第5話 勇者が今朝の吐血の順番を一字一句当ててきた 〜最短で来た理由は、魔王の労災を一日でも減らすためでした〜
先に動いたのはゼロスのほうだった。
ただ、動いたといっても、アリアの腕の中から抜け出そうとしてあっさり失敗しただけである。
さっきの変質で何倍かに跳ね上がったらしい勇者の腕力は、五十代の元店長が藻掻いたところでびくともしなかった。
「……何のことか分からぬな」
ゼロスは、悪役の声を最後の意地で絞り出した。
「全部知っている」と言われた直後にまだ知らぬふりを続けるのは、前世のクレーム対応でも例のない粘りである。
「貴様が何を勘違いしているかは知らぬが、これは断じてトマトジュースだ」
「はい、承知しております。ではそのトマトジュースの件も含めて、順番にご説明しますね」
アリアは少しも動じず、ゼロスの手を引いて玉座の段差まで導いた。
断ろうとしたのに、握られた手の温かさに気を取られて、足のほうが勝手についていく。
肩に掛けられた白いマントが、歩くたびにふわふわと揺れた。
玉座に座らされたゼロスの前で、勇者は赤絨毯の上へ、ちょこんと膝をつく。
魔王を見上げる勇者という構図は、字面だけなら降伏の儀式に見えなくもないが、実態はどう見ても容態を確かめる看護師だった。
「要点は三つです。ひとつ目は私の目のこと。ふたつ目は魔王様のお体のこと。みっつ目は私がここへ来た理由です。ご質問は最後にまとめてお受けしますね」
(説明会だ、完全に社内説明会の進行だ)
扉の向こうでは、いつの間にか「魔王様! 魔王様!」のコールが始まっている。
勝利の凱歌を背景音に、元社畜の魔王が勇者から議事進行を受けているのはなかなかの地獄絵図だった。
◆
「私の目は勇者の特異体質で、隠されたステータスや呪いの出どころが線として見えるのです」
アリアは自分の目元を、人差し指でとんとんと示した。
(……そういえば、原作にそんな設定があったな)
ゼロスの背中を、冷たいものが這う。
隠し扉を見つけるための便利機能で、ストーリーの本筋には一切関わらない、ただの脇役の能力だったはずだ。
ステータス画面にも出ない隠しパッシブだから、誰にも見破られないと高をくくっていたのにあの目だけは例外だったのか。
「二か月前に旅を始めた日、私は小さな裂傷を負いました。その傷から細い線が一本伸びて、北の空の彼方まで繋がっていたのです」
アリアはほんのり頬を染めてくすりと笑った。
「赤い糸のようで、ちょっとだけ運命的でした」
(運命の糸じゃない、労災の請求書だ)
ゼロスは心の中で全力で訂正した。
「その糸を辿って魔王領に入ったら、もっと驚きました。空気が澄んでいて、村では子供たちが笑って遊んでいて、その澄んだものすべてから、細い線が伸びて魔王様ひとりに繋がっていたのです」
アリアの声が、そこで少しだけ低くなった。
「魔族の瘴気を、全部ひとりで引き受けておられること、顔を覚えた方々の傷や疲れを全部肩代わりしておられること、山を壊すたびに反動で命を削っておられること、最初から全部見えておりました」
(……全部、見えていたのか)
三年かけた隠蔽工作の隙間から、いちばん奥にあったものまですべて見通されていたのだ。
ゼロスは玉座の肘掛けを握る手に、力を入れた。
せめて、最後の抵抗くらいは試みたい。
「ふ、ふん、口では何とでも言える。本当に見えているというなら、今朝の我の痛みを順番に言ってみせよ」
「承知しました」
即答だった。
アリアは背筋を伸ばし、ゼロスの目を見てすらすらと答え始めた。
「夜明けごろ、いちばん太い線が一度だけ大きく脈打ちました。胸の奥の慢性の痛みで、これは呪縛由来です。起きてすぐでしたので寝台の上かと思いますが、そこで咳き込んでハンカチを一枚お使いになりましたよね」
「…………」
「そのあと、細くて熱い線が左肩へ、これは私が昨夜の野営地近くで、岩場に左肩を引っかけて裂いた傷です。そして広間では、山を消された直後に全身を貫く太い線が脈打って、お使いになったハンカチは八枚、最後に私が右腕を押さえていた時に、右腕に細い線が一本」
一字一句、当たっていた。
(寝台の上、という推測まで合ってるじゃないか。検算が完璧すぎる)
ゼロスの顔色が、いつもの不健康な青白さから、さらに一段階薄くなった。
アリアは、そんな彼の顔をのぞき込んで、小首をかしげる。
「魔王様、耳が赤いです、熱があるのでは」
「これは、断じて熱ではない」
「失礼しますね」
小さな掌が、ぺたりとゼロスの額に触れた。
(近い、さっきから近い。距離感が壊れている)
熱はないとアリアは真顔で告げたが、耳はもうしばらく赤いままだった。
◆
「みっつ目は、私がここへ来た理由です」
アリアは膝をついたまま、背筋を正した。
「私が怪我をするたびに、魔王様に痛みが届くと私は旅の初日に気づきました。ですから二つのことを決めたのです、ひとつは戦いを避けて、できるだけ傷を負わないこと。もうひとつは最短の道で魔王様のところへ着くことです」
「……それで、岩場を近道したのか」
「はい、崖を一本、まっすぐ越えました、その時に肩を引っかけてしまってご迷惑をおかけしました」
しゅん、とアリアは眉を下げた。
(ショートカットが原因だったのか、あの傷は)
今朝からずっと疼いていた左肩の痛みの出どころがまさかの近道だったことにゼロスは複雑な気持ちになった。
だが、彼女の次の言葉は、さらに予想外だった。
「睡眠は毎晩、必ず六時間とりました、過度の疲労も魔王様に届いてしまいますので、無理をして急ぐのはかえってご負担になるのです」
(勇者が労務管理をしている、うちの人事部より優秀じゃないか)
ゼロスは、思わず感心してしまった。
二か月間、足を止めなかったという噂の裏には、こんな計算された行軍があったのだ。
「魔王様のお体が一日でも長く傷まないように、一日でも早くお会いしてお体を診られる場所に立ちたかったのです、それが私の理由です」
声は穏やかなままだった。
けれどその手は、ゼロスの膝の上でぎゅっとスカートの裾を握りしめている。
視線を落とすと、右の袖口にさっきの筋損傷の赤がにじんでいた。
「その腕はまだ手当てをしていないのか」
「これは大した傷では」
「アリア、無茶をするな。あんなに自分の腕を壊しておいて」
言ってしまってから、ゼロスは固まった。
悪役としては「勇者」と呼ぶべきところで、素の呼び方が口をついて出たのだ。
アリアは目を見開いたまま、数秒完全に動きを止めた。
そしてゆっくりと両手で口元を覆い、頬から耳までみるみる真っ赤に染まっていく。
「……今、お名前で」
「違う、これは言い間違いだ。勇者、そう勇者と言ったのだ」
「もう一度お願いできますか」
「断る」
「では録音の魔道具を」
「やめろ」
ふにゃり、と笑う勇者の表情はさっきまで聖剣を投げ捨てていた人間とは別人のように無防備で愛らしかった。
その顔を見て、ゼロスは心の奥の何かがほんの少し緩むのを感じてしまった。
(いかん、情が移るのはまずい)
討たれる予定の相手に、これ以上の情を持ってはならない。
前世で解雇予定の部下の誕生日を覚えてしまった時の苦い記憶がふとよみがえった。
◆
「それと、もうひとつだけ、ご報告があります」
アリアは頬の赤みを残したまま、少し改まった顔に戻った。
「さきほど、私のスキルが、【聖剣の加護】から【聖なる献身】という名前に書き換わりました。読み仮名がなぜか、ヤンデレ・ホーリーとなっていて、意味がよく分からないのですが」
「ぶっ」
ゼロスは玉座の上で思い切り咳き込んだ。
(ヤンデレ、だと? どこの誰が名前を付けたんだ、運営の悪ふざけか)
前世の記憶が、いやな方向で最大限に役立っている。
アリアは、きょとんとしたまま、無垢な瞳で問いかけた。
「魔王様はご存じですか、ヤンデレとは何でしょうか」
「……知らぬ」
「そうですか、残念です」
(説明できるわけがない、愛が重い人のことだ、などと)
ゼロスは顔を逸らして視線を泳がせた。
魔王様、耳が赤いです。とアリアが再び心配そうに言ったが聞こえないふりを貫いた。
◆
ひとしきりの説明を終えると、広間には妙な静けさが降りた。
扉の向こうの「魔王様コール」だけが、どこか遠くでまだ続いている。
アリアは一度だけ深呼吸をして、まっすぐにゼロスを見上げた。
「ご質問をお受けします、何かございますか」
ゼロスはしばらく黙っていた。
聞きたいことなら山ほどある。
どうしてそこまでして来たのか、いつから本気で。
だが、口から出たのはまったく違う言葉だった。
「……貴様は、我に討たれるために来たのではないのか」
「いいえ」
「ならば、なぜ、剣を持ってきた」
「魔王様を、お守りするためです。それが人類の上層部の方々に、私が剣を預けられた本当の意味だと思っておりますので」
穏やかに言い切ってから、アリアはほんの少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「ですが一つだけ、どうしても分からないことがあります」
「……何だ」
「あの山は私に剣を抜かせるための挑発でしたよね。魔王様は私に討たれたかったのですよね」
図星だった。
ゼロスは咄嗟に否定の言葉を探したが、喉の奥で、ひとつも形にならなかった。
アリアは膝の上で両手をそっと重ねると、ハイライトのない蒼穹の瞳でまっすぐにゼロスを見つめた。
「どうして、そんなにも死にたいのですか」
その問いに答える言葉を、ゼロスは持っていなかった。




