第26話 信じない、という信頼
エリスの告白から、数日が経った。
その間、青山は特に何をするでもなく、いつも通り、街での依頼をこなしながら過ごしていた。だが、頭の片隅では、常にエリスのことを考えていた。
答えを急ぐつもりはなかった。だが、答えを出さないままでいることもまた、青山にとっては、一種の不誠実さのように思えた。曖昧な態度のまま、彼女との距離を測りかねているだけでは、いずれ関係そのものが、宙に浮いたまま朽ちていってしまう。それは、青山の望むところではなかった。
その間、青山はいくつか、さりげない形で、エリスの動向を確認していた。市場での商談の様子、他の商人たちとのやり取り、街の人々からの評判。表立って調べ回るのではなく、あくまで日常の中で、自然に得られる情報を、注意深く拾い集めていく。
ある日、青山は、エリスが仲介したという取引先の一つを、それとなく訪ねてみた。以前、市場で見かけた、あの雑貨店の店主だった。
「エリスさんとの取引ですか? いやあ、あれ以来、うちの商売は本当に上向きましてね。約束通りの条件を、きっちり守ってくれましたよ」
店主は、何の疑いもなく、そう語った。その言葉に、作られた様子は見受けられなかった。
別の日には、以前、老爺が土地を騙し取られたという話をしてくれた、王都からの商人にも、それとなく話を聞いた。
「あの女が、こっちでそんな真っ当な仕事をしてるとはな。……まあ、人間、変わることもあるんだろうよ。それが、本物かどうかは、また別の話だが」
商人の言葉には、半信半疑の色が滲んでいた。それは、青山自身の中にある葛藤とも、重なるものだった。
結果として見えてきたのは、あの日、茶房で語られた言葉と、矛盾しない生き方だった。エリスが仲介する取引は、いずれも公正で、関係者全員に利益をもたらすものばかりだった。彼女に不利益を被った、という声は、青山が調べた限りでは、一つも見つからなかった。
(少なくとも、この街に来てからの彼女の行動には、裏がない)
もちろん、それだけで全てを信じ切るには、まだ材料が足りない。だが、青山の中で、一つの結論が、少しずつ固まりつつあった。
ある日の夕方、青山は市場でエリスを見かけ、声をかけた。
「エリスさん。少し、お時間をいただけますか」
「――ええ、もちろん」
エリスの表情には、あの日以来、どこか身構えたような硬さが見え隠れしていた。判決を待つ被告人のような、そんな緊張感が、彼女の所作の端々から滲んでいた。
二人は、いつもの茶房ではなく、市場の外れにある、小さな公園のベンチに腰を下ろした。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。近くでは、数人の子供たちが、無邪気にはしゃぎながら駆け回っている。その光景は、これから交わされるであろう緊張した会話とは、あまりに対照的だった。
「この数日、あなたのことを、それとなく見させていただきました」
青山は、率直にそう切り出した。
「――やはり」
エリスは、小さく苦笑した。
「あなたなら、そうするだろうと思っていました。それで、判決は?」
「判決、というほど大それたものではありません」
青山は、静かに言葉を続けた。
「この街での、あなたの行動には、今のところ、明確な矛盾は見当たりませんでした。雑貨店の店主も、取引先の商人たちも、あなたへの評価は、一様に好意的でした。誰一人として、不利益を被ったという声は、聞かれませんでした」
「――丁寧に、調べてくださったんですね」
「ですが、それは、あなたが完全に信頼できるということの、証明にはなりません」
「――承知しています」
「その上で、一つ、ご提案があります」
青山の言葉に、エリスは、わずかに目を見開いた。
「私は、これから、この街で、ある構想を実現したいと考えています。詐欺や不正を未然に防ぐための、仕組みそのものを作りたいんです。契約の公正さを保証する制度、第三者による査定、そういった枠組みを」
「――大きな話ですね」
「まだ、漠然とした構想の段階です。ですが、それを実現するには、私一人の力では、到底足りません。人を見抜く力、交渉の技術、そして、この世界の裏側を知る知識。それらを持つ人材が、必要になります」
青山は、これまでの経緯を、かいつまんで説明した。投資詐欺の一件で感じた、街をまたいだ対策の必要性。偽造証明書事件で見えた、制度そのものに潜む隙間。ジークやギルドマスターから受けた、様々な打診。それら一つ一つの経験が、少しずつ積み重なって、一つの構想へと結晶しつつあることを、青山は丁寧に言葉にしていった。
「あなたに、その一端を、担っていただきたいと思っています」
エリスは、しばらく無言のまま、青山を見つめ返していた。
「――私を、信用してくださる、ということですか」
「いいえ」
青山は、はっきりと首を振った。エリスの表情に、一瞬、微かな落胆がよぎったように見えたが、青山は構わず言葉を続けた。
「信用は、していません。少なくとも、今の時点では。あなたのこれまでの言動に、大きな矛盾がなかったというだけで、それは、完全な信頼とは違います」
その言葉に、エリスは、意外にも、安堵したような笑みを浮かべた。
「――ふふ、それで、いいんです。むしろ、その方が、私にとっては、都合がいい」
「都合がいい、とは」
「もし、あなたが私を無条件に信頼していたら、私はきっと、その信頼に甘えてしまう。ですが、あなたが私を見張り続けてくれるのなら、私は、二度とあの過ちを繰り返すことができません。あなたの目こそが、私にとって、何よりの歯止めになる」
エリスは、そう語りながら、自分の両手を、静かに見つめた。かつて、多くの人を欺くために使ってきた、その手のひらを。
その言葉に、青山は、静かに頷いた。地面師詐欺の被害者だった自分が、かつての加害者の一人と、こうして手を組む日が来るとは、この世界に来る前の自分には、到底想像もつかなかったことだった。だが、それは、単純な赦しでも、忘却でもない。互いに、譲れない一線を保ったまま、それでも共に前へ進むための、一つの形だった。
「では――」
「ええ、喜んで。あなたの構想に、協力させてください」
エリスは、そう言って、初めて、屈託のない笑みを浮かべた。これまでの、どこか演出めいた微笑みとは違う、自然な表情だった。子供たちの笑い声が、遠くから、二人の間に流れ込んできた。
夕暮れの公園で、二人は静かに、これからのことを話し始めた。
青山は、これまでの経緯――投資詐欺の一件、偽造証明書事件、そして、自分の中で少しずつ形になりつつある、街の信用を支える仕組みの構想――を、順を追って説明した。エリスは、時折、鋭い指摘や、実務的な視点からの助言を挟みながら、真剣に耳を傾けていた。
「あなたの構想、面白いですね。単に不正を取り締まるだけでなく、そもそも不正が生まれない仕組みを作る、というのは」
「まだ、実現できるかどうかも分かりません。ですが、少なくとも、目指す方向としては、間違っていないと思っています」
青山は、そう答えながら、これまでの半年足らずの日々を、心の中で振り返っていた。ロウレル村での孤立から始まり、カルドナでの数々の事件を経て、ようやく形になりつつある、この構想。まだ何一つ実現していないが、その芽は、確かに育ち始めていた。
「私にできることであれば、何でも協力します。仲介の経験から言えば、契約の場に第三者が入るだけで、双方の駆け引きの質が、大きく変わるものです。あなたの言う"公正さを保証する制度"は、決して絵空事ではありません」
エリスは、そう言いながら、これまでの仲介人としての経験から、具体的な事例をいくつか挙げてみせた。取引の場に、利害関係のない第三者を置くことで、双方が無理な駆け引きをしにくくなること。査定の基準を明文化しておくことで、後々の紛争を未然に防げること。それらは、実務に即した、実に的確な視点だった。
「ただし――」
エリスは、いたずらっぽく微笑んだ。
「私のことは、これからも、しっかり疑ってくださいね。それが、あなたと私の、正しい関係の築き方でしょうから」
その言葉に、青山は、思わず小さく笑った。
誰も信じないという原則を、これで曲げたわけではない。むしろ、信じないままでも、確かな協力関係を築けるという、新しい形の繋がりを、青山は初めて知った気がしていた。
(信頼ではなく、検証を重ねた上での、共犯関係のようなものか)
それは、これまでの青山の生き方からは、少し外れた、新しい在り方だった。だが、決して悪い変化ではないと、青山は感じていた。誰も信じないという原則は、人との繋がりを完全に断つことを意味するわけではない。むしろ、確かめ続けるという行為そのものが、一つの関わり方になり得るのだと、青山は今、初めて実感していた。
これから、エリスと共に、どんな道を歩んでいくことになるのか。詐欺や不正を未然に防ぐという、まだ漠然とした構想が、どんな形を成していくのか。その全貌は、青山自身にも、まだ見えていなかった。だが、少なくとも、一人きりでは辿り着けなかった場所へ、確かな一歩を踏み出したという実感だけは、はっきりと胸に残っていた。
夜の帳が下り始めたカルドナの街で、青山とエリスは、これから始まる新しい関係の第一歩を、静かに踏み出していた。互いに一線を保ったまま、それでも同じ方向を見て歩き出す。それもまた、青山にとっての、確かな前進だった。




