第3話 魔王の一撃で山は消えたが、ハンカチ八枚では足りなかった 〜勇者の瞳から光が消えたのは、たぶん気のせいではない〜
「舞台、ですか」
アリアは小首をかしげたまま、ゼロスの視線を追って窓の外へ目を向けた。
ポニーテールがさらりと肩を滑り、白銀の騎士装束が朝日をはね返してきらきらと光る。
窓枠の位置が少し高かったらしく、彼女は小さくつま先立ちになって地平線のほうをのぞき込んでいた。
(悪の城の窓辺に聖画が紛れ込んだような絵面だな、隣に立っている俺のほうが完全に通報される側だ)
「あの山が見えるか、勇者よ、あれを我が一撃で消し飛ばしてくれよう。それでも剣を抜かぬというのなら好きにするがいい」
地平線の手前に、ぽつんとひとつ緑の濃い大きな山がそびえている。
原作では背景に描かれていただけの何の変哲もない無人の山だ。
ちょうどいい、とゼロスは思った。
「山を、消すのですか」
アリアは目をぱちぱちとさせてから、真面目な顔でゼロスを見上げた。
「魔王様、念のためにお尋ねしたいのですが、破壊の前の周辺確認と近隣への告知はお済みでしょうか。山頂に登山の方がいらっしゃったり、麓で昼寝をされている方がいらっしゃったりしたら大変なことになってしまいますので」
(それは今からやるところなんだ、というか、勇者に安全管理の指導を受ける魔王って何なんだ)
ゼロスは悪役の笑みを崩さないまま、内心で盛大に頭を抱えた。
「ふ、ふん、我を誰だと思っている。手抜かりなどあるものか」
◆
そう言った手前、確認をしないわけにはいかなくなった。
ゼロスは窓の外へ向き直ると、魔力を細い糸のように山の隅々まで走らせながら、悪役らしい重々しい仕草で右手の人差し指を一箇所ずつ順番に差していく。
「東の斜面、人影なし、西の谷、人影なし、北の尾根、猟師の昼寝なし、山頂、登山者なし」
最後に小さな声で付け足した。
「……ヨシ」
前世の現場で叩き込まれた指差呼称である。
爆破作業の前にこれをやらないと落ち着かないのだ。
ふと横を見ると、アリアがゼロスのすぐ隣で同じように小さな人差し指を窓の外へ向けていた。
「魔王流の儀式なのでしょうか、私もご一緒してよろしいですか」
「いや、これは儀式では——」
「東、ヨシ、です」
きりっとした顔で、窓の向こうを指差している。
つま先立ちのまま、真剣そのものの表情でひとつずつ確認していく姿が妙に愛らしかった。
「西、ヨシ、です、北、ヨシ、です、山頂も、ヨシ、です、これでよろしいでしょうか、魔王様」
「……なぜ敵の儀式に付き合うんだ、貴様は」
「お役に立てるかと思いまして」
にこ、と花が咲くように微笑まれてゼロスは次の言葉を見失った。
(可愛いな、いや待て、決戦中だぞ。俺は何を考えているんだ)
咳払いでごまかしてゼロスは最後の仕上げに取りかかる。
山に向かって、低く地を這うような威圧をひとつ放ったのだ。
遠い山肌から鳥の群れが一斉に飛び立ち、茂みの中を鹿の群れが慌てたように麓へ駆け下りていく。
「わあ、みんな逃げていきますね、魔王様はやっぱり——」
「やっぱり、何だ」
「いえ、何でもありません」
アリアは両手で口を押さえて、くすくすと肩を揺らした。
(事前周知完了だ、これで山の中はたぶん空っぽだろう)
ゼロスは懐に手を入れて新品のハンカチの束を確かめた。
今朝のうちに用意しておいた八枚で、決戦用の安全在庫としては十分すぎるはずだった。
これまでの反動は一回でせいぜい三枚で済んでいる。
(八枚あれば、倍以上だ。在庫管理は万全だな)
その見積もりが致命的に甘かったことを彼はまだ知らない。
◆
ゼロスは窓に向かって右手を掲げ、魔王位に紐づく権能の名を呼んだ。
「【絶対魔創】」
広間の空気がずしりと重くなる。
足元の黒曜石が低く唸り、窓の外の空が、一瞬で夕暮れのような暗さに沈んでいく。
掲げた掌の先に、黒と金の魔法陣が幾重にも重なって開き、遠い山の輪郭が、陽炎のように揺らぎ始めた。
「消えよ」
その一言で、山が消えた。
爆発も轟音もなく、まるで最初から描かれていなかった絵を消しゴムでそっと拭い取るように緑の巨体が地平線の上から音もなくほどけていく。
あとに残ったのは、平らな大地ときらきらと舞い落ちる魔力の粒だけだった。
扉の向こうから地鳴りのような大歓声が聞こえてくる。
「魔王様ーっ! 魔王様ーっ!」
「外の皆さんが、とてもお喜びのようですね」
アリアは目を丸くしたまま、ぱちぱちと小さく拍手をして、はっとしたように手を引っ込めた。
「あ、すみません、つい、あまりに鮮やかだったもので」
(敵の必殺技に拍手するな、緊張感が死ぬ)
とはいえ、ここまでは台本どおりだった。
あとは決め台詞を残して勇者を挑発するだけである。
「どうだ、これが魔王の力だ。これでもまだ剣を抜く気にならぬか——」
その瞬間だった。
胸の奥で、真っ赤に焼けた鉄の塊が内側から弾け飛んだ。
◆
痛い。
という言葉ではまるで足りなかった。
骨がきしみ、内臓がひっくり返り、全身の血管が一斉に逆流を始める。
山ひとつ分の創造と破壊の代償が、いままでで最大の規模でゼロスの体を内側から食い破りにかかっていた。
(……っ、ここで、倒れるな)
ゼロスは奥歯を噛みしめ、窓のほうへくるりと背を向けるふりをして懐からハンカチを引き抜いた。
一枚目を口に当てた瞬間熱いものが喉を駆け上がる。
白い布はあっという間に真紅へ染まった。
(まだだ、二枚目)
一枚目を握りつぶし、二枚目を押し当てる。
赤い滴が指の隙間からこぼれて、黒曜石の床にぽたぽたと落ちた。
(三枚目、四枚目、頼む、止まってくれ)
五枚目、六枚目、七枚目。
血は止まる気配を見せない。
最後の八枚目を口に押し当てながら、ゼロスの頭の片隅にある管理職が冷静に報告を上げてきた。
(在庫切れだ。需要予測を完全に見誤った。安全在庫は倍にしておくべきだった)
枚の布を握った拳の隙間から赤が止めどなくあふれ、足元にじわりと広がっていく。
隠し通すはずだったものが、もう隠しきれない量に達していた。
「ふ、ふふ、見事な眺めであろう、勇者よ」
声は震えていなかったと思う。
たぶん震えていなかった。
唇の端から赤い糸を垂らしたまま、ゼロスは最高に悪そうな笑みを浮かべてゆっくりと振り返る。
そこで、息が止まった。
アリアはさっきと同じ場所に立っていた。
穏やかな微笑みも、そのままだった。
だが、ほんの数秒前まで星のように瞬いていた蒼穹の瞳から、光だけがすうっと抜け落ちていた。
底の見えない深い青が、まっすぐにゼロスだけを見つめている。
「……魔王様」
声のトーンは、さっきまでと少しも変わらない。
なのに、広間の温度が、確かに二、三度下がった気がした。
そのとき、彼女の右手が、腰の聖剣の留め金にゆっくりと触れた。
かちり、と小さな音がして留め金が外れる。
(来た、ようやく戦う気になって——いや、待て)
ゼロスの背筋を冷たいものが這い上がった。
(あの顔は、俺を斬りに来た人間の顔じゃない、もっと別の何か、だ)




