第15話 魔王の杯は「6割」までと決まった夜、酔った秘書官が死亡フラグの「お願い」を大声で叫んだ 〜内容は「一日だけ二人きりで秘書業務」でし
祝宴は、乾杯のあとも、ますます盛り上がっていた。
大広間のあちこちで、兵たちが肩を組み、歌い、踊り、料理を奪い合っている。
その喧騒の中心にある上座の席で、ゼロスは、ひとつの重大な課題と向き合っていた。
(杯の六割、という線は、実に、厳しい)
目の前の杯には、アリアのチョークで引かれた白い線が、くっきりと残っている。
そこまでしか、注いではならない。
前世で、取引先との接待のたびに、断れない酒を飲み続けた身としては、この制限は、むしろ救いのはずだった。
だが、慣れというものは恐ろしい。
いざ制限されると、不思議と、あと一口が、飲みたくなってしまう。
「魔王様! 一献、お付き合いくだされ!」
正面の席から、バルザークが、豪快な声とともに、杯を突き出してきた。
ゼロスは、すっと杯を差し出しかけて、ちらりと左隣を見る。
アリアが、にこにこと、穏やかに微笑んでいた。
その手には、いつの間にか、小さな定規が握られている。
「魔王様、6割です」
「分かっている」
「注いで差し上げましょう、ネフェリアさん、お願いします」
背後に控えていたネフェリアが、すっと進み出た。
銀の酒瓶を傾けると、琥珀色の液体が、寸分の狂いもなく、白い線の上でぴたりと止まる。
一滴の誤差もない。
【完璧なる給仕】の、見事な無駄遣いである。
「お見事です、ネフェリアさん」
「恐れ入ります、勇者様」
(分業協定が、こんなところで、実を結んでいる)
ゼロスは、遠い目で、きっかり6割の酒を見つめた。
バルザークが、ぐいと杯を傾けて、豪快に笑う。
「はっはっは、魔王様、杯が小さくなったように見えますぞ!」
「……気のせいだ」
◆
その様子を、少し離れた席から、じっと見つめている者がいた。
紫のウェーブヘアを、肩口で揺らした第一軍団長、リリティアである。
彼女は、手帳を握りしめたまま、唇を噛んで、ぷるぷると震えていた。
「……杯の線を、勇者殿が、引いた、ネフェリア殿が、寸分違わず、注いだ、私は、何も、していない」
「リリティア、おい、顔が青いぞ」
「バルザーク殿、私は、魔王様の、第一軍団長、なのに」
ぼそぼそと呟く彼女の前に、バルザークが、どん、と一つの杯を置いた。
湯気が立つほど、濃厚な香りのする、真っ赤な液体である。
「嫉妬は、酒で流すに限る、鬼族秘蔵の火酒だ、飲んでみろ」
「べ、別に、嫉妬では、ございません」
「いいから、飲め」
リリティアは、むっとした顔で、杯を掴むと、ぐいっと一息に、呷った。
ごくり、ごくり、ごくり。
「…………」
「…………」
「…………ぷはぁっ」
空になった杯を、ばん、と机に叩きつけて、リリティアは、ゆらりと立ち上がった。
その頬は、真っ赤に染まっている。
金色の猫目は、とろんと潤んで、焦点が合っていない。
スペード型の尻尾が、ぴょこぴょこと、ハートの形に丸まって揺れていた。
「……あれ、バルザーク殿、地面が、動いております」
「おい、リリティア、大丈夫か」
「魔王様は、どこでございますかぁ」
ふらふらと、おぼつかない足取りで、リリティアが、上座へ向かって歩き始めた。
バルザークが、慌てて手を伸ばしたが、一瞬、間に合わない。
ヴェルミナが、遠くの席で、「あーあ」と、気だるげに笑っている。
◆
「魔王様ぁぁぁ」
どさり、と、リリティアが、ゼロスの右腕に、勢いよく抱きついた。
甘い酒の香りが、ふわりと漂う。
ゼロスは、ぎょっとして、思わず身を硬くした。
「リリティア、酔っているぞ、離れろ」
「いやでございますぅ、魔王様ぁ、今日は、離れませんぅ」
「何を、言っている」
「だって、ずっと、ずっと、お側に居たのに、お顔を、見られなかったのですぅ」
リリティアは、ゼロスの腕にしがみついたまま、ぐいっと、顔を上げた。
金色の猫目が、潤んだまま、まっすぐに、ゼロスの顔を、見つめる。
三年間、一度も合わなかった視線が、初めて、まともにぶつかった。
「…………あ」
「…………リリティア」
「魔王様の、お顔、こんなに、お綺麗だったのですね」
ゼロスの全身が、ぴしりと固まった。
(……見られた、まずい、いや、顔色は、最近は、悪くないはず)
だが、リリティアの視線は、ゼロスの目の下に、すっと吸い寄せられた。
「……隈、ですぅ」
「それは、元からだ」
「濃い、隈が、ずっと、ずっと、あったのですね」
リリティアの目から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちた。
「私は、三年間、魔王様のお顔を、拝見しておりませんでしたぁ、こんなに、お疲れだったのに、気づきもせずぅ」
「……泣くな」
「ごめんなさい、ごめんなさい、魔王様ぁ」
ぐすぐすと泣き出した彼女に、ゼロスは、困り果てた。
やがて、そっと、彼女の頭に、手を置いた。
(……この子の疲労も、俺に来ていたのだな、毎晩、毎日)
複雑な気持ちで、紫の髪を、ぎこちなく撫でる。
隣で、アリアが、微笑みながら、その様子を静かに見つめていた。
ただ、その瞳の星は、ほんの少しだけ、光を弱めている。
◆
「あのぉ、魔王様ぁ」
ひとしきり泣いたあと、リリティアは、ふらりと椅子の上に、よじ登った。
そして、杯を高々と掲げて、大声で宣言する。
「魔王様! お約束の、お願いを、申し上げますッ!」
広間が、ぴたりと静まり返った。
800人の視線が、一斉に、椅子の上のリリティアへと、集中する。
ゼロスの背筋に、冷たいものが走った。
(……来た、あの朝の、死亡フラグ)
あの日、決戦の朝に立てた旗が、いま、ついに、回収される。
「お願いは、ひとつだけでございますぅ」
リリティアは、顔を真っ赤にして、もじもじと、スーツの裾をいじった。
そして、小さな声で、でもはっきりと、告げた。
「一日だけ、魔王様の、秘書として、二人きりで、お仕えさせてくださいませぇ!」
静寂が、広間を包んだ。
(…………それだけ?)
ゼロスは、拍子抜けして、目を瞬かせた。
死亡フラグとして警戒していた「お願い」が、あまりにも、ささやかで、純粋だった。
リリティアは、涙を浮かべたまま、続ける。
「私は、秘書官なのに、いつも遠くから、拝見するばかりで、お顔も、見られず、何も、できなくて、だから、一日だけ、きちんと、お仕えしたいのですぅ」
「…………」
「業務として、書類を、整えて、お茶を、お淹れして、スケジュールを、管理して、それだけで、いいのですぅ」
広間の空気が、じわじわと、熱を帯びていく。
「尊い」
「なんて、健気な」
「俺たちの軍団長が、こんなにも、魔王様を」
あちこちで、兵たちが、涙を拭っている。
バルザークは、杯を握りしめたまま、男泣きを始めた。
マルガが、「あらあら、まあまあ」と、おたまで目元を拭っている。
ネフェリアは、無言で、ほんの少しだけ、視線を逸らした。
ヴェルミナが、にやにやと笑っているのが、遠くからでも分かる。
(……これは、断れない)
ゼロスは、観念して、深く息を吐いた。
約束は、約束である。
死ぬ予定で立てた旗でも、生きている以上、回収しなければならない。
「……うむ、聞いた」
「!」
「日を改めて、一日、時間を作る、秘書として、我に仕えるがよい」
「ま、まおうさまぁぁぁ!」
リリティアが、感極まって、椅子の上から、ゼロスに向かって、飛びついた。
ゼロスが、慌てて受け止めた次の瞬間、彼女は、その胸の中で、くたりと力尽きた。
「……寝た」
「寝てしまいました」
「幸せそうな、寝顔でございますね」
ネフェリアが、そっと、リリティアの顔をのぞき込んで、静かに呟いた。
その表情は、普段の無表情より、ほんの少しだけ、柔らかかった。
◆
膝の上で眠るリリティアを、どうしたものかと困っていると、アリアが、そっと立ち上がった。
「魔王様、リリティアさんは、私が、客間で、介抱します」
「……いいのか」
「はい、これも、看病ですので」
アリアは、慣れた手つきで、リリティアの体を抱き上げた。
その細い腕で、軽々と、持ち上げている。
ふと、アリアは、ゼロスの顔を見て、ぽつりと言った。
「魔王様、リリティアさんの、お願い、聞いてあげてください」
「……分かっている」
「ずるいなって、思いました」
「何が」
「二人きりで、お仕えしたい、という言葉が」
アリアは、少し、頬を染めて、苦笑した。
その瞳に、普段のヤンデレの影は、なかった。
ただ、少しだけ、素直な、少女の顔だった。
「でも、リリティアさんの気持ちは、私にも、分かる気がします、お顔が、見られなくて、お側に居るのに、遠くて」
「…………」
「ですから、その日は、私は、扉の前で、待機しています」
「……お前は、除け者にはせん」
「はい、でも、今回は、リリティアさんの、番です」
そう言って、アリアは、眠るリリティアを抱えたまま、静かに歩き出した。
その背中を見送るゼロスの胸の奥で、小さな何かが、ちくりと疼く。
(……俺は、こんな優しい子たちを、置いて、討たれようとしていたのか)
ふと、そんな考えが、頭をよぎった。
慌てて、首を振る。
「勇者殿! 勇者殿ぉぉぉ!」
そのとき、広間の奥から、兵たちの大合唱が響いた。
アリアが、リリティアを抱えたまま、足を止める。
振り返ると、そこには、杯を高々と掲げた、800人の魔王軍が、きらきらと目を輝かせて、押し寄せてきていた。
「勇者殿! 一献、お願いします!」
「勇者殿の、お話を聞かせてくだされ!」
「勇者殿、魔王様とは、どのように、お過ごしで!」
「え、あの、ええと」
アリアは、あっという間に、兵たちの波に飲み込まれていった。
ゼロスは、上座の席で、静かに、その光景を眺めていた。
宴は、まだまだ、終わりそうになかった。




