ひとつだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「……何だ」
「その『帰れる』という文言は、肝心の部分が読めないのですよね。それを根拠に命を差し出すのはリスク管理の観点から承服しかねます」
「リスク、管理」
「重要事項の欄が文字化けしている契約書には、普通は署名しないものです。魔王様もそうお考えになりますよね」
ぐうの音も出なかった。
保険屋が、重要事項説明書の不備を、勇者に的確に指摘されている。
(客の立場で俺が同じものを見たら、絶対に止める案件だ)
元プロとしての矜持が、足元からがらがらと音を立てて崩れていった。
「それに、私はこうも思うのです」
アリアはゼロスの膝の上の手を、両手でそっと包み込んだ。
「魔王様は死にたいのではなく、休みたいのではありませんか」
息が止まった。
言い返そうとして言葉が出ない。
否定したいのに、胸のどこかが「それだ」と小さく頷いてしまっている。
「休みたいのなら死ぬ必要はありません。休めばよいのです。そして魔王様は、お休みになるのがとてもお下手でいらっしゃいます」
「……下手、とは何だ」
「倒れるまで休まない方に、死なずに休む方法は分かりませんから、今度は私が休ませて差し上げます」
「余計な世話だ。我は魔王だぞ。勇者の看病など受ける筋合いはない」
「お断りします」
「だから、なぜ貴様が断るのだ」
「魔王様の健康管理は、私の決裁事項ですので」
先ほどの台詞が律儀に戻ってきた。
(決裁権を取り戻す方法を誰か教えてくれ)
◆
ふと、ゼロスの目がアリアの右袖に留まった。
さっきの筋損傷の赤が、まだじわりと滲んでいる。
「……腕を出せ」
「え」
「その傷は放っておけば化膿する。そうなれば我の腕も腫れる。迷惑なのだ、断じて貴様のためではない」
「魔王様が、手当てを」
「勘違いするな、あくまで自己防衛だ」
アリアは目をきらきらと輝かせて、おずおずと右腕を差し出した。
ゼロスは懐から今朝の余りの包帯を取り出し、不器用な手つきで巻き始める。
店長時代の研修で習った応急処置が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
それにしても細い腕だった。
この腕で聖剣を握り、人類の期待を背負わされ、二か月も歩いてきたのかと思うと、包帯を巻く手が無意識に優しくなる。
「……きつくはないか」
「いいえ、ちょうどいいです。魔王様の手当て、とても丁寧で嬉しいです」
「ふ、ふん、これくらい、管理職の嗜みだ」
アリアは巻かれた包帯を左手で大事そうに撫でて、ほくほくと呟いた。
「これはもう、一生外せません」
「外せ、衛生上の問題がある」
「では洗って、また巻いていただけますか」
「…………」
(なんだ、この会話は。ほとんど新婚じゃないか。いや待て違う、断じて違う)
ゼロスが赤くなった耳を隠すために顔を背けると、アリアはきりっと背筋を正して真面目な顔に戻った。
「魔王様、ここからはご提案です」
「……聞こう」
「討たれる件は一度保留にして、私にお体を診させていただけませんか。そのためにしばらくこの城に住まわせていただきたいのです」
「住む、だと」
「はい、同居です」
きっぱりと言い切られて、ゼロスは口をぱくぱくさせた。
断る理由なら山ほどあるはずなのに、ひとつとしてまともな文章にならない。
勇者と同居、魔王城で。しかも相手は十七歳の少女である。
(事案だ、どう考えても事案だ。いや看病、これは看病、しかし)
扉の向こうから言い争う声が聞こえてきたのはその時だった。
◆
「ガルド、どきなさい」
「ですが軍団長、魔王様は『誰ひとり入れるな』と」
「それは『誰ひとり』のことです。私は第一軍団長、つまり誰ひとりではなく、ひとりです!」
「そ、それは屁理屈では」
「屁理屈ではなく論理です!」
(解釈を広げすぎだ、リリティア)
ゼロスとアリアは、同時に扉のほうを見て、そして同時に顔を見合わせた。
扉が破られるまでおそらく三秒もない。
血の染みがあり、使用済みのハンカチがあり、聖剣が転がっているこの惨状を今から原状回復しなくてはならなかった。
「魔王様、分担を決めましょう」
「聞こう」
「床と布は私がお顔は魔王様ご自身でお願いします」
「承知した」
打ち合わせは一秒で終わった。
アリアはつま先で赤絨毯の端を器用に蹴り上げて、窓際の血の染みの上へふわりと被せる。
赤い絨毯の下なら、赤い染みはまず目立たない。
続けて、床に散らばっていた八枚の使用済みハンカチを素早くかき集めて腰のポーチへ押し込んだ。
その間にゼロスは袖口で口元を拭い、玉座に深く座り直し、頬杖をついて最高に悪そうな顔を作る。
アリアが仕上げに、肩のマントの前をきゅっと整えてくれた。
所要時間は、二秒半。
(共犯だな、これは)
胸のどこかがくすぐったくなった。
三年間、ひとりでやってきた隠蔽が二人になっただけでこんなにも軽くなるとは思わなかった。
その瞬間、玉座の間の扉が轟音とともに蹴破られた。
「魔王様ーっ! ご無事でございますかーっ!」
蝶番が吹き飛び、スリット入りのスーツ姿の秘書官が片足を高く上げた体勢で飛び込んでくる。
その背後からガルドを先頭に兵たちが雪崩を打って押し寄せ、見事なひと山を築いた。
山のてっぺんには料理長のマルガがいて、おたまを握ったまま「あらあら」と目を丸くしている。
リリティアは足を上げたままぴたりと固まった。
視線の先にあるのは、赤絨毯の上に転がる聖剣と、玉座に座る魔王と、その足元に膝をつく勇者と、魔王の肩に掛かった勇者の白いマントである。
しかも勇者は魔王の手を握ったままだった。
「聖剣が、本当に落ちている!」
「魔王様が勝ったんだ。勝って、勇者を従えたんだ!」
「手を握らせているぞ、これが降伏の作法か!」
兵の山がざわざわと勝手な解釈を広げていく。
(違う、断じて違う)
「…………魔王様」
リリティアの声が低く震えていた。
尻尾の先のスペードが、ぴん、と鋭く尖っている。
「そちらの勇者殿が、なぜ、魔王様のマントをお召しになっているのでしょうか」
「それは、その」
「しかも、お手を握っておられるように見えますが」
「いや、これは」
ゼロスが口を開くより早くアリアがすっと立ち上がって、品よく一礼した。
「お初にお目にかかります。アリア・ヴァンガードと申します。魔王様のお体について少々お話をしておりました」
「お、お体ですって」
リリティアの顔がみるみる茹でたように赤くなった。
金色の猫目がぐるぐると渦を巻く。
「お体のお話とは、まさか、お体を、診……いえ、見……いえ、そのような、ふ、不埒な!」
「リリティア、落ち着け。勇者は我の体調を」
「魔王様は、お黙りください!」
(ここでも目は合わせてくれないんだな)
リリティアはゼロスのほうを一瞥もせず、一直線にアリアを指差した。
「魔王様を籠絡しようなど、この泥棒猫!」
「泥棒だなんてとんでもありません」
アリアは穏やかな笑顔のまま、小首をかしげる。
けれど蒼穹の瞳には、星のような光がひとかけらも残っていなかった。
「お預かりしているだけです。ご安心ください、責任を持って」
「責任を持つ、ですって!?」
「はい、お食事と睡眠と、お体の管理まで毎日きちんと」
「お世話は私の役目です!」
「では、ご一緒にいかがでしょうか」
「ご一緒、ですって!?」
二人の間で見えない火花が、ばちばちと音を立てて散った。
兵の山が固唾を呑んで見守っている。
マルガだけは、おたまを持ったまま「あらあら、賑やかになるわねえ」と楽しそうに微笑んでいた。
(……誰か、会議室を押さえてくれ)
ゼロスは玉座の上で、ひとり静かに天井を仰いだ。
討たれて円満退職するはずだった一日目は、予定を完全に裏切って、どうしようもなく、にぎやかに幕を開けようとしている。
左肩の痛みは気づけば少しだけ和らいでいた。
その代わりに、これから毎日が静かには終わらないという予感だけが確実に胸に積もっていった。




