第10話 吸血鬼の医務官が魔王の血の匂いを嗅ぎに来た 〜診察から逃げたい魔王を、勇者がラベンダーと笑顔で守りました〜
午前8時55分。
ゼロスは執務机の前に座り、書類に判を押すふりをしながら、頭の中で、ある計画を最終確認していた。
題して、『医務官ヴェルミナ回避マニュアル・改訂第12版』である。
三年間の研鑽の成果で、急な軍議、偽の腹痛、窓からの脱出など、あらゆる手段が網羅されている。
(今日こそ、完璧に逃げ切る)
そう決意して、ゼロスはそっと席を立った。
「魔王様、どちらへ」
「手洗いだ」
「ご一緒します」
「手洗いまで来るな」
「では、扉の前で、お待ちします」
アリアは、きょとんと首をかしげたまま、当然のようについてきた。
(……厄介だ、この勇者は、本当に、地の果てまで来る)
ゼロスは仕方なく、手洗いの個室に入って、内側から鍵をかけた。
そして、壁の一部を押す。
魔王専用の隠し通路が、音もなく口を開けた。
三年前、歴代魔王の記録を調べている途中で見つけた、とっておきの脱出路である。
(これなら、勇者といえど)
通路を抜けた先は、城の裏庭の物置小屋だった。
扉を開けた瞬間、目の前に、にこにこと微笑む少女が立っていた。
「お疲れ様です、魔王様」
「…………なぜ、ここにいる」
「今朝、ネフェリアさんに、教えていただきました、この通路の出口は、ここだと」
(あのメイド長、すべてを売ったのか)
ゼロスは、がっくりと肩を落とした。
アリアは、にっこり笑って、ゼロスの腕に、自分の腕を、ぴたりと絡める。
「それでは、医務局まで、ご一緒しましょう」
「……待て、この体勢は」
「逃げられないように、ですよ」
◆
魔王城の廊下は、朝から騒がしかった。
ゼロスが、勇者に腕を組まれて連行されていく姿を、すれ違う兵たちが、驚愕と感動の入り混じった表情で見送っている。
「魔王様が、勇者殿と腕を組んでおられる」
「あれも、策の一環なのか」
「なんて、仲睦まじい、いや、なんて、巧妙な」
ひそひそ声が、廊下の両側から、波のように広がっていく。
(違う、断じて違う、これは連行だ、囚人は俺だ)
ゼロスの心の叫びは、誰にも届かない。
その少し後ろでは、手帳を片手にしたリリティアが、柱の陰から顔を出して、ぶつぶつと記録をつけていた。
「午前8時57分、勇者殿、魔王様と腕を組む、午前8時58分、勇者殿、魔王様と、歩調を合わせる、不埒です、断じて不埒です」
彼女の尻尾が、嫉妬のあまり、ぐるぐると渦巻いている。
だが、その視線は、相変わらずゼロスの顔を避けている。
(……見つかっていないだけ、ましか)
医務局の扉の前で、アリアは、ぴたりと足を止めた。
そして、小さな声で、ゼロスに耳打ちした。
「魔王様、ひとつだけ、お伝えしておきます」
「何だ」
「ヴェルミナ様は、吸血鬼の方だと、今朝、伺いました、血の匂いに、とても敏感だと」
「…………」
「ですから、朝のうちに、少しだけ、準備をしておきました」
アリアは、ゼロスの襟元に、そっと顔を近づけた。
ふわり、と、淡いラベンダーの香りが漂った。
今朝着せられた軍服の襟にも、袖口にも、懐のハンカチにも、すべて、同じ香りが染み込んでいる。
「……これは」
「香りで、他の匂いを、少しだけ隠せないかと、思いまして」
「なぜ、そこまで」
「魔王様が、診察を、嫌がっておられるからです」
アリアは、まっすぐな瞳で、ゼロスを見上げた。
「お体のことは、本当は、きちんと診ていただきたいです、でも、魔王様がお隠しになりたいというなら、私は、それをお守りします、今日だけは、盾になります」
(……こいつは、本当に)
ゼロスは、胸の奥が、ぎゅっと熱くなるのを感じた。
照れくささをごまかすように、わざとそっぽを向く。
「……礼は、言わぬぞ」
「はい、お顔が、言っておられます」
「顔に出ていたのか」
「はい、少しだけ、赤くなっておられます」
アリアは、くすくすと笑って、医務局の扉を、静かに押し開けた。
◆
医務局の診察室は、想像以上に、混沌としていた。
壁には、用途の分からない器具が整然と並んでいる。
牙の形をした注射器、鉄色の液体が詰まった瓶、「採血用ストロー」と書かれた謎の道具。
その奥の机に、白衣を羽織った女性が、気だるげに足を組んで座っていた。
「よう、やっと来たね、魔王様」
吸血鬼族の医務官、ヴェルミナ・クローディアである。
白衣の下に黒のドレスシャツを着崩して、眠たげな目を、半分だけ開けている。
唇の端から、かすかに犬歯がのぞいていた。
「三年間で、診察の予約が47回、すべて欠席だったのは、魔王城の歴史上、あんたが初めてだよ」
「それは、その、軍務が」
「ほら、袖をまくりな」
ヴェルミナは、ゼロスの言い訳を一蹴して、立ち上がった。
カツン、とヒールの音が、診察室に響く。
彼女は、ゼロスの目の前まで歩み寄ると、鼻先をひくひくと動かした。
「……おや」
「な、何だ」
「今日は、やけに、爽やかな匂いがするね、ラベンダーかい」
「ええと、これは」
「昨夜は、よく眠れるようにと、お部屋にラベンダーの香りを、用意いたしました」
アリアが、すかさず、にこやかに割って入った。
嘘は、ひとつもない。
ただ、用意したのが誰か、そして何のための香りだったのかが、巧妙に省かれているだけである。
ヴェルミナは、勇者の顔を、ちらりと一瞥した。
「あんたが、噂の、勇者ちゃんかい」
「はい、アリア・ヴァンガードと申します、よろしくお願いします」
「ふーん、いい子そうじゃないか、でも、目が、笑ってないね」
「そうでしょうか」
「うん、そのにこにこ顔の下で、何か、考えてる顔だ」
ヴェルミナは、にやりと笑って、ゼロスの手首を、むんずと掴んだ。
「さあ、診察を始めようか、まずは脈診からだ」
◆
ヴェルミナの指が、ゼロスの手首に、そっと触れた。
彼女は目を閉じて、鼻をひくつかせ、集中するように、深く息を吸い込む。
これが、吸血鬼族である彼女の【血脈診断】だった。
血の匂いと、脈の流れから、相手の体調を細かく読み取る、医務官にとっての必殺技である。
「……へえ」
しばらくして、ヴェルミナは、ゆっくりと目を開けた。
「疲労の匂いが、いつもより、3割は薄いね、よく眠った証拠だ、睡眠令とやらは、あたしの診察より、よっぽど効いてるじゃないか」
「そ、そうだろう」
「でも」
ヴェルミナの眉間に、皺が寄った。
「おかしいね、あんたの疲労の下に、別の疲労の匂いが、混ざってる」
「別の、疲労」
「これは、リリティアの匂いだ、徹夜で何かしてた、やつの」
ゼロスの背筋が、凍りついた。
昨夜、観葉植物の陰で、寝落ちしていたはずのリリティアの疲労が、そのまま、自分に流れ込んでいたのだ。
(そこまで、読めるのか)
冷や汗が、背中を伝う。
ヴェルミナは、ゼロスの手首を握ったまま、じっと、彼の顔を見つめた。
「どういうこった、魔王様、あんたの体から、他人の匂いがする、一晩中、リリティアと一緒にいたのかい」
「違う、断じて違う、リリティアは、廊下の植物の陰で、寝ていただけだ」
「…………は?」
「監視任務の、続きだ」
診察室に、気まずい沈黙が落ちた。
ヴェルミナは、ぽかんと口を開けたまま、数秒、固まっている。
やがて、彼女は、ゆっくりと眉をひそめた。
「つまり、リリティアが、廊下で徹夜して寝落ちして、その疲れの匂いが、あんたの体から、するってことかい」
「そ、そうなる」
「へえ、おもしろい体質だね、いや、体質じゃない、これは」
ヴェルミナは、手首を握る指に、力を込めた。
彼女の瞳孔が、きらりと細く光る。
「ちょっと、採血させてもらおうか、ほんの一滴で、いいんだ」
「待て、それは」
「いいだろ、あたしは医者だ、診たい患者を、診るのが仕事だ」
ヴェルミナが、牙の形をした注射器を、すっと構えた。
ゼロスが、思わず後ずさろうとした、その瞬間。
白いワンピースの影が、すっと割って入った。
「お待ちください」
アリアが、ゼロスとヴェルミナの間に立ち、両手を広げていた。
穏やかな笑顔のまま、蒼い瞳から、星の光が、すうっと消えていく。
「採血は、お断りします」
「おや、勇者ちゃん、邪魔するのかい」
「診察には、事前の同意と、範囲の確認が必要です、本日は、脈診までの合意です、採血と、血の匂いを深く読む診断は、含まれておりません」
「あんた、いつから魔王様の弁護士になったんだい」
「いつからでも、構いません」
にこにこと、穏やかな笑顔のまま、アリアは、一歩も引かない。
ヴェルミナは、注射器を構えたまま、しばらく勇者の顔を見つめていた。
「……おお、怖い、さっきまで、青い瞳だったのに、今は深海みたいだ」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
ヴェルミナは、ふっと息を吐いて、注射器を机に置いた。
「分かったよ、今日は、勇者ちゃんに免じて、ここまでにしてやる」
◆
診察室を出る直前、ヴェルミナは、ゼロスの背中に、気だるげに声をかけた。
「でもね、魔王様」
「……何だ」
「あたしは、診ると決めた患者は、逃がさない主義でね、あんたの匂いの正体は、必ず、突き止める」
「…………」
「それまでは、せいぜい、よく眠って、よく食べて、健康でいるんだよ」
その言葉は、脅しのようでもあり、気遣いのようでもあった。
ゼロスは、何も答えられずに、ただ頷くしかなかった。
扉が閉まる寸前、ヴェルミナは、アリアにだけ聞こえる声で、ぽつりと付け加えた。
「勇者ちゃん、あんた、何か知ってるだろ」
「何のことでしょうか」
「いいさ、嘘が下手な患者は、あたしには、すぐ分かるんだ、あんたは、嘘が上手そうだけどね」
最後に、ふふ、と笑う声がして、ヴェルミナの気配は、廊下の向こうへ消えていった。
医務局の前の廊下に、ゼロスとアリアは、二人きりで残された。
ゼロスは、壁にもたれて、はあ、と大きく息を吐く。
「……助かった」
「いえ、とんでもありません」
「礼は、言わぬと言ったが、今のは、撤回する、助かった」
ゼロスの不器用な言葉に、アリアは、ぱっと顔を輝かせた。
その頬が、ほんのり桜色に染まっている。
「どういたしまして、ですが、魔王様」
「何だ」
「診察で、お体のことをお隠しになるのは、私は、あまり、好ましくないと思っています」
「…………」
「今日は、盾になりましたが、いつまでも、というわけには、まいりません」
穏やかな声だった。
けれど、その奥には、確かな意志が、静かに息づいていた。
「ですから、同居のルールを、きちんと決めさせてください、特に、吐血をされた時の、ご報告について」
(……来たか)
ゼロスは、観念したように目を閉じた。
逃げ道は、もう、どこにも残されていない。
勇者は、盾にもなれば、檻にもなる。
その両方を、満面の笑顔で、同時にやってのけるのが、この少女なのだと、ゼロスは、改めて思い知らされた。
「……会議、か」
「はい、同居ルール会議です、今夜、お夕食のあとに」
「…………承知した」
こうして、討たれるはずだった魔王は、また一つ、逃げ道を失った。
だが、胸の奥に、ほんの少しだけ、悪くない感覚が残っていたことは、ゼロス自身にも、まだ、認められなかった。




