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第23話 見えない歪み

 翌朝、青山はギルドを訪れ、レイナに前日の出来事を伝えた。


「エリス、ですか……」


 レイナは、少し考え込むような表情を見せた。


「実は、私も名前だけは耳にしたことがあります。王都の方で、非常に手腕のある仲介人として知られている、と。ただ、正式にギルドへ登録されている人物ではないので、詳しい経歴までは分かりません」


「登録されていない、というのは」


「ギルドを介さず、個人的な繋がりだけで仕事をしている、ということです。腕のある方には、時々そういう方がいらっしゃいます。実力さえあれば、組織に頼らなくても、仕事は舞い込みますから」


 その説明に、青山は静かに頷いた。組織に属さないということは、それだけ、外部からの検証が及びにくいということでもある。


「青山さんの話を伺う限り、エリスさんの手腕は、本物のように思えます。ただ……」


「ただ?」


「あまりにも隙がなさすぎるというのは、逆に言えば、それだけ用心深く、自分の情報を管理している、ということかもしれません」


 レイナの指摘は、青山自身が抱いていた違和感と、重なる部分があった。


「本物の実力者であればあるほど、周囲からの詮索を嫌う傾向があります。実力を隠す必要がない分、逆に、余計な詮索を避けたいと思うものですから」


「なるほど……。もう一つ伺いたいのですが、王都での評判について、もう少し詳しいことは分かりませんか」


「私の方でも、少し調べてみます。もしかしたら、王都出身の商人の中に、エリスさんと直接取引をしたことがある方がいるかもしれません」


「助かります」


 レイナはそう請け合いながらも、どこか気がかりそうな表情を浮かべていた。


「青山さん、一つだけ、余計なことかもしれませんが」


「何でしょう」


「あまり、深入りしすぎないよう、お気をつけください。相手の正体が分からないうちは、油断は禁物です」


 その忠告に、青山は静かに頷いた。レイナの心配は、もっともなものだった。


 その日の午後、青山は市場を歩いている最中、再びエリスと出くわした。


「あら、青山さん。またお会いできましたね」


 偶然にしては、少し出来過ぎているようにも思えたが、この街の商業区画はそう広くない。行商人や商人たちが、日に何度も顔を合わせることも、珍しくはなかった。


「エリスさん。先日は、失礼いたしました」


「いいえ、こちらこそ。……実は、少しお時間があれば、改めてお話ししたいと思っていたんです。近くに、静かに話せる場所があるのですが」


 青山は、少し逡巡した。だが、これも情報を得る機会だと考え、その誘いを受けることにした。


 案内されたのは、市場から少し外れた場所にある、こぢんまりとした茶房だった。落ち着いた内装の店内で、二人は向かい合って腰を下ろした。


「単刀直入に伺います。私に、何かご相談があるとのことでしたが」


 青山が切り出すと、エリスは、穏やかな笑みを浮かべた。


「実は、ある取引について、あなたの意見を伺いたいんです。青山さんの評判は、以前から耳にしていました。慎重で、しかも確かな目を持っている、と」


 エリスは、懐から一枚の書類を取り出し、テーブルの上に広げた。


「これは、ある商会の合併に関する契約案です。私が仲介に入っているのですが、双方の利害が複雑に絡み合っていて……第三者の、それも公平な視点からの意見が欲しいんです」


 青山は、その契約書に目を通した。複数の商会が関わる、かなり複雑な内容だった。出資比率、利益配分、経営権の所在。一つ一つの条項を、青山は丁寧に読み解いていった。


 通常であれば、これほど複数の利害関係者が絡む契約には、必ずどこかに、力関係の偏りが生じるものだ。声の大きい商会が有利な条件を勝ち取り、弱い立場の商会が皺寄せを受ける――それが、青山がこれまで見てきた、複雑な契約の常だった。


 だが、目の前の契約書には、そうした偏りが見当たらなかった。出資額に応じた利益配分は、誰の目にも公平に見える比率で設計されており、経営権についても、特定の一社に権限が集中しないよう、細やかな配慮が施されている。まるで、関係する全ての当事者の顔を思い浮かべながら、一人ひとりの利害を丁寧に汲み取って作り上げたかのような、そんな緻密さがあった。


 いくら読み進めても、明確な矛盾や、一方的に不利な条項が見当たらない。むしろ、関係する全ての商会にとって、それぞれ相応の利益が確保されるよう、緻密に設計されているように見えた。


「――どこか、引っかかる点はありましたか」


 エリスが、興味深そうに尋ねてきた。


 青山は、正直に答えることにした。


「率直に申し上げて、見当たりません。これほど複雑な利害関係を、これほど公平にまとめ上げた契約書は、なかなか見たことがありません」


「それは、光栄なお言葉ですね」


「ですが」


 青山は、言葉を続けた。


「これほど"完璧"に見える契約書ほど、慎重に扱うべきだとも思っています。矛盾がないということは、裏を返せば、矛盾を見つけさせないだけの技術が、そこに注ぎ込まれているということでもありますから」


 エリスは、その言葉に、一瞬、目を細めた。それは、驚きなのか、それとも別の何かなのか、青山には読み取れなかった。


「面白い見方をされますね。……普通の方は、条件の良さに満足して、それ以上、深く考えようとはしないものですが」


「私は、前世――いえ、以前の仕事で、条件の良さに油断して、大きな失敗をしたことがあるので」


 青山は、詳細を語ることは避けつつも、そう答えた。


「なるほど。それが、あなたの慎重さの理由なのですね」


 エリスは、静かにそう呟いた。その声色には、皮肉や試すような響きではなく、どこか理解を示すような、柔らかな響きがあった。


「差し支えなければ、エリスさんご自身のことも、少し伺ってもよろしいですか。王都から、こちらへは、どういった経緯で?」


「――それは、また今度、機会があれば」


 エリスは、柔らかく微笑みながらも、その質問には、はっきりと一線を引くように答えた。踏み込まれることを、やんわりと、しかし確実に拒む態度だった。


「失礼しました。無理に伺うつもりはありません」


「いいえ、気にしないでください。誰にでも、簡単には語れない事情の一つや二つ、あるものですから」


 その言葉に、青山は思わず、自分自身の境遇と重ね合わせずにはいられなかった。素性を明かさず、それでも誠実であろうとする姿勢。それは、青山自身が、この世界に来てから、ずっと貫いてきた在り方と、どこか似通っているようにも思えた。


 茶房を後にした青山は、夕暮れの街を歩きながら、今日のやり取りを、改めて反芻していた。


(結局、何一つ、確かな手がかりは掴めなかった)


 エリスの言動、契約書の内容、そのどちらにも、明確な矛盾は見出せなかった。それどころか、エリス自身の受け答えは、青山の指摘に対しても、真摯に耳を傾けているようにさえ見えた。


(俺の【査定眼】は、本当に万能ではないのかもしれない)


 これまで、この力は、多くの局面で青山を助けてきた。だが、今回のように、対象そのものが、あまりに精緻に作り込まれている場合、その力が通用しない可能性がある。それは、かつて自分自身が導き出していた、【査定眼】の限界そのものだった。


 思い返せば、この力を初めて自覚した第4話の夜、青山は既に、この限界について、自分自身に言い聞かせていたはずだった。「矛盾のない、完璧に作り込まれた嘘には、通用しないかもしれない」――あの時の予感が、今、まさに現実のものとして、目の前に立ちはだかっていた。


(力に頼りきってはいけない。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに)


 いざ、その力が通用しない相手を前にして、青山は、自分でも意外なほどの動揺を覚えていた。これまで積み上げてきた自信が、根底から揺さぶられるような感覚だった。投資詐欺の一件も、偽造証明書の一件も、最終的には、この力が示す違和感が、解決の糸口になっていた。その拠り所が、初めて機能しない状況に置かれ、青山は、自分がどれほどこの力に依存していたかを、改めて思い知らされていた。


 だが、その動揺の裏で、青山の中には、もう一つの感情も芽生えていた。


(――なぜだろう。嫌な感じが、しない)


 エリスという人物に対して、警戒すべき理由は、確かにいくつも存在する。素性の不明瞭さ、あまりに完璧すぎる言動。それでも、彼女と対話する中で感じたのは、敵意や作為ではなく、むしろ、どこか懐かしいような、奇妙な親近感だった。


 それは、単なる好意とも違う、もっと複雑な感覚だった。あるいは、これほどまでに徹底して隙を見せない人物だからこそ、逆に、その裏に何か、青山自身にも通じるものがあるのではないか――そんな漠然とした予感が、青山の胸の奥に、そっと芽生えていた。


(この感覚こそが、一番、警戒すべきものなのかもしれない)


 相手に好感を抱くこと自体は、決して悪いことではない。だが、その好感が、冷静な判断を鈍らせる引き金になり得ることを、青山は知っていた。前世で、地面師詐欺のコンサルタントに対して抱いた、あの「感じの良さ」への油断。同じ轍を、二度と踏むわけにはいかなかった。


 夜の帳が下り始めたカルドナの街で、青山は、自分自身の中に生まれた、新しい種類の警戒心と向き合っていた。相手を疑うための警戒ではなく、自分自身の判断力を疑うための警戒。それは、これまでの経験では、まだ十分に鍛えられていない、新しい種類の慎重さだった。


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