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死にたがり魔王ですが、早く討たれたいのに勇者が同居を始めました 〜吐血を隠していたら、全部知られていて看病されています〜  作者: のびろう。
第3章 勇者捕獲の祝宴が始まります 〜討たれ損ねた魔王は乾杯の挨拶で本音を言いたいのに、席次表戦争と婚礼の噂が大暴走しました〜

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第17話 吸血鬼の医務官が「鉄の匂い」を嗅ぎつけた夜 〜メイド長が赤ワインを派手にこぼし、勇者が「地の果てまで」を言い返されました〜

宴の喧騒の中で、ヴェルミナは、ゆらりと立ち上がった。

白衣の裾を引きずりながら、気だるげな足取りで、広間の中央へと向かっていく。

その視線の先には、左の掌に包帯を巻かれたトトと、その手当てを終えたばかりのアリアがいた。


「どれ、見せてごらん、新人」

「は、はい、ヴェルミナ先生」


ヴェルミナは、トトの手を取って、鼻を近づけた。

傷口の匂いを、ひとつずつ確かめるように、すう、と静かに吸い込む。

その眉が、ほんの少しだけ、ぴくりと動いた。


「傷は浅い、これなら、すぐ塞がる、よく手当てしてあるじゃないか」

「はい、アリアさんが、巻いてくださいました」

「ふーん、勇者ちゃんがね」


ヴェルミナは、トトの手を離して、ゆっくりと顔を上げた。

そして、眠たげな目を、広間の奥の上座へと、まっすぐに向ける。

その視線を、ゼロスは、首筋に刺さる針のように感じていた。


(……来る)

左手は、ナプキンで覆ったまま、テーブルの下に隠している。

だが、掌の傷は、まだ、じくじくと、熱を帯びて疼いていた。

トトの傷が塞がらない限り、こちらも、塞がらない。

(ヴェルミナが、トトの傷を調べれば、同じ時刻の、同じ場所の傷だと、気づくかもしれない)

冷や汗が、背中を伝う。

ヴェルミナは、ぶらりと、こちらへ歩き出した。


◆


その時、ゼロスの背後で、ごく小さな衣擦れの音がした。

ネフェリアが、一歩、前へ進み出る音である。

彼女は、銀の盆に、赤ワインの瓶とグラスを載せていた。

(……何を)

ゼロスが振り返るより早く、ネフェリアの手が、ほんの少しだけ、傾いた。


ばしゃん。


グラスが倒れ、真っ赤なワインが、テーブルクロスの上に、盛大に広がった。

そのまま、テーブルの縁を伝って、ゼロスの左の袖から、掌のあたりまで、たっぷりと染み込んでいく。


「失礼いたしました、魔王様」


ネフェリアは、眉ひとつ動かさず、静かに頭を下げた。


「わたくしとしたことが、不覚でございます、赤ワインを、お召し物に」

「…………」

「すぐに、拭わせていただきます」


ゼロスは、一瞬、呆然とした。

彼女が、グラスを倒すなど、あり得ない。

【完璧なる給仕(パーフェクト・サーヴ)】を極めた彼女が、これほど派手に、ワインをこぼす理由は、ひとつしかない。

(……まさか、気づいて)

ネフェリアは、ちらりとも、ゼロスの目を見なかった。

ただ、淡々と、真っ赤な染みを、ナプキンで押さえている。

その手が、そっと、ゼロスの左手の上に、重ねられた。

誰にも見えない角度で。


「赤ワインは、さまざまな匂いを、隠してくれますので」


ほとんど聞こえないほどの、囁きだった。

ゼロスの心臓が、どくんと跳ねる。

次の瞬間、ネフェリアは、何事もなかったかのように、背筋を伸ばして、後ろへ下がった。

その直後、ヴェルミナが、ゼロスの席の目の前に、辿り着いた。


◆


「おやおや、ネフェリアが、グラスを倒すなんて、天地がひっくり返る珍事だね」

「わたくしにも、不覚はございます」

「ふーん」


ヴェルミナは、赤く染まったテーブルクロスに、鼻先を近づけて、くんくんと嗅いだ。

その眉間に、深い皺が寄る。


「……赤ワイン、だね、濃厚な、いい葡萄だ、でも」


彼女は、顔を上げて、じっとゼロスを見据えた。


「魔王様、あんたの席から、さっきから、別の匂いがしてたんだよ」

「…………何のことだ」

「鉄の匂いだ、新鮮な、血の匂い」


広間のざわめきが、遠くなる。

ゼロスは、悪役の仮面を貼り付けたまま、ゆっくりと、杯を口に運んだ。

その手は、震えていない。

ポーカーフェイスだけは、前世で鍛えられた、唯一の武器だった。


「ほら、左手を、見せな」

「ヴェルミナ様、お待ちください」


穏やかな声とともに、白いワンピースの影が、すっと、二人の間に割って入った。

アリアである。

彼女は、いつもの笑顔で、ゼロスの前に立ち、両手を広げていた。


「勇者ちゃん、またかい」

「はい、また、です」

「診察は、事前の同意と、範囲の確認が必要、とか言うんだろ」

「いいえ、今回は、少し違います」


アリアは、にこりと微笑んで、ゼロスの左手を、自分の手でそっと包んだ。

ワインに濡れた袖ごと、ふわりと。


「魔王様の左手は、今、赤ワインで、びしょ濡れです」

「そのようだね」

「お酒に濡れた傷は、しみますので、診察は、洗ってから、のほうがよろしいかと」

「傷があるって、認めるのかい」

「はい、割れたお皿の傷が、魔王様の左手にも、ございます」


あっさりと、認めた。

ヴェルミナの目が、わずかに見開かれる。

ゼロスは、冷や汗をかきながら、アリアの横顔を見つめた。

嘘は、ひとつもない。

確かに、割れた皿の傷は、ゼロスの左手にある。

ただ、その皿を落としたのが、トトだというだけで。


「……へえ、素直じゃないか」

「はい、嘘は、つきませんので」

「そのわりに、何か、隠してる顔だね」

「隠してなどおりません、お見せする順番を、整えているだけです」


にっこり。

その笑顔の圧に、さすがのヴェルミナも、半歩、後ずさった。


「……あたしの鼻は、誤魔化せないよ、勇者ちゃん」

「存じております、だからこそ、ご相談です」


アリアは、まっすぐにヴェルミナを見つめた。


「魔王様は、診察を、受けます」

「…………ほう」

「ただし、今夜ではなく、魔王様の心の準備が整い次第、私から、お声がけします」

「ふーん、いつだい」

「近いうちに、必ず」


沈黙が、流れた。

ヴェルミナは、腕を組んで、しばらく、アリアの顔を睨んでいた。

やがて、ふっ、と息を吐いて、肩の力を抜く。


「……ずいぶん、口が上手くなったね」

「ありがとうございます」

「褒めてないよ、でも、いいさ、今夜は、引いてやる」


ゼロスは、ほっと胸をなで下ろしかけた。

だが、ヴェルミナは、にやりと、牙をのぞかせて笑った。


「ただし、すっぽかしたら、あたしは、地の果てまで、追いかけるからね」

「地の果てまで」

「ああ、あんたが魔王様に使う台詞だろ、リリティアの手帳に、書いてあったよ」


アリアの頬が、ぽっと、赤く染まった。


「み、見られていましたか」

「盗み見は、医者の特権さ」

(……他人の手帳まで、嗅ぎ回っているのか、この医務官は)

ゼロスは、遠い目になった。

アリアが、しゅん、と俯く。


「貸しひとつ、だよ、勇者ちゃん」

「はい、承知しました」


ヴェルミナは、ひらひらと手を振って、広間の奥へ、ふらりと歩き出した。

だが、その去り際に、ゼロスの耳元へ、ほんの少しだけ、顔を近づける。


「魔王様」

「……何だ」

「嘘が下手な患者は、すぐ分かるんだ、あんたは、下手だね」

「…………」

「でも、いい仲間を持ってるじゃないか、大事にしな」


気だるげな声には、意外なほど、温かい響きがあった。

ゼロスは、返す言葉を、見つけられなかった。

ヴェルミナの背中が、人混みの中に、消えていく。


◆


宴の席の片隅で、ゼロスは、そっと、ナプキンを外した。

掌の傷は、ワインと血で、ぐしゃぐしゃに濡れている。

アリアが、すぐに、ネフェリアの運んできた清潔な布と、小さな薬箱を、受け取った。


「失礼します、魔王様」

「……自分で、できる」

「お断りします」


久しぶりの、その台詞だった。

アリアは、ゼロスの左手を、自分の膝の上に乗せて、慎重に、傷口を洗い始める。

冷たい水が、じんわりと染みた。

ゼロスは、思わず、息を詰める。


「痛かったですね」

「…………別に、痛くなど」

「お顔が、痛いと、言っておられます」


穏やかな声が、胸の奥に、そっと染み込んでくる。

アリアは、丁寧に傷を拭いて、薬を塗り、白い包帯を、そっと巻いていった。

その手つきは、驚くほど、優しかった。

最後に、包帯の端を、きゅっと結んで、彼女は、小さく呟いた。


「雨、でしたね」

「……ああ」

「ご報告、ありがとうございました、ちゃんと、言ってくださって、嬉しかったです」


ゼロスは、返事をしなかった。

いや、できなかった。

胸の奥が、ぎゅっと熱くなって、喉の奥が、きつく詰まっていたからだ。

アリアは、包帯を巻いたゼロスの掌を、両手でそっと包んで、額を、こつん、と寄せた。

ほんの一瞬だけ。


「……っ、おい」

「失礼しました、つい」


慌てて顔を上げた彼女の頬は、真っ赤だった。

ゼロスも、同じくらい、赤くなっていた。

二人は、お互いに、そっぽを向く。

その様子を、少し離れた場所から、ネフェリアが、完璧な無表情で、見守っていた。

ただ、その口元だけが、ほんのわずかに、緩んでいる。


「魔王様」


ネフェリアが、静かに、近づいてきた。

その腕には、漆黒の軍服が、きちんと畳まれて、三着、重ねられている。


「お召し物が、赤ワインで、汚れておいでです、予備の軍服を、三着、ご用意いたしました」

「三着、か」

「はい、今後、何かと、入用になるかと存じますので」

「…………」


ゼロスは、ネフェリアの顔を、まっすぐ見つめた。

彼女は、いつもの、無表情だった。

けれど、その目には、確かな、静かな意志があった。

(……この人は、全部、気づいているのかもしれないな)

だが、彼女は、何も言わない。

ただ、完璧な角度で、深々と一礼するだけだった。

ゼロスは、小さく、息を吐いて、頷いた。


「……ありがとう、ネフェリア」

「恐れ入ります」


宴は、まだ、終わらない。

ただ、遠くの席で、兵たちが、「勇者殿を見守る会」と「魔王様の睡眠を守る会」の合同乾杯を、始めていた。

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