第18話 予備の軍服3着は、宴の途中で全滅した 〜足りなくなる前に死ぬ予定だったのに、生きているので普通に足りませんでした〜
ネフェリアが運んできた予備の軍服は、漆黒に金糸の刺繍が映える、見事な三着だった。
血とワインで汚れた服を脱いで、ゼロスは、その一着目に、袖を通した。
(残りは二着か、足りるといいが)
前に、似たようなことを考えた記憶がある。
あの時は、足りなくなる前に死ぬ予定だったから、問題ないと思っていた。
だが、今の自分は、死ぬ予定が、すっかり宙に浮いている。
「魔王様ぁぁぁ! おめでとうございますぅぅぅ!」
背後から、腹の底まで響く大声が飛んできた。
振り返ると、料理長のマルガが、大きな寸胴鍋を両手で抱えて、感激の涙を流しながら、突進してくる。
「勇者様と結ばれた魔王様に、特製のスープを、ご用意いたしましたよおお!」
「待て、結ばれてなど、おらぬ、それに、その鍋を、こちらに向けるな」
「さあ、たっぷり、召し上がって!」
どぷん。
鍋の中身が、豪快に、ゼロスの胸元へ降り注いだ。
鮮やかなオレンジ色の、とろりとしたスープが、一着目の軍服を、見事に染め上げていく。
ほのかに、甘い香りが漂った。
「……マルガ、これは」
「ニンジンのポタージュですわ!」
「…………」
(服に、ニンジンが)
ゼロスは、呆然と、自分の胸を見下ろした。
口に入れることさえ、避けてきた野菜が、全身に、ぴったりと密着している。
そこへ、アリアが、笑顔で、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「魔王様、ニンジンは、お体に入れるべきものです、服に、つけるものではありません」
「俺が、つけたのではない」
「では、お召し上がりになれば、解決しますね」
「解決しない」
ネフェリアが、無言で、二着目の軍服を差し出した。
ゼロスは、がっくりと肩を落として、物陰へ向かう。
(二着目、か)
◆
二着目の軍服を着て、広間に戻ってくると、入り口のあたりが、ざわついていた。
人垣の向こうから、ふらふらとした足取りで、ひとりの女性が、現れる。
紫のウェーブヘアが、寝癖でぼさぼさになった、第一軍団長のリリティアだった。
「……あの、皆様、おはようございます、私は、一体、どれくらい、眠って」
「軍団長殿、まだ、夜ですぞ」
「そ、そうですか、頭が、割れるように痛くて」
リリティアは、こめかみを押さえながら、よろよろと、周囲を見回した。
そして、上座の方で、軍服姿のゼロスを見つけて、ぱっと顔を輝かせる。
「魔王様! 昨夜の私は、何か、粗相を」
だが、その瞳は、ゼロスの目を、まっすぐには、捉えなかった。
彼女は、うつむいて、ゼロスの靴のあたりに、視線を泳がせている。
(……素面に戻ったか)
ゼロスは、少しだけ、残念な、いや、ほっとしたような、複雑な気持ちになった。
「リリティア、覚えていないのか」
「ええと、お願いを、申し上げたことだけは、おぼろげに」
「うむ、聞いた」
「! で、では、お聞き届けくださったのですか」
「日を改めて、一日、時間を作る」
リリティアの顔が、見る見るうちに、真っ赤に染まった。
目が、うるうると潤んで、尻尾が、ぴょんぴょんと跳ねる。
「ま、魔王様ぁぁぁ! ありがとうございますぅぅぅ!」
感極まって、リリティアは、ゼロスに向かって、全力で駆け出した。
その両手には、いつの間にか、巨大な皿が掲げられていた。
皿の上には、800人分の祝いのために作られた、人の背丈ほどもある、三段重ねの特大ケーキが載っている。
「待て、リリティア、その皿は」
「お礼に、お持ちいたしましたぁぁぁ!」
ずしゃあっ。
足がもつれて、リリティアが、盛大に転んだ。
宙に舞った特大ケーキが、ゼロスの全身に、見事に、着弾する。
クリームと、果物と、スポンジが、二着目の軍服を、完膚なきまでに、白く塗りつぶした。
静寂が、広間に落ちた。
ケーキまみれの魔王と、床に突っ伏した秘書官を、全員が、固唾を呑んで、見つめている。
「…………魔王様」
「…………何だ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃぃ!」
泣き出したリリティアを、アリアが、そっと抱き起こした。
「リリティアさん、お怪我は、ありませんか」
「ゆ、勇者殿ぉ、私は、魔王様を、ケーキで」
「大丈夫です、お洗濯は、ネフェリアさんが、してくださいます」
「勝手に、決めるな」
ゼロスは、ケーキにまみれた顔で、静かに呟いた。
ネフェリアが、すっと進み出て、三着目の軍服を、差し出す。
その表情は、いつもの無表情だったが、ほんの少しだけ、肩が震えていた。
「魔王様、最後の一着でございます」
「……笑っているだろう、ネフェリア」
「いいえ、決して」
◆
三着目の軍服を着たゼロスは、慎重に、広間の中央から、遠ざかっていた。
(これ以上、汚せば、予備が、尽きる)
絶対に、何も、起きてはならない。
壁際で、じっと、気配を消す。
だが、その平穏は、あっさりと、破られた。
「魔王様ぁぁぁ!」
「勇者殿ぉぉぉ!」
800人の兵たちが、一斉に、こちらへ、押し寄せてきたのだ。
全員が、目を輝かせて、杯を高々と掲げている。
「魔王様と、勇者殿の、ご婚礼を祝して!」
「胴上げだ! 胴上げをするぞ!」
「待て、断じて、婚礼では」
ゼロスの抗議は、800人の大歓声に、あっさりと、飲み込まれた。
ひょい、と、体が宙に浮く。
左右から、無数の腕が、ゼロスを抱え上げ、そのまま、天井めがけて、放り投げた。
「わっしょい! わっしょい!」
「魔王様ぁぁぁ!」
「う、うわあああ!」
視界が、ぐるぐると回る。
広間の天井、ハートの横断幕、兵たちの笑顔、また、天井。
隣では、アリアが、「きゃっ」と小さな悲鳴を上げながら、同じように胴上げされている。
金髪が、ふわりと舞い上がり、白いワンピースの裾が、ひらひらと翻った。
「ま、魔王様、これは、楽しいですね!」
「楽しくない!」
「私は、とても、楽しいです!」
アリアの笑顔が、きらきらと輝いている。
その顔を、空中で、見てしまった。
胸の奥が、ふいに、どきりと跳ねる。
(……いかん、気が散る)
ビリッ。
嫌な音が、した。
着地して、ゼロスは、ゆっくりと、自分の背中に手を回す。
三着目の軍服の背中が、縦に、見事に、裂けていた。
「…………」
「…………」
「…………予備が、尽きた」
広間の兵たちが、一斉に、静まり返った。
やがて、誰かが、ぽつりと、呟いた。
「魔王様の、軍服が」
「三着とも、一晩で」
「なんて、豪快な、お方だ」
「さすがは、魔王様!」
「違う、断じて、違う!」
ゼロスの絶叫が、広間に響き渡った。
足りなくなる前に、死ぬ予定だったはずが、生きているせいで、普通に、足りなくなった。
遠くから、ネフェリアが、すっと近づいてきて、静かに告げる。
「ご安心ください、魔王様、明日までに、新しい軍服を、五着、ご用意いたします」
「……五着も、いるのか」
「はい、今後も、何かと、入用になるかと存じますので」
◆
白いシャツ一枚になったゼロスの肩に、ふわりと、柔らかな布が掛けられた。
見ると、アリアが、自分の白いマントを、そっと羽織らせてくれている。
「また、お貸ししますね」
「……別に、頼んでいない」
「はい、存じております、でも、お風邪を、召されてはいけませんので」
アリアが、くすりと笑う。
そのとき、広間の壁の大きな時計が、午後10時59分を、指した。
アリアは、すっと背筋を伸ばして、広間の中央へ、歩み出る。
「皆さま、まもなく、午後11時です」
ざわざわしていた広間が、ぴたりと、静まった。
800人の兵たちが、一斉に、アリアのほうを向く。
「魔王様の、就寝時間です」
「おお」
「睡眠を守る会、出動だ!」
兵たちは、一瞬で、杯を置いた。
そして、足音ひとつ立てずに、そろりそろりと、出口へ向かって、歩き始める。
きびきびとした、完璧な撤収だった。
お酒を飲んでいたはずの鬼族も、騒いでいたはずの兵たちも、全員、息を殺して、忍び足である。
「おやすみなさいませ、魔王様」
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさいませ」
800人の囁き声が、重なり合って、波のように広間を満たしていく。
ひそひそ声が、一番、うるさい。
ゼロスは、遠い目で、その光景を眺めていた。
「……皆、案外、命令を、聞くのだな」
「はい、皆さん、魔王様のことが、大好きですので」
アリアは、にっこりと微笑んで、ゼロスの腕に、そっと手を添えた。
それから、その手を、引いて、広間の出口へ。
バルザークが、遠くの席から、杯を掲げて、豪快な笑顔で、見送っている。
シェイドが、薄い笑みで、ひらひらと手を振る。
ヴェルミナが、気だるげに、あくびをしながら、手を上げた。
ネフェリアが、完璧な角度で、深々と頭を下げる。
そして、マルガが、おたまを振って、「おやすみなさいねえ」と、にこにこと笑っている。
賑やかで、温かくて、少し馬鹿馬鹿しい、800人の「おやすみなさい」が、魔王の背中を、静かに押した。
横断幕のハートが、夜風に、ゆらゆらと揺れている。
結局、何ひとつ、本当のことは、言えなかった。
けれど、不思議と、悪くない夜だった。
◆
寝室の窓辺で、ゼロスは、ひとり、夜空を見上げていた。
肩には、アリアの白いマントが、まだ掛かっている。
隣で、アリアが、睡眠記録帳に、さらさらと何かを書き込んでいた。
「午後11時02分、就寝準備、開始、ご予定どおりです」
「……記録するな」
「記録は、大事です」
そのとき、窓の外に、黒い影が、舞い降りた。
一羽の魔鳥である。
連盟への報告書を、足に結んで、旅立っていったはずの、あの鳥だった。
その足には、新しい、小さな巻物が、結びつけられている。
巻物の封蝋には、人類連盟の紋章が、はっきりと、刻まれていた。
アリアが、静かに、ペンを置いた。
その横顔から、穏やかな笑みが、すうっと消える。
「……戻ってきましたね」
「連盟の、返事か」
「はい」
彼女は、そっと、窓を開けて、巻物を受け取った。
封蝋を、慎重に外して、広げる。
ゼロスも、横から、のぞき込んだ。
短い文面が、そこには、記されていた。
『報告を受理する 近日中に、連盟監察官を、貴地へ派遣する 勇者アリアは、引き続き、その場に留まること』
アリアは、巻物を、そっと閉じた。
ゼロスは、静かに、息を呑む。
「……監察官、か」
「はい、おそらく、嘘を見抜く方です」
アリアは、ゼロスの手に、自分の手を、重ねた。
そして、まっすぐな瞳で、微笑む。
「でも、大丈夫です、私が、いますから」
「…………」
「魔王様は、今夜は、ゆっくり、お休みください」
ゼロスは、返事をしなかった。
ただ、重ねられた小さな手の温もりを、じっと感じていた。
窓の外では、魔鳥が、月の光を浴びて、静かに羽を休めている。
魔王と勇者の、笑いと嘘に満ちた一夜は、こうして、静かに、幕を下ろした。
けれど、その先に待つ、冷たい風の気配だけは、誰の目にも、はっきりと、感じ取れた。




