第17話 吸血鬼の医務官が「鉄の匂い」を嗅ぎつけた夜 〜メイド長が赤ワインを派手にこぼし、勇者が「地の果てまで」を言い返されました〜
宴の喧騒の中で、ヴェルミナは、ゆらりと立ち上がった。
白衣の裾を引きずりながら、気だるげな足取りで、広間の中央へと向かっていく。
その視線の先には、左の掌に包帯を巻かれたトトと、その手当てを終えたばかりのアリアがいた。
「どれ、見せてごらん、新人」
「は、はい、ヴェルミナ先生」
ヴェルミナは、トトの手を取って、鼻を近づけた。
傷口の匂いを、ひとつずつ確かめるように、すう、と静かに吸い込む。
その眉が、ほんの少しだけ、ぴくりと動いた。
「傷は浅い、これなら、すぐ塞がる、よく手当てしてあるじゃないか」
「はい、アリアさんが、巻いてくださいました」
「ふーん、勇者ちゃんがね」
ヴェルミナは、トトの手を離して、ゆっくりと顔を上げた。
そして、眠たげな目を、広間の奥の上座へと、まっすぐに向ける。
その視線を、ゼロスは、首筋に刺さる針のように感じていた。
(……来る)
左手は、ナプキンで覆ったまま、テーブルの下に隠している。
だが、掌の傷は、まだ、じくじくと、熱を帯びて疼いていた。
トトの傷が塞がらない限り、こちらも、塞がらない。
(ヴェルミナが、トトの傷を調べれば、同じ時刻の、同じ場所の傷だと、気づくかもしれない)
冷や汗が、背中を伝う。
ヴェルミナは、ぶらりと、こちらへ歩き出した。
◆
その時、ゼロスの背後で、ごく小さな衣擦れの音がした。
ネフェリアが、一歩、前へ進み出る音である。
彼女は、銀の盆に、赤ワインの瓶とグラスを載せていた。
(……何を)
ゼロスが振り返るより早く、ネフェリアの手が、ほんの少しだけ、傾いた。
ばしゃん。
グラスが倒れ、真っ赤なワインが、テーブルクロスの上に、盛大に広がった。
そのまま、テーブルの縁を伝って、ゼロスの左の袖から、掌のあたりまで、たっぷりと染み込んでいく。
「失礼いたしました、魔王様」
ネフェリアは、眉ひとつ動かさず、静かに頭を下げた。
「わたくしとしたことが、不覚でございます、赤ワインを、お召し物に」
「…………」
「すぐに、拭わせていただきます」
ゼロスは、一瞬、呆然とした。
彼女が、グラスを倒すなど、あり得ない。
【完璧なる給仕】を極めた彼女が、これほど派手に、ワインをこぼす理由は、ひとつしかない。
(……まさか、気づいて)
ネフェリアは、ちらりとも、ゼロスの目を見なかった。
ただ、淡々と、真っ赤な染みを、ナプキンで押さえている。
その手が、そっと、ゼロスの左手の上に、重ねられた。
誰にも見えない角度で。
「赤ワインは、さまざまな匂いを、隠してくれますので」
ほとんど聞こえないほどの、囁きだった。
ゼロスの心臓が、どくんと跳ねる。
次の瞬間、ネフェリアは、何事もなかったかのように、背筋を伸ばして、後ろへ下がった。
その直後、ヴェルミナが、ゼロスの席の目の前に、辿り着いた。
◆
「おやおや、ネフェリアが、グラスを倒すなんて、天地がひっくり返る珍事だね」
「わたくしにも、不覚はございます」
「ふーん」
ヴェルミナは、赤く染まったテーブルクロスに、鼻先を近づけて、くんくんと嗅いだ。
その眉間に、深い皺が寄る。
「……赤ワイン、だね、濃厚な、いい葡萄だ、でも」
彼女は、顔を上げて、じっとゼロスを見据えた。
「魔王様、あんたの席から、さっきから、別の匂いがしてたんだよ」
「…………何のことだ」
「鉄の匂いだ、新鮮な、血の匂い」
広間のざわめきが、遠くなる。
ゼロスは、悪役の仮面を貼り付けたまま、ゆっくりと、杯を口に運んだ。
その手は、震えていない。
ポーカーフェイスだけは、前世で鍛えられた、唯一の武器だった。
「ほら、左手を、見せな」
「ヴェルミナ様、お待ちください」
穏やかな声とともに、白いワンピースの影が、すっと、二人の間に割って入った。
アリアである。
彼女は、いつもの笑顔で、ゼロスの前に立ち、両手を広げていた。
「勇者ちゃん、またかい」
「はい、また、です」
「診察は、事前の同意と、範囲の確認が必要、とか言うんだろ」
「いいえ、今回は、少し違います」
アリアは、にこりと微笑んで、ゼロスの左手を、自分の手でそっと包んだ。
ワインに濡れた袖ごと、ふわりと。
「魔王様の左手は、今、赤ワインで、びしょ濡れです」
「そのようだね」
「お酒に濡れた傷は、しみますので、診察は、洗ってから、のほうがよろしいかと」
「傷があるって、認めるのかい」
「はい、割れたお皿の傷が、魔王様の左手にも、ございます」
あっさりと、認めた。
ヴェルミナの目が、わずかに見開かれる。
ゼロスは、冷や汗をかきながら、アリアの横顔を見つめた。
嘘は、ひとつもない。
確かに、割れた皿の傷は、ゼロスの左手にある。
ただ、その皿を落としたのが、トトだというだけで。
「……へえ、素直じゃないか」
「はい、嘘は、つきませんので」
「そのわりに、何か、隠してる顔だね」
「隠してなどおりません、お見せする順番を、整えているだけです」
にっこり。
その笑顔の圧に、さすがのヴェルミナも、半歩、後ずさった。
「……あたしの鼻は、誤魔化せないよ、勇者ちゃん」
「存じております、だからこそ、ご相談です」
アリアは、まっすぐにヴェルミナを見つめた。
「魔王様は、診察を、受けます」
「…………ほう」
「ただし、今夜ではなく、魔王様の心の準備が整い次第、私から、お声がけします」
「ふーん、いつだい」
「近いうちに、必ず」
沈黙が、流れた。
ヴェルミナは、腕を組んで、しばらく、アリアの顔を睨んでいた。
やがて、ふっ、と息を吐いて、肩の力を抜く。
「……ずいぶん、口が上手くなったね」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ、でも、いいさ、今夜は、引いてやる」
ゼロスは、ほっと胸をなで下ろしかけた。
だが、ヴェルミナは、にやりと、牙をのぞかせて笑った。
「ただし、すっぽかしたら、あたしは、地の果てまで、追いかけるからね」
「地の果てまで」
「ああ、あんたが魔王様に使う台詞だろ、リリティアの手帳に、書いてあったよ」
アリアの頬が、ぽっと、赤く染まった。
「み、見られていましたか」
「盗み見は、医者の特権さ」
(……他人の手帳まで、嗅ぎ回っているのか、この医務官は)
ゼロスは、遠い目になった。
アリアが、しゅん、と俯く。
「貸しひとつ、だよ、勇者ちゃん」
「はい、承知しました」
ヴェルミナは、ひらひらと手を振って、広間の奥へ、ふらりと歩き出した。
だが、その去り際に、ゼロスの耳元へ、ほんの少しだけ、顔を近づける。
「魔王様」
「……何だ」
「嘘が下手な患者は、すぐ分かるんだ、あんたは、下手だね」
「…………」
「でも、いい仲間を持ってるじゃないか、大事にしな」
気だるげな声には、意外なほど、温かい響きがあった。
ゼロスは、返す言葉を、見つけられなかった。
ヴェルミナの背中が、人混みの中に、消えていく。
◆
宴の席の片隅で、ゼロスは、そっと、ナプキンを外した。
掌の傷は、ワインと血で、ぐしゃぐしゃに濡れている。
アリアが、すぐに、ネフェリアの運んできた清潔な布と、小さな薬箱を、受け取った。
「失礼します、魔王様」
「……自分で、できる」
「お断りします」
久しぶりの、その台詞だった。
アリアは、ゼロスの左手を、自分の膝の上に乗せて、慎重に、傷口を洗い始める。
冷たい水が、じんわりと染みた。
ゼロスは、思わず、息を詰める。
「痛かったですね」
「…………別に、痛くなど」
「お顔が、痛いと、言っておられます」
穏やかな声が、胸の奥に、そっと染み込んでくる。
アリアは、丁寧に傷を拭いて、薬を塗り、白い包帯を、そっと巻いていった。
その手つきは、驚くほど、優しかった。
最後に、包帯の端を、きゅっと結んで、彼女は、小さく呟いた。
「雨、でしたね」
「……ああ」
「ご報告、ありがとうございました、ちゃんと、言ってくださって、嬉しかったです」
ゼロスは、返事をしなかった。
いや、できなかった。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなって、喉の奥が、きつく詰まっていたからだ。
アリアは、包帯を巻いたゼロスの掌を、両手でそっと包んで、額を、こつん、と寄せた。
ほんの一瞬だけ。
「……っ、おい」
「失礼しました、つい」
慌てて顔を上げた彼女の頬は、真っ赤だった。
ゼロスも、同じくらい、赤くなっていた。
二人は、お互いに、そっぽを向く。
その様子を、少し離れた場所から、ネフェリアが、完璧な無表情で、見守っていた。
ただ、その口元だけが、ほんのわずかに、緩んでいる。
「魔王様」
ネフェリアが、静かに、近づいてきた。
その腕には、漆黒の軍服が、きちんと畳まれて、三着、重ねられている。
「お召し物が、赤ワインで、汚れておいでです、予備の軍服を、三着、ご用意いたしました」
「三着、か」
「はい、今後、何かと、入用になるかと存じますので」
「…………」
ゼロスは、ネフェリアの顔を、まっすぐ見つめた。
彼女は、いつもの、無表情だった。
けれど、その目には、確かな、静かな意志があった。
(……この人は、全部、気づいているのかもしれないな)
だが、彼女は、何も言わない。
ただ、完璧な角度で、深々と一礼するだけだった。
ゼロスは、小さく、息を吐いて、頷いた。
「……ありがとう、ネフェリア」
「恐れ入ります」
宴は、まだ、終わらない。
ただ、遠くの席で、兵たちが、「勇者殿を見守る会」と「魔王様の睡眠を守る会」の合同乾杯を、始めていた。




