第20話 廃倉庫の職人
三日間、青山は準備に費やした。
昼間の依頼の合間を縫って、街の外れにある廃倉庫街の様子を、それとなく下見に訪れた。廃倉庫の周囲には、他にも打ち捨てられた建物が点在しており、人通りはほとんどない。出入り口は正面と裏手の二箇所。裏手は資材の搬入用らしく、大きな観音開きの扉が設けられている。
下見の合間、青山はレイナのもとにも足を運び、これまでの経緯を細かく報告した。ギルド側でも、独自に過去の証明書発行記録を洗い直し、疑わしい様式のものがないか、確認を進めているという。
「もし、この一件が思っていた以上に大きな組織だったとしたら……この街だけの問題では、済まないかもしれませんね」
レイナのその言葉に、青山も静かに頷いた。証明書という、身分や信用の根幹を支える仕組みそのものが、根底から揺らいでいるのだとすれば、それは、この街の経済活動全体に関わる問題だった。
衛兵たちとも、事前に落ち合う場所と合図を取り決めた。危険を感じた際には、懐に忍ばせた笛を吹くこと。それが、助けを呼ぶ合図になる。
「無理はするなよ」
衛兵の一人から、そう念を押された。青山は頷きながらも、心のどこかで、覚悟を固めていた。
(相手の全貌を掴めるかどうかは、今夜にかかっている)
約束の夜、青山は指定された廃倉庫へと向かった。月明かりの下、朽ちかけた建物のシルエットが、不気味に浮かび上がっている。正面の扉は固く閉ざされていたが、裏手に回ると、あの路地裏の男が、既に待ち構えていた。
「よく来たな。こっちだ」
男に案内され、青山は倉庫の中へと足を踏み入れた。
内部は、外観からは想像もつかないほど、整然としていた。壁際には作業台がいくつも並び、その上には、羊皮紙の束や、彫刻刀のような細かな道具、そして見慣れない染料の瓶が、所狭しと置かれている。壁に立てかけられた棚には、大小さまざまな金属の型が、丁寧に並べられていた。ランプの明かりに照らされたそれらは、まるで職人の仕事場のような、奇妙な秩序を保っている。
(――これは、想像していた以上の規模だ)
単なる裏取引の場ではなく、明らかに"工房"として機能している空間だった。奥まった一角には、簡易な炉のようなものまで設置されている。金属の型を熱し、加工するためのものだろうと、青山は推測した。炉の傍らには、使い込まれた金槌や鑢も置かれており、この場所が、決して一朝一夕で作り上げられたものではないことを物語っていた。
「おう、噂の兄さんかい」
作業台の一つから、しわがれた声が響いた。振り返ると、初老の男が、彫刻刀を片手に、こちらを見つめていた。目つきは鋭く、長年の細かな作業で鍛えられたのであろう、指先には無数の傷跡が刻まれている。
「あんたが、証明書に興味を持ってるって聞いてな。名前は聞かなくていい。ここじゃ、名乗る習慣はないんでな」
「承知しています」
青山は、努めて冷静な態度を保ちながら、老人の様子を観察した。話しぶりには、隠すことのない自信が滲んでいる。それは、自らの技術に対する、職人としての誇りのようにも見えた。
「せっかく来たんだ、仕事ぶりを見ていくといい」
老人はそう言うと、作業台の上に置かれた一枚の証明書――まだ未完成のものらしい――を手に取った。
「この街のギルドの紋章は、もう百回以上は彫ってきた。最初の頃は、型のわずかな歪みにも苦労したもんだが、今じゃ、この通りだ」
老人は、彫刻刀を動かしながら、慣れた手つきで、細かな模様を刻み込んでいく。その技術は、確かに熟練したものだった。だが、青山の目には、その手元にもまた、僅かな粗が見て取れた。
(型そのものの精度が、まだ完全ではない。だからこそ、天秤の傾きに、あの僅かなズレが生じる)
青山は、あえて感心したような表情を作りながら、老人に問いかけた。
「これほどの技術をお持ちなのに、なぜ、こうした形で?」
老人の手が、一瞬止まった。
「――若い頃、正規のギルドで、紋章彫りの見習いをしていたことがあってな。だが、腕はあっても、生まれや血筋がものを言う世界だった。どれだけ精巧な仕事をしても、日の目を見ることはなかった」
その声には、隠しきれない苦さが滲んでいた。
「才覚のある若い連中が、次々と要職に就いていく傍らで、俺はいつまでも下働きのままだった。挙句、目が悪くなったとか、腕が鈍ったとか、あることないこと言われて、追い出されちまった。……笑えるだろう。今の俺の腕を見りゃ、誰だって分かるはずなのにな」
「今じゃ、こっちの方が、よっぽど俺の腕を評価してくれるよ。金払いもいいしな」
青山は、その言葉に、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。老人の技術そのものに対する矜持と、それが不正な形でしか発揮できなかった悔しさ。その両方が、老人の言葉の端々から滲み出ていた。
前世でも、似たような話を聞いたことがある。優れた能力を持ちながら、組織の中の理不尽な事情によって、正当な評価を得られなかった人間が、いつしか道を外れていく。それは、決して珍しい話ではなかった。だからといって、その事情が、不正そのものを正当化する理由にはならない。青山はそのことを、自分の中で、はっきりと線引きしていた。
(だが、事情に同情することと、この不正を見過ごすことは、別問題だ)
青山は、静かに気持ちを切り替えた。
「今後、私が中級の証明書を得るには、どのような手順を?」
「路地裏の奴に、金を渡せばいい。あとは、俺がここで仕上げて、数日後に受け渡しだ」
「その"路地裏の奴"以外にも、仲介役はいるのですか。この規模の仕事となると、一人では捌ききれないのでは」
老人は、少し訝しげな顔をした。
「随分、いろいろ聞いてくるな」
「せっかくの取引です。信頼できる相手かどうか、見極めたいだけです」
青山は、あくまで慎重な出資者を装いながら、そう答えた。老人はしばらく青山を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「まあ、いいだろう。仲介は、あいつの他にも、街に何人かいる。それぞれが、別々の客を捕まえてくる仕組みだ。俺は、ここでひたすら仕事をこなすだけさ」
「その仲介役同士は、互いに顔見知りなんですか」
「いや、それぞれ別々に俺のところへ繋がっているだけだ。お互いのことは、ほとんど知らねえはずだよ。その方が、万が一の時にも、芋づる式に捕まる心配が少ないからな」
その説明に、青山は内心で唸った。仲介役たちを、あえて互いに孤立させることで、組織全体が発覚するリスクを分散させている。単純な仕組みでありながら、実に巧妙な構造だった。
(複数の仲介役――つまり、想像していたよりも広い範囲に、この組織の触手が伸びているということか)
この情報は、決定的な手がかりだった。単に一人の職人を捕らえるだけでは、末端の仲介役たちが、また新たな職人を見つけて、同じことを繰り返しかねない。組織全体の構造を、可能な限り明らかにしておく必要があった。
「今夜のところは、これで失礼します。改めて、金の準備をしてから伺います」
青山は、そう告げて、その場を後にしようとした。
だが、扉に向かいかけたところで、背後から、路地裏の男の声が響いた。
「――待てよ、兄さん。さっきから、随分と根掘り葉掘り聞くじゃねえか。まさかとは思うが……あんた、例の"用心深い青山"とかいう奴じゃねえだろうな」
青山の背筋に、冷たいものが走った。
(――気づかれたか)
男の目つきが、明らかに変わっていた。老人もまた、彫刻刀を置き、こちらを警戒するように見つめている。
「そうだとしたら、どうする、というんですか」
青山は、あえて動揺を見せず、静かに問い返した。
「どうもこうも――」
男が言葉を発しかけた、その瞬間だった。
青山は、懐に忍ばせていた笛を、素早く取り出し、強く吹き鳴らした。甲高い音が、静まり返った廃倉庫街に響き渡る。
「なっ――」
男が驚愕の表情を浮かべる間もなく、倉庫の外から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。衛兵たちだった。
「動くな! 両手を上げろ!」
倉庫に踏み込んできた衛兵たちの声に、男と老人は、一瞬にして観念したような表情を浮かべた。逃げ場のない廃倉庫の中で、抵抗する術は残されていなかった。老人は、彫刻刀を静かに作業台へと置くと、抗うこともせず、ただ黙って両手を挙げた。その様子には、どこか、長年抱えてきた重荷を下ろしたような、奇妙な静けささえ感じられた。
青山は、緊張の糸が緩んでいくのを感じながら、静かに息をついた。
(間一髪だった……だが、これで、組織の中枢の一端を掴むことができた)
老人の技術、複数存在する仲介役、そしてこの工房そのもの。今夜得られた情報は、投資詐欺の一件とは比較にならないほど、大きな成果だった。押収された型や道具の数々は、今後の証拠として、十分すぎるほどの重みを持つはずだった。
だが同時に、青山の胸には、複雑な思いも残っていた。老人が語った、正規の道を閉ざされた過去。その悔しさが、不正への加担へと繋がっていったという事実は、単純な善悪の図式だけでは、割り切れないものを、青山に突きつけていた。
(技術は、本物だった。それが、正しい場所で使われていれば――)
その"もしも"に、明確な答えは出せなかった。だが、少なくとも今、この工房が生み出す偽りの証明書が、これ以上、誰かを危険に晒すことがないよう、食い止めることはできた。
衛兵に連行されていく老人と男の背中を見送りながら、青山は、この一件の結末を、静かに見届けていた。老人が最後に一度だけ振り返り、青山の方を見た気がしたが、その表情に何が浮かんでいたのか、月明かりの薄闇の中では、はっきりと読み取ることはできなかった。




