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第32話 綻びの糸口

 リディアとの一件から数日、青山のもとに、レイナから調査の報告が届いた。


「隣国からの商人という話ですが……正直、少し引っかかる点がありました」


 ギルドの一室で、レイナは、手元の書類に目を落としながら、そう切り出した。窓から差し込む午後の光が、彼女の広げた資料を、静かに照らしていた。


「引っかかる点、というと」


「リディアさんが名乗っている出身の街ですが、そこに問い合わせても、該当する商家の記録が見つからないんです。もちろん、記録に残らない小さな商いをされていた可能性もありますが……」


「他には」


「宿の宿泊記録によれば、彼女がこの街に来たのは、およそ一ヶ月前です。ですが、以前、青山さんが伺った際、"あちこちで噂を耳にしていた"とおっしゃっていたそうですね。一ヶ月という短い期間で、そこまで詳しい噂を集められるものかどうか、少し疑問に思いました」


 その指摘に、青山は静かに頷いた。確かに、投資詐欺や偽造証明書事件の噂が広まっていたとはいえ、一ヶ月という短期間で、初対面の相手に「あちこちで聞いた」と言えるほどの情報を集めるのは、決して簡単なことではない。


「もう一つ、気になることが」


 レイナは、さらに言葉を続けた。テーブルの上の書類を、もう一枚めくりながら。


「彼女が滞在している宿の部屋ですが、実は、もう一部屋、別の名義で借りられているようなんです。宿の主人に、それとなく聞いてみたところ、時折、別の女性が出入りしているとのことでした」


「――別の女性、ですか。どのような人物か、分かりますか」


「宿の主人の話では、地味な身なりの、年配の女性だそうです。使用人のようにも見えるが、はっきりとしたことは分からない、と。夜遅くに出入りすることが多く、宿の他の客と、あまり顔を合わせないようにしている様子だったとも言っていました」


 その説明に、青山は、静かに眉をひそめた。使用人というだけであれば、特に不自然な話ではない。だが、わざわざ他の客との接触を避けているような素振りには、何か理由がありそうだった。


「詳しい素性までは、まだ分かりませんが」


 青山の中で、これまで漠然としていた違和感が、少しずつ、輪郭を帯び始めていた。


 その日の午後、青山は、再びリディアと顔を合わせる機会があった。彼女は、以前と変わらぬ柔らかな笑顔で、青山を出迎えた。


「青山さん、この間はありがとうございました。あの後、少し落ち着いて考えることができました」


「それは、良かったです。……差し支えなければ、以前伺った、故郷での借金の話について、もう少し詳しく教えていただけますか」


 青山は、努めて自然な口調で、そう切り出した。


「ええ、もちろんです。……確か、三年前だったかしら。父の商いが傾いてしまって、それで」


「三年前、ですか。以前は、"故郷にいた頃"という表現をされていましたが、それは、もう少し最近の話だったのでは?」


 青山の指摘に、リディアの表情に、一瞬だけ、微かな動揺が走った。だが、それは本当に一瞬のことで、次の瞬間には、既にいつもの柔らかな微笑みに戻っていた。


「――ああ、そうでしたね。えっと、正確には、二年前だったかもしれません。細かい時期までは、あまり覚えていなくて」


「なるほど。ちなみに、その借金の相手というのは、どのような方だったのでしょうか」


「それは……あまり、思い出したくないことなので」


 リディアは、そう言って、目を伏せた。その仕草には、確かに、痛みを堪えているような雰囲気があった。長い睫毛が、震えるように揺れている。だが、青山の中では、先ほどの「時期の食い違い」という事実の方が、より強く印象に残っていた。


(――記憶違い、で片付けられる範囲なのだろうか)


 人の記憶は、時に曖昧になるものだ。三年前と二年前を、単純に言い間違えることも、十分にあり得る。だが、投資詐欺のセルジオやヴォルグ、偽造証明書の一味など、これまで青山が対峙してきた詐欺師たちは、いずれも、自分の語る"物語"の細部を、驚くほど正確に記憶していた。それは、繰り返し同じ話を語ることで、嘘を"事実"として、自分の中に定着させていたからだろう。


 人は、本当に体験したことであれば、細部が多少曖昧になっても、根本の骨格――いつ、誰が、何をしたのか――は、案外はっきりと覚えているものだ。逆に、作られた物語であればあるほど、細部を作り込みすぎて、かえって記憶違いのような綻びが生まれることもある。


 もし、リディアの話に、本当に矛盾があるのだとすれば――それは、彼女がまだ、この"物語"を語り慣れていない、比較的新しい詐欺師である可能性を示しているのかもしれなかった。


「申し訳ありません、辛い記憶を思い出させてしまって」


 青山は、そう言って、その場での追及を、一旦切り上げた。今はまだ、確信を持って断定できる段階ではない。焦って問い詰めれば、相手に警戒され、これ以上の情報を得られなくなる可能性もある。


「いいえ、大丈夫です。青山さんが、私のことを気にかけてくださるだけで、十分嬉しいですから」


 リディアは、そう言って、いつもの柔らかな笑みを取り戻した。その表情に、先ほどの動揺の名残は、もう見当たらなかった。切り替えの早さもまた、青山の中に、小さな違和感として残った。


 その夜、青山は、宿の部屋で、今日得た情報を、整理していた。


 机の上に、粗末な紙を広げ、これまで分かっている情報を、一つ一つ書き出していく。時期の食い違い。もう一部屋の存在。そして、故郷の商家の記録が見つからないという事実。一つ一つは、決定的な証拠とは言えない。だが、それらが積み重なるにつれて、青山の中の疑念は、確実に形を成しつつあった。


 こうして紙に書き出してみると、投資詐欺のセルジオやヴォルグの一件と、構造的な類似点が、いくつも見えてきた。曖昧な出自、確認の取れない過去の経歴、そして、判断を急がせようとする巧みな誘導。手口の"型"そのものは、対象が契約書であれ、人の感情であれ、根本的には、さほど変わらないのかもしれない。


 翌日、青山は、エリスにも、これまでの経緯を詳しく共有した。


「――なるほど。"もう一部屋"というのが、気になりますね」


 エリスは、腕を組みながら、そう呟いた。


「好意を利用した詐欺の場合、単独で動くよりも、複数人で役割を分担することが、しばしばあります。例えば、一人が"ターゲットに近づく役"、もう一人が"裏で情報を集めたり、資金を管理したりする役"、というように」


「なるほど……。年配の女性というのも、その役割分担と、辻褄が合いそうですね」


 青山は、そう相槌を打ちながら、頭の中で、これまでの情報を、一つの図として組み立て始めていた。


「ええ。若い女性が前面に立って好意を装い、年配の女性が、裏方として情報収集や、資金の管理を担う。私が過去に見てきた手口の中にも、似たような構成のものがありました」


「もし、その通りだとすれば……」


「ええ。リディアさんの背後に、もう一人、あるいはそれ以上の共犯者がいる可能性があります」


 エリスの分析に、青山は、静かに頷いた。長年、詐欺の実行側にいた彼女の知見は、こうした場面で、何よりも頼りになる武器だった。


(一人で判断できる範囲を、既に超えている)


 これまでの事件と同様、今回もまた、一人の力だけでは、全貌を掴みきれない可能性が高い。エリスの知識、ガロンの機動力、そしてレイナやジークといった、街の協力者たち。それぞれの力を借りながら、慎重に、しかし着実に、真実へと近づいていく必要があった。


 思えば、ロウレル村での孤立から始まったこの旅は、いつしか、こうして頼れる仲間たちと共に、一つの謎に立ち向かえるところまで来ていた。それは、決して当たり前のことではないと、青山は改めて実感していた。


「もう少し、時間をかけて、裏取りを進めましょう」


 青山は、そう提案しながら、あの日、ロウレル村を出る前に自分に課した三つの原則を、改めて胸の中で確認していた。即決せず、独りの言葉を信じず、保留を恐れず。今回もまた、その原則が、確かな指針になっていた。


「ええ、賛成です。……ただ、青山さん」


 エリスは、少し心配そうな表情を浮かべた。


「もし、彼女が本当に、あなたに対して、何らかの感情を抱いているのだとしたら――それはそれで、また違う種類の難しさが、この件にはあるかもしれません」


 その言葉に、青山は、少し複雑な思いを抱いた。詐欺であるかどうかという事実と、そこに込められた感情の真偽は、必ずしも一致するとは限らない。エリス自身が、かつてそうであったように。


 演技の中に、わずかでも本物の感情が混じっているとしたら――それを見抜くことは、契約書の矛盾を見つけることよりも、遥かに困難な作業になるだろう。人の心は、白か黒かで、単純に割り切れるものではない。


 夜の帳が下りるカルドナの街で、青山は、綻び始めた糸の先に、何が待ち受けているのか、静かに思いを巡らせていた。時期の食い違い、もう一部屋の存在、そして、記録に残らない出身の商家。それぞれの糸を、慎重に手繰り寄せていけば、いずれ、リディアという人物の、本当の姿が見えてくるはずだった。


 だが、その先に待っているものが、単純な詐欺の構図なのか、それとも、もっと複雑な事情を抱えたものなのか――青山には、まだ、その答えを見通すことができずにいた。窓の外の月明かりだけが、静かに、部屋の中を照らし続けていた。

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