第2話「待ちわびたぞ」と言ったら「ご無事でしたか」と返された 〜討たれに来たはずの勇者が、戦いませんと宣言しました〜
決戦の相手に最初にかけられた言葉が「ご無事でしたか」だった魔王は、おそらく歴史上ゼロスが初めてだろう。
その一分前まで、彼はまだ完璧な悪役だった。
「ガルド。勇者が入ったら扉を閉めよ。我が許すまで誰ひとり入れてはならぬ。何が聞こえても、だ」
「はっ! ……何が聞こえても、でございますか?」
「何が聞こえても、だ」
吐血の音まで部下に聞かれてはたまらない、というのが本音である。
ガルドは何かを悟ったように目を潤ませ「ご武運を!」と深く頭を下げて扉の外へ下がっていった。
(なぜ、毎回そこで泣くんだ)
ほどなく広間の入り口が静かに開いた。
城門から玉座まで続く赤絨毯の上を、白銀の騎士装束をまとった少女がゆっくりと歩いてくる。
輝く金髪を高い位置で結び、蒼穹のような青い瞳に星のような光を宿した十七歳の勇者アリア・ヴァンガードだった。
腰の聖剣は鞘に収まったまま、しかも留め金まできちんと掛けられている。
どう見てもこれから戦う人間の装備ではなかった。
(本当に、抜いてない)
ゼロスは玉座の肘掛けに肘をつき、頬杖のまま足を組んで威圧感を最大に引き上げた。
そして昨夜三時間かけて決めた台詞をできるだけ低い声で響かせる。
「待ちわびたぞ、勇者よ」
完璧だ。
抑揚も間も、リハーサルどおりの出来だった。
ところがアリアは足を止めたまま、ぱちりと瞬きをした。
そして青い瞳でゼロスの顔から足元まで、順番にゆっくりと視線を滑らせていく。
まるで、検品するように。
それから彼女はほっと息を吐いて、胸の前でそっと手を合わせた。
「……ご無事でしたか」
静寂が、玉座の間に落ちた。
(……ご無事、でしたか?)
魔王に向かって決戦の第一声がそれなのか。
一瞬だけ新手の挑発なのかと疑った。
「まだ生きていたのか」を丁寧語に直すとこうなるのかもしれない。
だが、彼女の声音も表情もどこまでも真っ直ぐに安堵していて皮肉の影など微塵もなかった。
「……ふん。ご無事とは笑わせる。我を誰と心得る。魔王ゼロス・ルシフェリアであるぞ」
「はい、存じております。魔王様」
アリアは穏やかに微笑んで、丁寧に一礼した。
初手の台詞が不発に終わったゼロスは肘掛けの下でそっと拳を握る。
(俺の台本は十二稿も書いたのに)
◆
「それから、あの……赤い絨毯と案内板、とても助かりました」
アリアは小さく首を傾げて、続けた。
「迷わずに来られましたし、休憩所では温かいお茶までいただいてしまって。
兵の皆さんもとても親切でした」
「…………」
(接待だ。あれは完全に、接待だ)
ゼロスの背中を冷たい汗が伝う。
本当に休憩所を作ったのか、リリティアは。
しかも勇者本人が律儀にお茶をいただいていったのか。
「勘違いだ」と叫びたい気持ちを、口の端を吊り上げた悪役の顔の裏に無理やり押し込めた。
「……我が配下のもてなしだ。心して味わうがよい」
「はい。とても美味しかったです。ごちそうさまでした」
(礼儀正しすぎるんだよ、この勇者は)
決戦の前に魔王軍のお茶を残さず飲んで帰る勇者など、原作には存在しない。
ゼロスは咳払いをひとつして、予定の進行へ強引に戻すことにした。
「貴様は、我を討ちに来たのであろう。ならば聖剣を抜け、勇者よ。最後の戦いを始めようではないか」
これで舞台は整った。
第一形態の戦闘が始まり、勇者が勝ち、第二形態を経て、ゼロスは討たれる。
十二稿の台本はここまで完璧に進んでいるのだ。
ところがアリアは静かに首を横に振った。
「申し訳ありません、魔王様。私は戦いません」
「…………何?」
「剣も抜きません」
にこにこと、穏やかな笑顔のままで言い切られた。
ゼロスは玉座の上で数秒固まってしまった。
「……待て。何を言っている。
貴様は勇者だ。我を討つことが、貴様の使命であろう」
「はい。ですがそれは私の使命ではなく、人類の上層部が決めた使命です。私は私の意志でここに参りました」
その言葉にほんの少しだけ温度の低いものが混じった気がした。
だが彼女はすぐに表情を和らげ、論理的な調子で続ける。
「少し整理させてください。もしここで戦えば結果は二通りです。私が勝てば魔王様が命を落とします。魔王様が勝てば私が命を落とします。どちらの結果も不採用とさせていただきます」
(議事録か)
ゼロスは思わず心の中で突っ込んだ。
穏やかな丁寧語ですべての選択肢を丁寧に潰していくあたりが、いかにも仕事ができる部下の口ぶりである。
そのうえ、笑顔が一ミリも崩れないのが地味に怖い。
「採用も不採用もあるか!決戦に貴様の許可など要らぬ!」
「では、再検討をお願いできませんか?お茶の用意もまだ残っているそうですし」
「休憩所に戻る気か!」
思わず声が大きくなり肩に響いた。
そのとき、アリアが左腕をほんの少しだけ庇うように動かした瞬間、ゼロスの左肩にも鋭い痛みが走った。
(痛い痛い痛い。動くな勇者。そっちが動くとこっちが痛い)
悲鳴は奥歯で噛み殺した。
見れば彼女の白銀の肩当ては、左だけうっすらとひび割れ、その下に乾いた血の色がにじんでいる。
(あれか。昨夜の傷は)
誰にやられたのか分からないが、あの怪我で二か月も進軍してきたのだと思うと胸のあたりがきゅっと締めつけられた。
そして、その締めつけを自覚した自分にゼロスは少しだけ呆れた。
(討たれに来た相手の傷を心配してどうする)
ほんの一瞬、アリアの青い瞳がゼロスの左肩へ落ちて、すぐに顔へ戻った。
気のせいだろう。
たぶん。
◆
「ならば、力ずくで教えてやろう。
魔王というものがどれほど恐ろしい存在かをな」
ゼロスは玉座から立ち上がり、全身から魔力を解き放った。
黒い瘴気めいた魔力の奔流が広間を満たし、燭台の炎が青白く揺れ、天井の鎖が不気味に軋む。
これぞ第一形態の開幕、威圧の演出だ。
人類最強の勇者であっても、普通ならここで剣を抜き身構えるはずだった。
だが、アリアは違った。
彼女は渦巻く魔力を前にしても眉ひとつ動かさず、むしろ心配そうにゼロスを見上げている。
「魔王様、そんなに魔力を使われては、お体に負担がかかります。どうか、お控えください」
「……なぜ、敵の体を気遣う」
「敵だと思っておりませんので」
さらりと爆弾を落とされた。
魔力の渦が行き場を失って、しゅるしゅると静まっていく。
(始まらない。戦闘が始まらない)
剣を抜かれなければ戦いは始まらず、戦いが始まらなければ第一形態も第二形態も何もない。
十二稿の台本は一ページ目で完全に詰んでいた。
「……貴様、何のためにここまで来た」
「魔王様にお会いするためです」
「……会いに、来ただと?」
「はい。決戦ではなくお会いするために」
蒼穹の瞳がまっすぐにゼロスを見つめている。
そこには敵意も警戒もなく、あるのは、おそらくもっと別の何かだった。
その何かの正体を考えようとしてゼロスは慌てて思考を打ち切る。
考えたら負けのような気がした。
(落ち着け、俺。こういうときは一度目的を整理するんだ)
目的は、勇者に討たれて円満退職すること。
障害は、勇者が戦ってくれないこと。
ならば、解決策は、彼女が戦わざるを得ない状況をこちらで作ること。
前世で、動かない取引先を動かすために何度もやった手順である。
ゼロスは、そっと窓の外へ視線を向けた。
朝の光の中、広い窓の向こうの地平線に、ぽつんと一つ大きな山が見えている。
あの山のふもとには、街も村も人影もない。
(ちょうどいい)
ゼロスは悪役の笑みを深くして静かに告げた。
「ならば、貴様が剣を抜きたくなる舞台を用意してやろう」
アリアは、きょとんとした顔で首を傾げた。
その笑顔が、あと数分でひどく不穏な色を帯びることをゼロスはまだ知らない。




