第9話 気まずい沈黙
カルドナに来て三日目の朝、青山が宿の食堂で簡素な朝食を取っていると、見覚えのある人物が入り口から顔を覗かせた。
「あ……いた」
昨日、市場で財布を盗まれかけたところを助けた、あの女性だった。改めて明るい日差しの下で見ると、青山と同年代か、少し若いくらいだろうか。旅装から察するに、行商か何かで各地を回っている人物のようだった。
「昨日はどうもありがとうございました。名前も伺えなかったので、あちこち探していたんです。ノエラといいます」
彼女――ノエラは、そう言って屈託のない笑顔を浮かべた。
「青山です。あの、探していたというのは……」
「お礼がしたくて。あのままだったら、旅の路銀を全部失うところでしたから。よかったら、今夜、夕食をご一緒しませんか。この街で美味しいと評判の店を知っているんです」
その申し出は、ごく自然な、感謝の気持ちの発露だった。誰がどう見ても、そこに裏があるとは思えないほど、屈託のない誘い方だった。
それでも、青山の頭の中では、いつもの思考回路が勝手に動き始めていた。
(――なぜ、そこまでする必要がある。財布の中身を助けただけの相手に、わざわざ食事に誘うほどの恩義を感じるものだろうか)
(この街に着いたばかりの、身元も知れない旅人に対して、警戒心を持たないのだろうか。それとも、何か別の目的が――)
考え始めると、際限がなかった。ノエラの立場で青山を騙して得るものが、具体的に何かあるとは思えない。それでも、思考が勝手に「あり得るかもしれないシナリオ」を組み立ててしまう。かつての職業病とも言える癖が、この異世界でも変わらず青山を縛りつけていた。
「……せっかくですが、遠慮しておきます」
青山は、そう答えるのが精一杯だった。
ノエラの表情に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
「そう、ですか……ご迷惑でしたら、無理にとは言いませんが」
「いえ、迷惑というわけでは」
言葉に詰まる。理由をどう説明すればいいのか、青山自身にも分からなかった。「あなたを疑っているわけではない、ただ自分がまだ、誰かの善意を素直に受け取れるだけの心の余裕がない」――そんな複雑な内心を、初対面に近い相手に伝える術など、青山は持ち合わせていなかった。
結局、青山はただ「申し訳ありません」とだけ繰り返し、その場をやり過ごした。ノエラは少し寂しそうな顔をしながらも、「また街のどこかで会えたら」とだけ言い残し、食堂を後にした。
残された青山は、冷めかけたスープを見つめながら、深いため息をついた。
(――あれで、良かったのだろうか)
もちろん、判断そのものは、青山なりの原則に則ったものだった。即決せず、相手の善意であっても安易に受け入れない。それは、地面師詐欺の教訓から導き出した、自分を守るための行動指針のはずだった。
だが、心のどこかで、拭いきれない違和感が残っていた。
その日の昼過ぎ、青山は宿の主人からも、似たような戸惑いをぶつけられることになった。
「兄さん、昨日から見てるが、随分と用心深いんだな。うちの朝食も、値段を三回も確認して、材料まで聞いてきたのは、開業以来、兄さんが初めてだよ」
宿の主人は苦笑しながら、そう言った。悪気のある言い方ではなかったが、青山には、それが暗に「異様だ」と指摘されているように聞こえた。
「すみません、癖のようなものでして」
「別に責めてるわけじゃないさ。ただ、そんなに気を張ってちゃ、疲れるだろうと思ってな。せっかくの旅なんだから、少しは肩の力を抜きなよ」
主人の言葉は、悪意のない、ごく普通の親切心から出たものだった。それが分かるからこそ、青山は素直に頷くことも、かといって反論することもできず、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
部屋に戻った青山は、寝台に腰掛け、これまでのやり取りを一つ一つ振り返っていた。
ノエラの誘いを断ったこと。宿の主人の何気ない親切に、いちいち裏を疑うような反応をしてしまったこと。それらは、決して間違った判断ではない――そう自分に言い聞かせようとするのだが、同時に、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さったままだった。
(前世でも、似たようなことがあった)
思い返せば、地面師詐欺の一件以前から、青山には、この手の"堅すぎる"性格が滲み出ていたように思う。同僚たちが気軽に交わす世間話にも、どこか一歩引いた距離感を持ってしまう。上司からの評価は高くとも、飲み会に誘われることは少なかった。人当たりが悪いわけではない――ただ、誰かと本当の意味で心を開いて付き合うことが、昔から苦手だったのだ。
その性質が、今、この異世界でさらに色濃く現れている。
(善意を素直に受け取れないことと、警戒を怠らないことは、本当に同じ意味なのだろうか)
その問いに、青山はすぐには答えを出せなかった。
夕方、青山は気分を変えようと、再び街の通りへ出た。オレンジ色に染まる空の下、露店の明かりが一つ、また一つと灯り始めている。
通りの向こうに、ノエラの姿が見えた。他の旅人たちと楽しげに談笑しながら、屋台で買った串焼きを頬張っている。屈託のない笑い声が、雑踏の中でも青山の耳にはっきりと届いた。
あの明るさこそが、彼女という人間の本質なのだろう。少なくとも、青山の【査定眼】は、彼女の言動に何一つ矛盾を検知していない。にもかかわらず、自分はその善意を真正面から受け止めることができなかった。
(俺が失ったのは、金だけじゃなかったのかもしれない)
地面師詐欺で失ったのは、財産や社会的な信用だけではない。人の好意を、素直に「好意」として受け取る、その単純な力そのものを、失ってしまったのではないか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
だからといって、今すぐ警戒を解くつもりはない。それは、青山にとって譲れない一線だった。だが、警戒することと、心を頑なに閉ざし続けることは、本来別のものであるべきだと、青山はぼんやりと感じ始めていた。
その境界線を、どこに引くべきなのか。答えはまだ、遠い。
通りの向こうで、ノエラがふとこちらに気づき、小さく手を振ってきた。
青山は、ほんの一瞬迷った後、ぎこちなくではあったが、小さく会釈を返した。
それは、警戒を解いたわけでも、心を開いたわけでもない。ただ、この気まずさを、これ以上大きくしないための、ささやかな歩み寄りだった。
夜の帳が下りていくカルドナの街で、青山は自分の中にある矛盾と、静かに向き合い続けていた。




