第4話 勇者は聖剣を捨てて、血まみれの魔王を抱きしめた 〜三年かけた隠蔽工作は、「全部、知っています」の一言で崩壊しました〜
かちり、と小さな金属音が静まり返った広間にやけに大きく響いた。
(来る、のか?)
ゼロスは口の中の血を飲み下して身構えたが、聖剣の留め金を外したはずの当の本人がきょとんとした顔で自分の右手を見下ろしている。
「……今のは私ではありません」
「は?」
「私の手が私の意志とは関係なく動きました」
アリアの右手がひとりでに聖剣の柄を握りしめていた。
指の関節が白くなり、細い腕が人形のようにぎこちない角度で持ち上がって鞘から滑り出した刀身が朝の光を弾きながら、ゆっくりとゼロスのほうを向く。
(原作どおりの動きだ)
ゼロスは直感で理解した。
原作の勇者はこの場面で必ず剣を抜く。
物語をあるべき結末へ押し進める不可視の何か、強制力とでも呼ぶべきものがいま彼女の腕を引いているのだ。
アリアは剣を握らされた自分の右腕を真顔でじっと見つめた。
「腕さん、聞こえていますか」
「……腕、さん?」
「勝手に動くのはマナー違反です。持ち主への報連相がなっていません。今すぐ止まってください」
(腕に説教を始めたぞ、しかも報連相って、お前は前世の俺か)
当然ながら右腕は止まらなかった。
アリアは視線をふと天井のほうへ向けてにこやかに付け加えた。
「それとどなたか存じませんが、人の腕を無断でお使いになるのは今後おやめください。次は正式に苦情を申し上げます」
(見えない相手にクレームを入れ始めたぞ。この子の苦情窓口はいったいどこに繋がっているんだ)
切っ先が少しずつ上がり、ゼロスの胸の高さでぴたりと静止する。
アリアは穏やかな微笑みを少しも崩さないまま、額にうっすらと汗を浮かべていた。
◆
(今なら、一歩前に出るだけで終わる)
ゼロスの頭の隅を、その考えがよぎった。
勇者の剣に自分から歩み寄れば、討伐は成立し、退職は完了し、痛みからも解放される。
だが足を踏み出そうとした瞬間アリアが短く声を上げた。
「動かないでください、魔王様」
初めて聞く、少しだけ強い声だった。
「今、腕を説得している最中ですので少しだけお待ちください」
(説得、できるのか、それは)
その直後だった。
ぶつり、と何かが切れる感覚がゼロスの右腕に走った。
(……っ、痛っ、何だ、右腕が)
思わず自分の腕を見下ろしたが、傷はない。
顔を上げると、アリアの白銀の袖口から、細い赤い筋が一本、ぽたりと床へ落ちていた。
聖剣を握らされた腕を彼女は自分の筋力で無理やり押さえつけている。
筋繊維が悲鳴を上げて裂けているのが、同じ場所の痛みとなってゼロスにそのまま伝わってきているのだった。
(この子は、自分の腕を壊しながら、止めているのか)
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
右腕の痛みよりも、そちらのほうがはるかに堪えた。
討たれたいはずなのに、斬れと言えない自分がいる。
それでもゼロスは、悪役の仮面を貼り付けたまま低く言い放った。
「愚かな、運命には逆らえぬぞ勇者よ、さあ斬れ、それが貴様の使命だ」
「お断りします」
即答だった。
「魔王様のご命令でもお断りします」
蒼穹の瞳はハイライトの消えた深い青のまま、それでもまっすぐにゼロスだけを見つめている。
その手の震えが一段と大きくなった。
刀身が胸の前で小さく揺れる。
(頑固すぎる、いや、この頑固さはどこかで見たことがある。鏡の中でだ)
◆
ざ、と耳の奥で、砂嵐のような音が鳴った。
ゼロスにしか聞こえない、世界のほうが軋むような雑音だった。
(……何だ、これは)
その瞬間、聖剣の輝きが変わった。
白金に澄んでいた光がにじむように熱を帯び、深い薔薇色へと染まっていく。
アリアの足元の黒曜石に蜘蛛の巣のようなひびが走り、彼女の金髪が風もないのにふわりと浮き上がった。
(原作にない輝きだ。スキルが書き換わったのか)
砂嵐のノイズが、ざざ、ざざ、と続いている。
原作の筋書きがどこかで確かに外れた音だった。
アリアの右腕を操っていた見えない力が、薔薇色の光に押し返されるようにぷつりと途切れる。
自由になった右手が、聖剣を握ったままゆっくりと下がった。
アリアは剣を見下ろし、それからあっさりと手を開いた。
からん、と乾いた音を立てて聖剣が赤絨毯の上に転がった。
「…………捨てたな」
「はい、捨てました」
世界に一本の聖剣を、飴玉の包み紙でも捨てるような軽さで落としてアリアは顔を上げた。
その音を合図に、扉の向こうからどよめきと歓声が同時に爆発した。
「聖剣の落ちる音だ!」
「魔王様が勇者の聖剣を叩き落とされたぞ!」
「さすがは魔王様だ、一撃も受けずに勝負を決められた!」
(違う、断じて違う)
ゼロスは心の底から否定したかったが、そんな余裕は一秒も与えられなかった。
アリアが、次の瞬間、ゼロスの視界から消えたからである。
◆
ふわり、と柔らかなものが胸に飛び込んできた。
十メートルはあった距離を彼女は一瞬で詰めたのだ。
金髪が頬をくすぐり、細い腕が背中へ回って、血まみれの軍服ごとぎゅうっと抱きしめられる。
ほのかに休憩所のお茶の香りがした。
(近い、近い近い近い、柔らかい、いや待て)
ゼロスの思考が完全に停止した。
(俺は精神年齢五十代、彼女は十七歳、ほとんど娘だ。血まみれで娘に抱きつかれる父親、いやそれはそれで事案だ)
混乱のあまり、まったく役に立たない自己分析が頭の中を駆け巡る。
その間に、アリアは少し背伸びをしてゼロスの手を両手で包み込んだ。
「魔王様、お体、冷えていませんか?」
声は、さっきまでとまったく変わらない穏やかな丁寧語だった。
ただその手は温かく、そしてかすかに震えていた。
「こんなにお手が冷たいです。お顔の色も悪いです。早く温めないと」
「ふ、ふん、これは血ではない」
ゼロスはかろうじて悪役の声を絞り出した。
「トマトジュースだ」
「トマトジュースにしては鉄の匂いが濃すぎます」
あっさり却下された。
「ええと、まずお体を温めるのが先ですね」
アリアは自分の白いマントを外すと、ふわりとゼロスの肩に掛けてきゅっと前を合わせた。
マントにはまだ彼女の体温が残っていて、ほのかに甘い匂いまでする。
(待て、これは敵に着せられていい代物じゃない、それ以前に魔王が勇者のマントを羽織っている絵面がシュールすぎる)
「離れろ勇者、こんな真似は許さんぞ」
「お断りします」
「貴様はさっきから断ってばかりではないか」
「はい、魔王様に関することはすべて私の決裁事項ですので」
(俺の人生の決裁権がいつの間にか移管されていたのか)
言い返す前に、アリアはポケットから小さく刺繍の入った清潔なハンカチを取り出して、ゼロスの唇の端にそっと当てた。
血を拭うその手つきは驚くほど慣れていて、優しかった。
「八枚もお使いになったのですから足りなくなって当然です。数えておりました」
(数えてたのか、あの短時間で)
管理職の在庫管理を、勇者に突っ込まれる日が来るとは思わなかった。
いや、問題はそこではない。
アリアはハンカチを持った手を止めてまっすぐにゼロスを見上げた。
ハイライトのない蒼穹の瞳が、潤んで、細められている。
そこから一粒だけ、涙が落ちた。
それは頬を伝って、ゼロスの黒い軍服の胸元に小さな染みを作った。
「魔王様」
「……何だ」
「もう隠さなくて大丈夫です」
アリアは涙をこぼしたまま、花が咲くように微笑んだ。
「全部、知っています。最初から」
玉座の間に完全な静寂が降りた。
(……全部?)
吐血も、肩代わりも、討たれたい本音も、三年かけた隠蔽工作の何もかもを、この子は最初から。
(俺の完璧な計画はいったい何だったんだ)
ゼロスは血まみれの顔のまま、勇者の腕の中でただ石のように固まるしかなかった。
遠くで砂嵐のようなノイズがまだ小さく鳴り続けていた。




