第22話 完璧すぎる話
第22話 完璧すぎる話
偽造証明書事件から数日後、青山はギルドからの依頼で、街の商業区画にある一軒の店を訪れていた。
依頼の内容は、新規に開業する雑貨店の在庫契約書を確認してほしいという、ごく簡単なものだった。店主から書類を受け取り、目を通していると、隣の席で商談をしていた別の客の声が、ふと耳に届いた。
「――ですので、この条件でしたら、双方にとって、これ以上ないほど公正な取引になるかと思います」
落ち着いた、それでいて芯の通った声だった。青山は自然と、そちらへ視線を向けた。
声の主は、一人の若い女性だった。艶やかな黒髪を後ろで一つに結い、洗練された身なりをしている。商談相手の初老の商人は、彼女の説明に、何度も感心したように頷いていた。
「いやはや、こんなに条件のいい話は、初めてですよ。仕入れ値は据え置きのまま、販路まで広げていただけるとは」
「私どもとしても、双方が長く良い関係を築けることが、何よりの利益ですから」
女性は、柔らかく微笑んだ。その笑顔には、作為めいたものは、微塵も感じられなかった。
青山は、自分の依頼をこなしながらも、無意識のうちに、その商談の様子を観察していた。前世からの職業病とも言える習性が、また顔を出していた。
(――随分と、出来過ぎた話だな)
仕入れ値を変えずに販路を拡大する。それは、口で言うほど簡単なことではない。通常であれば、どこかに何らかの負担や条件が発生するはずだ。仕入れ元との交渉で無理を通しているのか、あるいは、女性の側が別の場所で損を被る構造になっているのか。何かしらの"歪み"が、必ずどこかに存在するはずだった。だが、女性の説明には、そうした皺寄せの気配が、まるで感じられなかった。
商人はさらに、契約の細部について質問を重ねていたが、エリスはそのどれに対しても、澱みなく、しかも具体的な数字を交えて答えていった。在庫の回転率、季節ごとの需要変動、輸送にかかる日数まで、まるで暗記しているかのように、正確な受け答えが続く。
青山は、自分の【査定眼】に意識を集中させた。これまで、多くの詐欺や不正な契約に触れてきた経験から、青山のその感覚は、条件が良すぎる話や、不自然な言葉の運びに対して、鋭く反応するようになっていた。
だが――。
(何も、引っかからない)
これまでにない感覚だった。契約内容そのものは、確かに好条件だ。だが、その裏に隠された矛盾や、不自然な誘導の気配が、一切見当たらない。まるで、透明な水を覗き込むように、澄み切った説明だった。
(それとも――完璧すぎることそのものが、違和感なのか)
青山の中で、奇妙な緊張が生まれていた。これまで出会ってきた詐欺師たちは、皆、どこかに綻びを持っていた。言葉の端々、視線の動き、契約書の条項。だが、目の前の女性からは、そうした綻びが、一つとして見つけられない。
商談は、程なくして和やかに終わった。女性は商人に丁寧に礼を告げ、席を立った。その所作の一つ一つにも、無駄がなく、洗練された印象があった。長年、多くの人と対峙してきた者だけが持つ、独特の落ち着きが、その立ち居振る舞いから滲み出ていた。
その帰り際、女性の視線が、ふと青山の方へと向いた。
「――何か、気になることでも?」
女性は、青山の視線に気づいていたようだった。柔らかな声で、そう尋ねてくる。見つめていたことを咎めるでもなく、むしろ、少し面白がっているようにも見える口調だった。
「いえ、失礼しました。素晴らしい商談をされていたので、つい」
「あら、聞こえていましたか。恥ずかしいところをお見せしましたね」
女性は、悪びれる様子もなく、微笑んだ。その表情には、動揺も、取り繕うような硬さも、一切見られなかった。
「よろしければ、少しお話ししませんか。あなたのことも、少し噂で伺っています」
「――噂、ですか」
「投資詐欺の一件、偽造証明書の摘発。この街で、随分と評判になっていますよ。慎重で、目端の利く方だと」
青山の中で、警戒信号が、静かに、しかし確かに灯った。
(俺のことを知っている。それも、初対面のはずのこの場で)
もちろん、これだけの功績があれば、街の一部で名前が知られるのは、不思議なことではない。だが、これほど自然な流れで、その情報を会話に織り込んでくる手際の良さに、青山は改めて、この女性への興味と警戒を強めていた。相手の警戒を解くために、あえて相手のことをよく知っていると示す――それもまた、詐欺師がよく使う手口の一つだと、青山は経験から知っていた。だが、エリスの態度には、そうした計算高さを匂わせる素振りすら、見当たらなかった。
「申し遅れました。エリス、と申します」
女性――エリスは、そう名乗ると、優雅に一礼した。
「青山です」
「存じております。……青山さん、もしお時間があれば、今度改めて、お話しする機会をいただけませんか。実は、あなたのような方に、ぜひご相談したいことがあるんです」
「相談、ですか」
「ええ。詳しいことは、また改めて。今日のところは、これで失礼いたしますね」
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
青山は、去ろうとするエリスを、静かに呼び止めた。
「先ほどの商談ですが……仕入れ値を据え置いたまま販路を広げるというのは、失礼ながら、そちら側にとって、あまりに割に合わない条件のように見えました。何か、理由があるのでしょうか」
エリスは、一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、どこか楽しげに微笑んだ。
「やはり、噂通りの方ですね。……そうですね、種明かしをするなら、私にとっての利益は、この場では見えない部分にあります。あの商人が、今後、別の取引先を紹介してくれることになっていましてね。目先の利益よりも、長い目で見た信頼関係を選んだ、というだけのことです」
その説明は、実に筋が通っていた。青山の中の違和感が、少しだけ和らぐ。だが、完全に消えたわけではなかった。
「なるほど。ご丁寧に、ありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ、興味を持っていただけて、光栄です」
エリスは、そう言い残すと、軽やかな足取りで、店を後にしていった。その後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、青山は無意識のうちに、視線で追い続けていた。
残された青山は、しばらくその後ろ姿を見つめていた。
(相談したいこと、か)
その言葉の真意が、青山にはまだ読めなかった。だが、少なくとも一つ、確かなことがあった。エリスという女性は、これまで青山が出会ってきた、どの相手とも違う種類の存在だということだった。
依頼の書類確認を終えた青山は、店を出ながら、ふと、以前カルドナで耳にした噂話を思い出していた。王都から流れてきたという、鮮やかすぎる仲介屋の噂。あの噂と、目の前のエリスという人物が、青山の中で、静かに重なり始めていた。
(あの噂の主が、この人物なのだとしたら)
善悪入り混じった評判。相手の欲しいものを、心を読んだように言い当てる手腕。今日の商談を見た限りでは、確かにその手腕の一端を、垣間見た気がした。
思い返せば、あの日、酒場で聞いた男の言葉には、こんな一節もあった。「困ってる商人を助けたとか、潰れかけてた店を立て直してやったとか、そういう美談も一緒に流れてくる」――今日の商談も、傍から見れば、間違いなく、その"美談"の一つに数えられるだろう。仕入れ元の商人にとっては、これ以上ないほど有利な条件が示されたのだから。
だが、青山の中には、拭いきれない違和感が残っていた。良い話には、必ずどこかに理由がある。エリスにとって、この商談にどんな利益があるのか。それが、青山にはまだ、まったく見えていなかった。
夕暮れの街を歩きながら、青山は、これまでにない緊張感を胸に抱いていた。相手の言動に矛盾が見つからないという事実そのものが、これほどまでに落ち着かない感覚をもたらすとは、青山自身、思ってもみなかった。
これまで出会ってきた相手は、程度の差こそあれ、必ずどこかに"人間らしい"綻びを持っていた。欲、焦り、見栄、あるいは単純な不注意。だが、エリスという人物からは、そうした綻びが、まるで見つからない。それは、彼女が完璧な人格者であることの証なのか、それとも――綻びを見せないための、卓越した技術を持っているということなのか。
(――次に会う時までに、できる限りの情報を集めておこう)
完璧に見える相手ほど、慎重に向き合う必要がある。それは、青山がこれまでの経験から、身をもって学んできたことだった。地面師詐欺の主犯格たちもまた、初対面の印象だけを見れば、実に如才なく、隙のない人物として振る舞っていたはずだ。あの記憶が、青山の警戒心を、静かに、しかし確実に研ぎ澄ませていた。
その日の夜、宿の部屋に戻った青山は、寝台に腰掛けながら、改めて今日の出来事を反芻していた。エリスという人物について、まだ分かっていることはあまりに少ない。名前、王都から流れてきたらしいという噂、そして、卓越した交渉の手腕。これだけの情報で、彼女の正体を見極めることは、到底できそうになかった。
(明日、レイナさんに相談してみよう。エリスという名前に、何か心当たりがあるかもしれない)
窓の外に広がる夜空を見つめながら、青山は、これから始まるかもしれない、新たな関わりの予感に、静かに身を引き締めていた。相手が敵か、味方か、あるいはそのどちらでもない何かなのか。その答えはまだ、遠い霧の向こうにあった。




