第16話 勇者の挨拶は、なぜか全軍に完璧に届いた 〜魔王の乾杯は一言も届かなかったのに、「魔王様の睡眠を守る会」が800人で結成されました〜
アリアが、リリティアを抱えたまま、兵たちの波に飲み込まれそうになったその時、背後から、静かな声が響いた。
「勇者様、リリティア様は、わたくしが、お預かりいたします」
ネフェリアが、完璧な角度で進み出て、眠る秘書官を、軽々と受け取った。
そして、アリアにだけ聞こえる声で、小さく付け加える。
「勇者様は、どうぞ、宴を」
「ありがとうございます、ネフェリアさん」
「別に、礼を言われるようなことは、しておりません」
ネフェリアは、リリティアを抱えたまま、すっと人混みの向こうへ消えていった。
その直後、アリアの周りは、800人の兵たちに、ぎっしりと取り囲まれた。
上座の席から、ゼロスは、その光景を、複雑な気持ちで眺めている。
「勇者殿! お話を、聞かせてくだされ!」
「そうだ! 壇上へ! 壇上へ!」
「勇者殿の、ご挨拶を!」
あれよあれよという間に、アリアは、兵たちの手で、広間の奥の小さな壇の上へ、担ぎ上げられてしまった。
困り顔で、きょろきょろと周囲を見回す姿が、なんとも小動物のようで愛らしい。
(……あの子は、本当に、人を惹きつけるな)
ゼロスは、杯を傾けながら、そっと目を細めた。
アリアは、一度、深呼吸をして、胸の前で両手を合わせる。
「ええと、皆さま、このたびは、お招きいただき、ありがとうございます、アリア・ヴァンガードと申します、捕虜、という立場ですが、魔王様に、大変お世話になっております」
広間が、しん、と静まり返った。
兵たちは、身じろぎひとつせず、勇者の言葉に聞き入っている。
(……なんだ、この静けさは)
ゼロスの乾杯の挨拶では、あれほど騒がしかったのに。
同じ800人が、まるで別人のように、真剣な顔で、耳を傾けている。
「皆さまに、ひとつだけ、お願いがあります」
アリアは、ぴっと人差し指を立てた。
「魔王様は、お休みになるのが、とてもお下手です、どうか、夜遅くに、書類や相談事を、お持ち込みになるのは、おやめください、午後11時以降は、魔王様の就寝時間です」
「…………」
「あと、お夜食の差し入れも、ご遠慮ください、魔王様は、遠慮なさらずに、全部食べてしまわれるので」
一瞬の静寂のあと、広間が、どっと沸いた。
「おお! そういえば、魔王様は、夜遅くまで!」
「俺、先月、午前2時に、書類を持って行った!」
「俺もだ! あの時、魔王様、嫌な顔ひとつせず」
「なんてことだ、俺たちが、魔王様の睡眠を、削っていたのか!」
どよめきは、すぐに、決意の叫びへと変わっていった。
「守ろう! 魔王様の睡眠を!」
「魔王様の睡眠を守る会、結成だ!」
「午後11時以降は、魔王様の部屋には、近づかない!」
(……なんだ、この一体感は)
ゼロスは、杯を持ったまま、呆然としていた。
彼の三年間、誰も、止めてくれなかった夜更かしが、勇者のたった一言で、800人の軍の総意に変わってしまった。
(俺の挨拶は、一言も届かなかったのに)
少しだけ、ほんの少しだけ、悔しい。
だが、それ以上に、胸の奥が、あたたかかった。
◆
壇上から降りたアリアは、あっという間に、質問攻めにあった。
「勇者殿! 魔王様とは、どんなお暮らしを!」
「魔王様は、普段、どんなお方ですか!」
「勇者殿! 魔王様の、好物は!」
アリアは、ひとつひとつ、丁寧に、笑顔で答えていく。
「魔王様の、好きなものは、静かな夜と、温かいお茶です、苦手なものは、ニンジンです」
「えっ」
「ニンジンを、ナプキンに隠して、持ち帰ろうとなさいます」
「ええええ!?」
「あの、魔王様が!?」
「かわいい」
兵たちの間に、どよめきが広がる。
ゼロスは、杯を持ったまま、ぷるぷると震えていた。
「貴様、余計なことを、話すな!」
「あ、魔王様、お聞きになって」
「魔王様、照れておられる!」
「魔王様、お顔が、お赤い!」
「赤くない!」
上座から叫んだゼロスの声は、兵たちの大爆笑に、あっさりとかき消された。
アリアは、くすくすと笑いながら、少しだけ、頬を染めて、続ける。
「魔王様は、書類を、期限の3日前に、終わらせてしまわれる、とても、真面目なお方です、でも、真面目すぎて、ご自分のお体のことは、後回しになさいます」
「分かる」
「うちの上官にも、そういう方が」
「魔王様は、本当に、お優しいのだ」
兵たちの目が、うるうると潤んでいく。
その熱気の中で、兵のひとりが、おずおずと、手を挙げた。
「あの、勇者殿、ひとつだけ、お聞きしても、よろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
「勇者殿は、魔王様のことを、どう、思っておられますか」
広間が、再び、静まり返った。
全員が、息を詰めて、アリアの答えを待っている。
ゼロスの心臓が、どくん、と跳ねた。
(待て、それは)
止めようとしたが、遅かった。
アリアは、まっすぐな瞳で、迷いなく、答えた。
「お慕いしております」
一瞬の沈黙の後、広間が、爆発した。
「うおおおおお!」
「やはり、そうなのか!」
「婚礼だ! 婚礼の宴だ!」
「ちがう! 断じて、ちがう!」
ゼロスの悲鳴は、完全に、かき消された。
アリアは、頬を桜色に染めて、小さく俯いている。
その横顔が、あまりにも愛らしくて、ゼロスは、目を逸らすしかなかった。
◆
宴の熱気が、少し落ち着いた頃、アリアは、ひとりの鬼族の男の前で、足を止めた。
バルザークである。
彼は、杯を片手に、壁際で、じっと勇者を見つめていた。
「勇者よ、ひとつだけ、聞かせてほしい」
「はい、何でしょうか」
「貴様は、魔王様を、どうしたいのだ」
低く、静かな声だった。
その目には、武人らしい、まっすぐな光があった。
同時に、ほんのわずかな、懸念の影が、見え隠れしている。
「貴様は、強い、それは認めよう、だが、魔王様の隣に立つ者に、必要なのは、強さだけではないぞ」
「はい、存じております」
アリアは、真面目な顔で、頷いた。
「魔王様の隣に、必要なのは、ご飯と、睡眠です」
「…………は?」
「それと、ニンジンの見張りです」
バルザークは、一瞬、きょとんとした顔で固まった。
やがて、肩が、小刻みに震え始め、それから、豪快な笑い声が、広間に響き渡る。
「がっはっはっは! ご飯と、睡眠、か! なるほど、それは、確かに、そうだ!」
「はい、大事なことです」
「面白い、実に、面白い小娘だ!」
バルザークは、勇者の肩を、ばしんと叩いた。
アリアは、ほんの少しだけ、ぐらついて、「お手柔らかに」と苦笑する。
だが、笑い終えたバルザークは、ふと、真顔に戻って、低く呟いた。
「……魔王様を、頼むぞ」
「はい」
「だが、もし、魔王様が、何か、道を誤るようなことがあれば」
言いかけて、彼は、ぐっと口をつぐんだ。
アリアは、その言葉の続きを、静かに待っている。
バルザークは、大きく息を吐いて、苦笑した。
「……いや、なんでもない、忘れてくれ」
「はい」
彼は、杯を一気に呷って、豪快な笑顔を取り戻し、人混みの中へ消えていった。
その背中を、アリアは、じっと見つめている。
(……あの人は、魔王様を、本当に、大切に思っているのだな)
遠くから眺めていたゼロスも、同じことを感じていた。
「おやおや、勇者殿は、人気者ですねぇ」
背後から、ふらりと、シェイドが現れた。
薄い笑みを浮かべたまま、アリアの隣に、並ぶ。
「ところで勇者殿、魔王様のお体を、お診みになっている、と伺いましたが、どのように」
「はい、お顔の色と、お食事と、睡眠を、毎日、確認しております」
「それだけ、ですかねぇ」
「それだけです」
「魔王様の、お顔色の悪さの、原因までは」
「魔王様が、お話しくださるまで、お待ちしています」
さらりと、穏やかな笑顔で、答える。
嘘は、ひとつもない。
シェイドは、細い目をさらに細めて、くつくつと笑った。
「おやおや、奥ゆかしい、実に、奥ゆかしい」
「ありがとうございます」
「では、お邪魔しましたねぇ」
彼は、ひらひらと手を振って、影のように、去っていく。
その背中を、見送りながら、アリアは、静かに、ほっと息をついた。
◆
宴は、深夜に向けて、ますます賑わっていった。
アリアの周りには、いつの間にか、小さな人の輪ができている。
彼女は、ひとりひとりの名前を、丁寧に聞き取って、笑顔で呼びかけていた。
「ガルドさん、いつも、門を守ってくださって、ありがとうございます」
「ゆ、勇者殿が、俺の名前を」
「トトさん、先ほどの大歓声、とても、素敵でした」
「うわあ、勇者殿に、褒められた!」
「マルガさん、お料理、とても美味しいです、お手製のパイを、ありがとうございます」
「まあまあ、嬉しいわあ」
兵たちが、次々と、感動に打ち震えている。
その様子を見ながら、ゼロスは、ふと、ある一つの違和感に気づいた。
(……なぜ、あの子は、全員の名前を、知っているんだ)
考えてみれば、彼女は、ゼロスの体から伸びる、無数の線を、見ていたのだろう。
魔王が、顔と名前を覚えた者たち、そのすべてに、繋がる線を。
それは、彼女にとって、名簿のようなものだったに違いない。
「魔王様は、皆さんのお名前を、一人残らず、ご存じです」
アリアは、誇らしげに、兵たちに語りかけていた。
「ですから、私も、覚えたくなりました」
「魔王様が、俺の名を!?」
「知っていてくださったのか!」
「勇者殿、ありがとうございます!」
兵たちの感動は、とどまるところを知らない。
いつの間にか、広間の一角には、『勇者殿を見守る会』と書かれた、手作りの小さな旗まで、掲げられていた。
ゼロスは、静かに、遠い目になった。
(……俺の部下が、勇者の、非公式の、ファンになっていく)
だが、それは、不思議と、悪い気分ではなかった。
胸の奥が、じんわりと、温かくなる。
彼女が、皆に愛されていくことが、まるで、自分のことのように、嬉しかった。
「あっ!」
そのとき、広間の中央で、小さな悲鳴が上がった。
ガシャン、と何かが割れる音。
見れば、トトが、人混みに押されて、持っていた皿を落としたところだった。
割れた皿の破片が、彼の左の掌を、ざっくりと切り裂いている。
「いてっ!」
「トトさん、大丈夫ですか!」
アリアが、すぐに駆け寄った。
だが、その瞬間。
(……っ)
ゼロスの左の掌に、焼けるような痛みが走った。
熱い、何かが、じわりと、溢れ出してくる。
(……来た)
ゼロスは、さっとテーブルの下に左手を隠した。
指の間から、赤いものが、ぽたり、ぽたりと、落ちている。
トトの傷と、同じ場所、同じ深さで。
(まずい、広間の真ん中で)
ゼロスは、慌てて、ナプキンを掴んで、掌を覆った。
そして、ちらりと、広間の向こうの、アリアを見る。
彼女は、トトの傷の手当てに、かかりきりになっていた。
だが、ふいに、アリアが、はっと顔を上げた。
蒼い瞳が、まっすぐに、ゼロスを捉える。
線が、見えたのだ。
ゼロスは、唇をほとんど動かさずに、ひとことだけ、呟いた。
「……雨だ」
遠くのアリアが、小さく、こくりと頷いた。
唇の動きだけで、意味は伝わったらしい。
同時に、広間の遠い席で、気だるげにあくびをしていた、ひとりの女性が、ぴくりと、鼻を動かした。
ヴェルミナが、ゆっくりと、顔を上げた。
眠たげだった目が、すっと、獣のように、細くなる。
「……鉄の匂い、だね」
宴の夜は、まだ、終わらない。




