第15話 条項の歪み
宿の部屋に戻った青山は、ランプの明かりを頼りに、ヴォルグから渡された投資契約の写しを、机の上に広げた。
説明会の場では、口頭での説明ばかりが先行し、契約書そのものにじっくり目を通す時間はなかった。だが今、静かな部屋の中で改めて向き合うと、この一枚の羊皮紙には、説明会の熱気からは想像もつかないほど、冷ややかな条文が並んでいることに気づく。
青山は一条ずつ、丁寧に読み進めていった。
第一条、出資金の使途について。「原石の仕入れ及び触媒の製造に充当する」とだけ記され、原石代と触媒の材料費の内訳、資金の管理方法についての記載は一切ない。
第二条、利益の配分について。「変成後の魔鉱石が売却された場合、その売却益から出資額に応じた分配を行う」とある。だが、"売却された場合"という条件が、いつ、どこで、誰の手によって行われるのかについては、一切触れられていない。
第三条――青山の指先が、そこで止まった。
「本契約における一切の損害について、製造者セルジオはその責を負わない。出資者は、これを承知の上で出資を行うものとする」
青山は、その一文を、何度も読み返した。
(――これは)
利益は保証されているように語られる一方で、損害については、製造者側が一切の責任を免れる条項が、明確に盛り込まれている。仮に変成が失敗し、あるいは魔鉱石が一向に売却されなかったとしても、契約上、セルジオを追及する手段は残されていない。
前世で、青山は何百通という不動産関連の契約書に目を通してきた。免責条項そのものは、決して珍しいものではない。だが、その位置付けが問題だった。まっとうな契約であれば、免責の範囲は明確に限定され、利益と損失のリスクは、双方である程度公平に分担されるよう設計されているものだ。今、目の前にあるこの契約書は、その均衡が、あからさまに一方へ傾いていた。
さらに読み進めると、第四条には、こうも記されていた。
「出資後の返金は、いかなる理由があっても認められない」
返金不可。損害の免責。そして、売却の時期・相手は、製造者側の裁量に委ねられている。
(この三つが揃った時点で、もう答えは出ているようなものだ)
青山の【査定眼】は、この契約書全体に、明確な違和感の連鎖を示していた。個々の条項だけを見れば、商慣習として珍しくないと言い張ることもできるかもしれない。だが、これらが組み合わさったとき、この契約は、出資者側にとって、あまりにも一方的な内容になっていた。
利益が出れば「変成の成功」として喧伝され、損失が出れば「出資者の自己責任」として片付けられる。都合の良い結果だけを自分の手柄にし、都合の悪い結果からは一切の責任を切り離す――その構造は、前世で青山を苦しめた地面師詐欺の資金の流れと、恐ろしいほどよく似ていた。
青山は羊皮紙を丁寧に折り畳み、窓の外に広がる夜空を見上げた。
(明日、はっきりと断りを入れよう。ただし――)
ただ断るだけでは、根本的な解決にはならない。この場限りの出資話を見送ったところで、セルジオとヴォルグは、また別の誰かに同じ話を持ちかけるだけだろう。あの会場に集まっていた、期待に目を輝かせていた人々の顔が、青山の脳裏に浮かんだ。
(俺一人が逃れても、意味がない)
その考えが、青山の中で、次第に明確な決意へと変わっていった。
だが、証拠もなくセルジオやヴォルグを詐欺師と決めつけ、大声で糾弾するようなことをすれば、それこそ自分自身が根拠のない中傷をする側に回ってしまう。契約書の条文という、動かしようのない事実に基づいて、静かに、しかし確実に反論する。それが、青山にできる、最も確実なやり方だった。
青山は一晩かけて、契約書の問題点を、頭の中で一つずつ整理し直した。損害の免責、返金の不可、成果判定基準の曖昧さ。それぞれの条文が、具体的にどのような場面で出資者に不利に働くのか。想定される反論に対して、どう切り返すべきか。眠りにつく前の数時間を、青山はそのために費やした。
翌日の昼前、約束通り、ヴォルグが青山の宿を訪ねてきた。柔和な笑みを浮かべてはいるが、その目の奥には、昨日よりも幾分か鋭い光が宿っているように見えた。
「青山さん、お考えはまとまりましたか。実を言うと、他の出資希望者からも、この機会を逃したくないという声が多くて。今日中に、ぜひご決断をいただきたいのですが」
「昨夜、契約書を拝見しました。いくつか、確認させていただきたい点があります」
青山は、折り畳んだ羊皮紙を取り出しながら、静かに切り出した。
「第三条にある、損害についての免責条項について。仮に変成が期待通りに進まなかった場合、あるいは魔鉱石が売却できなかった場合、出資者は一切の補償を受けられない、という理解でよろしいですか」
ヴォルグの表情に、わずかな翳りが差した。
「それは……あくまで、万が一の場合の話でして。実際には、これまでの試験運用で、確かな成果が――」
「その"成果"についても、確認させていただきたいのですが。第二条にある、"売却された場合"という条件は、具体的に、いつ、どこで、誰の手によって果たされるのでしょうか」
「それは、セルジオ殿の伝手を通じて、しかるべき筋に」
「つまり、売却そのものの時期や相手についても、利益を得る側であるセルジオ殿の裁量に、全て委ねられているということですね」
ヴォルグは、しばし言葉に詰まった。
「……青山さん、そういった細かい点を突き詰めれば、どのような契約にも、多少の曖昧さは残るものです。それを理由に、せっかくの機会を見送るのは、いささか勿体ないのではありませんか」
「多少の曖昧さ、とは思えません」
青山は、はっきりと言い切った。
「損害の免責、返金の不可、そして売却の時期や相手が、利益を得る側の裁量に完全に委ねられている。この三点が揃った契約に、私は出資することはできません」
「では、青山さんは、セルジオ殿の変成技術そのものを疑っていると?」
「技術の真偽については、私には判断のしようがありません。ですが、この契約書の条文が、出資者にとって著しく不利な内容になっていることだけは、はっきりと申し上げられます。もし本当に確かな変成技術と売却先があるのなら、これほど一方的な条件を出資者に課す必要はないはずです」
ヴォルグの顔から、笑みが消えた。
「――残念です。今日を逃せば、この話は二度とないと思っていただいて結構です」
「それで構いません」
青山は、静かに、しかし迷いなく答えた。
「今回は、見送らせていただきます」
ヴォルグはしばらく無言で青山を見つめていたが、やがて小さく舌打ちをすると、それ以上何も言わずに、宿を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、青山は静かに息をついた。
(一晩の保留どころか、完全に断ることになったが……これで良かったのだろう)
もっとも、これで全てが終わったわけではない。ヴォルグの態度の急変、そして舌打ちに滲んでいた明確な苛立ちは、この話が、決して善意だけで進められていたものではないことを、如実に物語っていた。
(あの説明会に集まっていた人たちは、どうなるだろうか)
青山の脳裏には、あの興奮した面持ちで話を聞いていた商人たちの顔が浮かんでいた。自分一人がこの話から抜けたところで、他の出資者たちの決断までは変えられない。隣で肘を突いてきた恰幅の良い商人も、壁際で醒めた目をしていた老人も、それぞれの判断で、この話とどう向き合うかを決めるだろう。
だが、放っておいていいはずもなかった。
地面師詐欺の被害に遭ったとき、青山を最も苦しめたのは、金銭的な損失そのものだけではなかった。「もっと早く、誰かが気づいて止めてくれていれば」という、行き場のない後悔だった。自分がその立場になり得たかもしれないと考えると、青山の中で、見過ごすという選択肢は、初めから存在していなかった。
青山は、レイナのもとを訪ね、この一件について相談することを決めた。もし、セルジオとヴォルグの過去に、何か手がかりがあるとすれば――この街の外にも、目を向ける必要があるかもしれない。ヴォルグが最後に見せた苛立ちの色を思い返しながら、青山はこの一件が、単なる一度限りの企みではないという予感を、拭いきれずにいた。




